黒バス | ナノ






 八月の猛暑日、家に帰ったら、知らない男がいた。
 越して来たばかりの単身者用のワンルームだ、玄関を開ければすぐに室内が見渡せるのだが、鍵を開けてドアを開けて、知らない男と目があったのだ。
 しばらく思考が追い付かなくて、その見知らぬ男と数秒見つめあった後、「すみません間違えました」と言えば、「あぁ、いいえ」と返されてオレは一度ドアを閉めた。
 これは、あれだ。新学期に間違えて一学年下の教室に入っちゃうあれだろう。まだ先週越してきたばかりだ、素面ではあるが、今日も一日講義にモデルの仕事にと忙殺された。最近はついてないことばっかりで、睡眠不足気味だったし、疲れてぼーっとしていたから部屋を間違えたんだ、そうに違いない。
 まずドアの右上にある部屋番号を確認する。503号室、合ってる。
 表札はかけていないから、確認のしようがない。
 深呼吸をしてからもう一度、鍵穴に鍵を突っ込んで回せば、すぐに噛み合ってがちゃりと鍵がかかる。更にもう一度、今度は反対方向に鍵を回せばやはりすんなりと解錠される。
 これはなんだ、どういうことだ。部屋は間違いなくオレの部屋だ。さっき見たのが幻だったのか。今日も暑かった。黙っているだけで奪われていく体力に、脳みそが限界を訴える為に見せた幻なのだろうか。そうだ、そうに決まっている。
 しばらく躊躇ったが、こうして居ても仕方ない、ここは自分の部屋なのだ。早く汗を流したいし、明日が締め切りの課題もやってしまいたい。
 ゆっくりとドアノブを回して、ぎぃっと開くドアの先を恐る恐る覗くと、願望とは裏腹に、その男はやはりそこにいた。
 テレビでも見ていたのだろうか、顔だけをこちらに向けて、おかえりなさい、と言われる。
 あまりに冷静な様に一瞬普通にただいまと返しそうになるが、いやいやいやいや、おかしい、これはおかしい。留守中の部屋に見知らぬ男、つまりそれは、

「ど、どろぼ、」

 叫ぼうとした瞬間、ひやりと気持ちの悪い予感が背中を走った。
 口を両手で塞がれて、言葉にならなかった音がくぐもって零れる。肌に触れる体温は、異様に冷たい。事態が飲み込めずに浅く荒い呼吸を繰り返すと、先ほど「おかえりなさい」と言ってきた見知らぬ男の顔が視界いっぱいに広がった。悲鳴をあげた、つもりが、やはりそれもくぐもった声にしかならない。
 現実味のない現実に、後頭部がじりじりと痛んで恐怖で足がすくんだ。

「気持ちはわかりますが、大きな声を出してはだめです。ご近所迷惑でしょう」

 鼻と鼻がぶつかりそうな距離で、まるでオレが悪いかのように男は言った。思わずすいません、という言葉が口を吐いて出そうになり、慌ててそれをのみこんだ。いや、どうせ声は出せないのだが。

「立ち話もなんですから、どうぞ入ってください」

 知らない男に促されるままに自分の家に入り、食卓テーブルを挟んで男の向かいに座る。
 嫌に色素の薄い、大人しそうな男だった。人は見かけによらないとは言うが、とても泥棒、強盗の類を働く様な人間には見えない。夏の空みたいな色の髪の毛と、それと同色の睫毛と双眸、貧弱とまでは言わないが、どこか儚げな印象を受けるのは、色素の薄さのせいだろうか。夏だと言うのに日焼けの痕が全くない透けるような白い肌は一層不健康にさえ見える。
 瞬間、その白い腕が本当に透けて見えた様な気がして目を擦っていたオレに、目の前の見知らぬ男がようやく口を開いた。

「初めまして、黒子テツヤと申します。この部屋の地縛霊です。よろしくお願いします」

 折り目正しく頭を下げられて、つられて頭を下げそうになるがすんでのところでそれを抑える。これはあれか、あまりの暑さに頭がおかしくなっちゃった人が不法侵入してきたのか。だとしたらここは下手に刺激するのは危ない。穏便に事を済ませる為にどうすればいいのか、必死に頭を動かした。
 変質者は春に湧くんじゃなかったのか。畜生、本当についてない。

「あー……、霊媒師さんでも呼んでみるっスか?」
「……黄瀬君、疑ってますね」

 相手を探るために切り出した会話は、自称地縛霊さんのお気に召さなかったらしい。死んだ魚の様な目を細くさせてじとりとこちらを睨む様は、正直全く怖くない。確かに人間らしい体温とか健康的な生気だとかは感じないのだが、どう見ても同じ年頃の人間なのだ。

「黄瀬涼太、大学3年生21歳。経済学部経済学科在籍、奥田ゼミで経済理論専攻。中学の時からモデル業を始め、雑誌の表紙を飾るほどの人気モデル」
「は?」
「中学高校はバスケ部で、全国大会に進むほどの実力者。初めて彼女が出来たのは小学6年生の時」
「いや、ちょっと、」

 つらつらと自分の個人情報を披露し出した目の前の男に、背筋が冷えた。確かに対外的に公表されていたり、調べればすぐに変わる内容のものばかりだが、それでもこれほど淀みなく口にされるのは気持ちが悪い。
 頭が湧いてるんじゃなくて、ストーカーじゃないか。

「実家の母親からの電話が週に2回、昨日の晩御飯はカップ焼きそば。それと、先週彼女と別れたばかりですよね」
「なんで、そこまで……」
「ちなみに、ストーカーじゃないですよ。君が来た時からずっと部屋に居たんですから」

 あからさまに引いているオレに、地縛霊は自嘲気味に笑って見せた。

「……いやだって、普通に考えて、急に幽霊って言われても信じられないんスけど」
「まぁ、それはそうですよね」

 でも、本当なんです、と言って笑う顔は、やはり悪人のものには見えなくて、オレはそれ以上何も言えなくなってしまう。

「怖がらせるから隠れてたんですけど、黄瀬君最近元気がなかったから心配で」
「……元気づける為に出てきてくれたの?」
「はい。何も出来ませんが、他人のぬくもりで忘れられることもあるかなと思いまして」
「他人じゃなくて、他霊じゃないっスか」

 思わず突っ込むと、幽霊君はきょとんとした後に本当だ、と言って笑った。それが面白くて、思わず釣られて笑ってしまい、お互い視線を合わせてもう一度笑う。

「んーっと、よろしく?」
「はい、よろしくお願いします」

 差し出されて握り返した手は、氷みたいに冷たかった。





 携帯のアラーム音で目を覚ましてしばらくはまどろみの中でベッドの上で転がっていたのだが、唐突に蘇ってきた昨日の記憶に一気に覚醒した。
 部屋中をぐるりと見渡しても、やはり例の「幽霊」はいない。

「幽霊だから夜は寝ないんです。そして朝になったら消えてます」

 寝る前は確かにベッドの脇でテレビを見ていた筈の彼の言葉を思い出した。だからボクのことは気にせずに寝てください。と言われはしたが、隣に初対面の幽霊がいるのにそう簡単に寝つける程、オレの神経は図太くない。
 この幽霊君が言っていた通り、オレは最近非常に疲れていた。講義や課題が立て込んでいたこともあるのだが、精神的なものが大きい。それに加えて連日のこの暑さだ、夜も眠りが浅く、夢を見ては夜中に起きてを繰り返す。起きた瞬間忘れる程度の夢なのに、それに眠りを妨げられる不快感。
 相変わらず地縛霊らしからぬ存在感で体育座りでそこにいる黒子クンの背中を見ると、呑気なものでテレビの画面を注視している。
 笑顔があんまり優しかったから、つい勢いでよろしくなんて言ってしまったが、この不審人物……不審幽霊? と、一つ屋根の下を認めてしまって本当に良かったのだろうか。

「眠れないんですか? そんなに見つめられたら穴が開きます」

 オレに背中を向けていた黒子クンが不意に振り向いてそう言った。物音も立てていないし、声だってかけていないのに、どうしてオレが見ていることが分かったのだろうか。これも幽霊の能力なのか?

「なんでオレが見てるってわかったの?」
「全部分かる訳ではありませんが、少しなら君の考えてることは分かりますから」
「幽霊だから?」
「幽霊だからです。ほら、明日も早いんでしょう? 子守唄を歌ってあげますから、早く寝てください」

 そう言って黒子クンは子守唄を歌ってくれた。子供の時に聞いたことのある、耳馴染みのいいそれを聞いて、確かに懐かしさからくる安心感はあるが、それでも20歳過ぎた良い大人が、子守唄を歌ってもらったからって簡単に眠りにつけるわけがない。

「オレ、子供じゃないんスけど」

 と、むくれて言えば、くすりと笑われて頭を撫でられる。先ほど手を握った時の刺すような冷たさではなく、微かに生気を感じられるような温かさがあった。その温もりに安心して目を閉じる。
 黒子クンの声は透明で、その存在感の薄さや儚げな見た目の印象をそのまま具現化したような声質だった。高くはないが、低くもない。少年の幼さを残した空気を含んだ声は酷く耳に心地好い。
 左肩の辺りを軽く叩いてくる規則的なリズムと黒子クンの歌声が気持ち良くて目を閉じれば、すぐに思考がホワイトアウトしていく。

「おやすみなさい、良い夢を」

 霞んだ思考の端っこで聞いた言葉が、現実のものか夢の中のものかは定かではないが、夢ならいつも忘れてしまうから、これはきっと現実にいる非現実的な存在の声なのだろう。
 覚えているのはここまでで、そして朝目が覚めると昨晩の彼の言葉通り、彼の姿は部屋中どこにもなかった。テレビは相変わらず騒がしく、昨日発覚した女優のスキャンダルを報じている。
 狐につままれた気分だ。人間としては有り得ないほどの存在感の薄さではあったが、幽霊としては有り余る存在感だったと思う。もっとも、他の幽霊に遭遇したことはないから憶測でしかないのだが。確かに彼は部屋に居て、テレビを見ていて、子守歌を歌ってくれた。
だが、一晩明けてみればあれが夢なのか、現実だったのか、その境目が酷く曖昧でぼんやりとしたものになってしまった。
 憮然とした気持ちで起き上がり、シャワーを浴びる。
 ここで考えていても仕方ない。今日もやることがたくさんあるのだ、こうして考えている間にも時間は刻一刻と流れている。
 夢なら夢で良い。むしろ、その方が助かる。
 そう考えて部屋を出たのが午前8時40分のこと。
 そして、午後22時10分に帰宅したオレを迎えてくれたのは、幽霊としては異例の存在感を放つ503号室の地縛霊こと、黒子クンであった。

「おかえりなさい」
「……ただいま」

 あっさりとそう言い、またすぐにテレビに視線を戻す体育座りの薄い背中に、全身の力が抜けた。
 幽霊ってもっと恐ろしい存在じゃないのか。この黒子クンを見ていると、畏怖を感じるどころか和んでしまって仕方ない。
 無心でテレビを見ている黒子クンの隣に座って、買ってきた弁当を頬張る。時間が時間だからと選んだパスタサラダは、多少濃い目の味付けだが味は悪くない。

「そんな量で足りるんですか?」
「これでもモデルっスからね。一応、気を遣ってるんス」
「黄瀬君は仕事熱心ですね」

 嫌に熱のこもった声色に顔を上げると、いつの間にかテレビではなくオレを見ていた黒子クンと視線がかちあう。ふわりと笑うその表情は地縛霊なんておどろおどろしいものとはかけ離れていて、慈愛が籠っていると勘違いしてしまいそうなそれの居心地が悪くて視線を逸らした。

「そうでもないっスよ」

 ぶっきらぼうに答えたその言葉が、照れ隠しだと思われれば良いのに。箸でパスタをかき混ぜると、行儀が悪いですよと怒られた。本当に幽霊らしくない幽霊である。

「そんなことはありません。黄瀬君は本当に立派です」

 四つん這いになってオレににじり寄り、よしよしと頭を撫でられる。その体温はやはり人間のものとは思えないほど冷たかったが、それでも胸にちくりと刺さる。
 最近、仕事に対して身が入らないのだ。
 中学から続けてきているから、慣れもあるし伝手も出来た。固定ファンもたくさんいるし、去年あたりからは事務所の方針でモデル業だけではなく俳優業にも活動範囲を広げるべく力を入れて売り出してもらっている。雑誌の表紙を飾れば売り上げは上がるし、写真集の売り上げも順調だ。
 だが、それでも胸に巣くった鬱蒼とした感情は拭えない。
 事務所の求めるままに仕事をこなしてはきたが、このままでいいのか。俳優としてドラマに出れば、モデルよりもずっと露出が増える。雑誌の対象である10代〜20代前半以外の層からの注目も増える。深く考えずにこの仕事を続けてきた自分が、日本中の好奇の目に晒されることに耐えられるのか、そしてそれが許されるのか。自分らしくはないとは思うのだが、そんなことばかりを考えてしまう。順風満帆だった職歴で初めての葛藤は、それなりにオレのヒットポイントを削っていく。

「立派なんかじゃねぇっスよ」

 頭を優しく撫でてくれる手を払いのけて、体育座りの膝に顔を埋める。身長189センチの男がやっていい恰好ではないと思うのだが、黒子クンの真似をしてやってみたら存外落ち着くことに気が付いてしまった。
 小さなため息と仕方ない人ですね、と言う声が聞こえた直後、オレの身体は温かい何かに包まれた。
 びっくりして顔を上げると、そこには黒子クンの白い首筋があって、視線を下げれば薄い背中が見える。黒子クンはオレを抱きしめて、昨日と同じ規則的なリズムでオレの背中を優しく叩いた。子供をあやすようなその仕草に、胸のとげとげがやんわりとほどけていくのを感じた。

「今日は早く寝ましょう。また子守唄を歌ってあげますから」

 耳元で子守唄を歌われて、吐き出される息がくすぐったい。笑い声を洩らしながら身をよじると、黒子クンの腕に込められた力が強くなった。

「黒子クン、手は冷たいのに身体はあたたかいんスね」
「ボクは幽霊なので、体温調整くらいお手の物なのです」
「はは、すげぇ」

 オレよりも一回り小さな身体に凭れかかると一瞬腕の中の身体が委縮したが、すぐにオレを支えようと力が込められる。それに甘えて全身の力を抜くと、ずるずると少しづつ倒れていく。べしゃりと黒子クンを下敷きにして、それでも動かずにいると黒子クンが「重いです」、とつむじの髪の毛を引っ張ってきた。

「幽霊なのに重いんスか?」
「幽霊を万能だと思わないでください、とにかく除けてください、潰れます死んじゃいます」

 慌てている黒子クンが面白くて、そのまましばらくそうしていたら脇腹に手刀をくらった。なんて粗暴な幽霊だ。

「幽霊舐めたら痛い目見ますよ」
「もう見てるっス……」

 そうしてこの晩もオレは、黒子クンの子守唄で深い眠りについたのだった。




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