黒バス | ナノ






 503号室の地縛霊こと、黒子っちとの奇妙な同居生活が始まって1カ月が過ぎようとしていた。
 相変わらず帰宅すると部屋でテレビを見ている黒子っちと夜を一緒に過ごして、目が覚めるといつの間にかいなくなっている彼との生活はとても居心地が良かった。彼が人間ではないからだろうか、今まで接したどの人間よりも気を許すことが出来たし、飾らずにいることが出来た。モデルという見られることが仕事である職業に従事していることもあり、たとえオフの日であっても周囲の目を意識する習慣がついてしまっているオレにとって、彼との時間はかけがえのないものだった。

「幽霊ってご飯食べないの?」
「食べません。死んでるので栄養も必要ありませんし」
「でも、オレが食べるのよく見てるっスよね」
「黄瀬君はとてもおいしそうに食べるから、いいなとは思うんです。生前は食べていましたし」
「何が好きだったの?」
「そうですね……。バニラシェイクが好きでした」

 テレビを見る彼の横で夕飯を食べて、言葉を交わす。思ったことを率直に口にする彼の言葉は新鮮で、そんな何気ない会話の一つ一つが楽しかった。
 気が付けば、仕事で悩んでいたことが嘘のように霧散して居て、今では何であんなことで悩んでいたのだろうとさえ思う。オレはオレでしかないから、悩んだってなるようにしかならない。好きで続けている仕事だ、やりたいと言う気持ちがあるのだから、有難くやらせてもらおうと思う。少しずつ増え始めた演技の仕事は初めてで慣れないことも分からないこともたくさんあったが、それが却って楽しかった。
 今日の仕事の話をすると、黒子っちは楽しそうに頷きながら話を聞いてくれる。それがオレも嬉しいから、なるべく彼との時間を作りたくて、仕事量は増えたが他の時間を削って家にいる時間を増やした。仕事が終われば遊びや打ち上げの誘いも断り、家路を急ぐ。
 自室である503号室のドアを開ければ、黒子っちがテレビから視線をそらして、体育座りのままで「おかえりなさい」、と言ってくれる。
 彼女が無理矢理押しかけてきて半同棲みたいになったことはあったが、その時の感覚とは全然違う。パーソナルスペースを無理矢理侵食される不快さは全く感じられず、空気のようにそこにいて水のように冷たく心地よいその存在感は、一緒に居ることの方が自然だとさえ思えるほどで。

「今日は演技でだめ出しくらったんス」

 そう言って泣いた真似をしてみせると、はいはい、と言いながらオレの頭を撫でてくれる。最初こそ嘘泣きに騙されてくれていたが、回数を重ねすぎて最近では軽くいなされるようになってしまった。それでも頭を撫でてくれる黒子っちはやっぱり優しいし、甘いと思う。

「彼女に溺れる大学生の役でしたっけ?」
「そうなんスけど……。恋に溺れるって言う感覚がいまいち分からなくて」
「先月まで彼女がいたじゃないですか。その子のことを思い出せばいいんじゃないですか」
「うーん……。あの時はかわいいし好きかなって思って付き合ってたんスけど、今となっては顔もよく思い出せないんスよね。昔からそうで、言い寄ってくる女の子と付き合ってきたから、自分から告ったことないし」
「しんでください」
「死んだら黒子っちのお仲間っスね!」



 黒子っちの言葉は飾らなくて真っ直ぐだから、ひどいことも言われるけど、それでもそこに愛情がある(とオレは思っている)から何を言われても嬉しい。こんなことを他人、じゃなくて他霊? に思うのは初めてだった。
 そう、彼は幽霊なのだ。
 あまりに自然だから時たま忘れるのだが、彼はこの部屋の地縛霊である。黒子っちと出会ったばかりの時に調べたことがあるのだが、死んだことを受け入れられなかったり理解出来ないで、死んだ場所に居座り続ける霊のことをそう呼ぶらしい。と言うことは、黒子っちはこの部屋で死んだのだろうか。そんないわくつき物件だなんて全く聞いていない。あの不動産屋め、今度文句言ってやる。
 黒子っちは自分のことを地縛霊だと言う。自らの死は理解しているのだ。分かりにくくはあるが、意外と表情豊かな黒子っちが、この世に未練を残しているのだとしたら、それを何とかしてやりたい気持ちはある。あるのだが、もし、この世への未練を失くしてしまったら彼はどうなるのか。成仏して、この部屋から消えて、そしてオレは一人でこの部屋での生活を続けることのなるのだろうか。
 それを考えた時にオレの脳内を占めるのは、嫌だ、寂しい、と言うなんとも自分勝手な感情だった。
 それはきっと、彼にとって良いことであるのだろうに、エゴでそれをしない自分が嫌だった。他人には然程干渉しないのがスタンスだった。そのオレが、ここまで他人に情を移したのも初めてなのだ。
 そんなことばかりを、頭の中で延々と考え続ける。漠然とした感情なら読み取れると言っていた黒子っちが、オレの悩みの具体的内容に気がつかないように願うしかない。

「……黒子っちは好きな子とかいたんスか?」
「いましたよ」

 話の流れからポロリと零れたオレの疑問に、あっさりと答える黒子っちの返答に驚いた。
 幽霊だと言う所為もあるのかもしれないが、彼は非常にストイックで、性的欲求はもちろん色恋沙汰にも興味がありませんって顔をしているのだ。いや、直接聞いたことはないから、オレの勝手な印象なのだが。

「何ですか、その反応」
「いや、何て言うか……ちょっと意外だった」
「そうですか? ボクだって恋くらいします。正確には、今でもその子のことが好きで忘れられないんです」

 そう言って笑う黒子っちの笑顔は今まで見てきたどの笑顔とも違っていた。小さく幸せそうに笑う彼を見ていると心臓の奥の方がじくりと痛む。針で突き刺されたような小さな痛みが広がって、開いた小さな穴からどんどん血液が漏れていくみたいだ。
 花が綻ぶような優しいその表情が、誰のに向けられたものなのかなんて聞くまでもなくて、隣に居て、黒子っちを見ているのはこの世でオレだけなのに、それでも黒子っちが見ているのがオレではないと言う現実に打ちのめされそうになる。

「黄瀬君?」

 無意識に左胸を抑えたオレの様子に、黒子っちが心配そうにオレの名前を呼ぶ。
 何でもないっスと答えれば、また彼は笑うが、さきほどの色はもう消えていた。
 じくりじくりと痛む心臓から漏れだした血液が溜まって、どんどん流れて出していくものだから瘡蓋にもなってくれやしない。このまま鬱血して腐っていくのだろうか。
 その鈍い痛みと恐怖にも似た感情を持て余したまま、黒子っちの歌を聞きながら眠りについた。

 黒子っちには好きな人がいて、まだその人のことが好きでいると言っていた。
 地縛霊とは死んだことを受け入れられなかったり理解出来ないで、死んだ場所に居座り続ける霊のことをそう呼ぶらしい。自らの死を受け入れられない理由が、その子にあるのだとしたら、黒子っちがその子に思いを伝えるか、諦めることが出来れば、黒子っちは未練を断ち切ることができるのだろうか。
 自らの生が途切れて尚、誰かのことを思い続けている彼の気持ちがどれほどのものかはわからない。今までオレがしてきた恋は、可愛いから好きだなとか、向こうが好きだって言ってくれるからオレも好きかもしれないとか、そういうもので、別れてもその子のことを思い出したり、離れている時に彼女のことを思い出して思わず笑顔がこぼれたり、そんな種類のものではなかった。それらが恋じゃなかったとは言わないが、きっと、黒子っちが今その子に対して抱いている気持とはきっと種類が違う。なんとなくだけど、直感的にそう思った。
 黒子っちは幽霊だ。
 身体を繋げることも出来なければ、思いを伝えることすらできない。それでも、相手を思ってあれほど穏やかに笑えるだけの感情を未だ抱えている。
 いいなぁ、あんなに優しくて真っ直ぐで叱ってくれて支えてくれて慰めてくれて傍に居てくれる、そんな黒子っちに好かれているなんて。空気みたいに自然で他人のパーソナルスペースに入り込むのが上手で、それはきっと他人のことを良く見ているからで、他人のことを考えているから出来ることで、ふわりと笑う彼に大切に大切に思われているなんて、心底羨ましい、いいなぁ。
 心臓の奥の方がじくりと痛む。針で突き刺されたような小さな痛みが広がって、開いた小さな穴からどんどん血液が漏れていくみたいだ。じくりじくりと痛む心臓から漏れだした血液が溜まって、どんどん流れて出していくものだから瘡蓋にもなってくれやしない。このまま鬱血して腐っていくのだろうか。

「はいカット! 涼太、すごく良かったよ!」

 昨日はNG連発で今日に繰り越していたシーンが、一発で決まる。夢中で演じていたから、今自分がどんな風に動いてどんな感情を台詞に乗せたのかすら思い出せない。

「え、今ので良いんスか?」
「ああ、昨日が嘘みたいだよ! 昨日彼女に慰めてもらいでもしたのか? 今日の涼太は、完璧に切ない恋に身を焦がす男だったよ」

 切ない恋に身を焦がす男。
 昨晩、いつものように黒子っちの子守唄を聞きながら眠りについたのに、あまり良く寝付けなくて、浅い眠りの中で考えていたのは昨日の黒子っちとの会話のことばかりだった。
 目が覚めて当然のように黒子っちはそこにいなくて、でもしっかりと刻まれた感情が痛くて思考は靄がかかったようにぼんやりしているのに心拍ばかりが早くなる。あれでも一応、幽霊のはしくれだ。もしかしたら今頃になって、彼の呪いを受けてしまったんだろうか。
 その呪いに、その感情に、どのラベルを貼ればいいのか。唐突に与えられた感情とその答えに、急に視界が開けた気分だった。
 一緒に居るのが心地よくて、誰よりも何よりも大切にしたくて彼の幸せを願うのに、それよりもその心地よさを優先させようとする自分に嫌悪感を抱く。
 それは、今まで見てきた映画や小説の登場人物たちが持て余していた感情にそっくりで、オレ自身が経験してきた感情とは少しばかり趣を異にするものだった。

「彼女じゃなくて、好きな子っス」

 もうすぐ日が翳る。早く彼に会いたい。



「黒子っちただいま!」

 撮影が終わり、スタッフに挨拶だけして全速力で走った。一刻も早く会いたくて、気持ちばかりが焦ってもつれる足がもどかしい。ここ最近の運動不足を呪った。高校の時とまではいかなくても、もう少し身体を動かす様にしないとだめだな、と考えながら、駅の改札を抜けた。
 人混みをすり抜けて、エレベーターを待つ時間もじれったくて階段を駆け上る。がちゃがちゃと忙しない音を立てて鍵を開けるオレに驚いたのだろう、黒子っちは夏空色の目を見開いて、一拍置いてからただいま、と返してくれた。

「おかえりなさい。どうしたんですか、そんなに慌てて」

 ぜぇぜぇと肩で息をして額から汗を流すオレのことをうちわで扇ぎながら、黒子っちは何かありましたか? と聞いてきた。
 あった、あったんだよ、と早く伝えたいのに上がる呼吸の所為で上手く紡げない。
 付けっ放しのテレビからは、先日発売されたばかりの人気アイドルの新曲が流れてきていた。君を思うと胸が苦しくてとても幸せ、というフレーズに共感できると思ったのは初めてのことだ。

「あのね、あのね黒子っち、オレね、」
「はい」

 うちわ越しに見える黒子っちが優しく笑ってくれる。いつだって彼はここにいて、こうしてオレの話を聞いて、受け入れてくれる。
 彼に好きな人がいたって、今はそれでいい。幽霊だってなんだって、ここにいて、彼が笑ってくれれば。先のことはわからない。オレは欲張り出し、もっと色んなことを欲しがるかもしれない。でも、黒子っちのことを好きになれたことが、今はこんなにも嬉しいから、彼にそれを伝えたい。

「好きな人が出来たよ」

 伝えたい気持ちはたくさんあるのに、言葉が出てこない。
 やっとの思いでそれだけ口にすると、黒子っちは目尻を下げて泣いてるみたいに小さく笑った。

「そうですか」
「うん、やっと気付けた。恋がこんなに幸せなものだなんて思ってなかったっス」
「黄瀬君はいま、幸せなんですね?」
「うん、凄く幸せだよ」
「……良かった。君が幸せなら、ボクも幸せです。少し前までの元気のなかった君が嘘みたいだ」

 全部黒子っちのお陰だよ。
 そういう代わりに精一杯の愛しさを込めて微笑むと、黒子っちは小さく呼吸を止めた後、すぐに笑ってくれた。
 頭を撫でてくれる感触が気持ち良くて瞼を閉じる。今日はもうすっかり疲れてしまった。欠伸をすると、黒子っちが笑う気配がする。今日もまた、彼の子守唄で眠りにつくのだ。昨日はあまり眠れなかったが、今日はよく眠れそうだ。
 促されるままにベッドに入り、ベッド脇に座る黒子っちの手を握る。冷たいが、確かな存在を感じるその温度に安心すると、一気に睡魔がやってくる。

「君の幸せをいつまでも願っています」

 眠りに着く直前、途切れた子守唄の後にそんな言葉を聞いた気がした。それは切実な響きを持って、オレの心臓にゆっくりと突き刺さった。
 その次の日から、黒子っちはオレの前に姿を現さなくなった。

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