黒バス | ナノ










「お久しぶりです、随分大きくなりましたね」
「もう高校生っスよ。黒子先生はえーっと……小さくなった?」

 失礼なことを言って笑う元教え子の腹筋に手刀を繰り出すが、寸でのところで逃げられた。驚くべき反射神経である。
 10年ぶりに会った涼太君は、お人形さんのようだったあの頃の面影を残しつつ、最良の成長を遂げていた。太陽がそのまま透けた様な金髪に、長い睫毛、切れ長の猫目はそのままに、高く通った鼻梁に長い手足と高い背丈。低すぎない声は甘くて優しく、女の子なら誰もが彼に恋するのではないかと思える、一言でいえば滅多にお目にかかれないレベルのイケメン君だった。見ているだけできらきらと輝くその容姿は、眩しすぎて目に優しくないほどだ。

「先生、この辺に住んでるの?」
「はい、3年前に他の保育園に移ったので引越しました。君は学校帰りですか?」
「ううん、撮影があってその帰り」
「撮影?」
「モデルやってるんス」

 にこりと笑う顔はやはり眩しいが、あの頃の引っ込み思案だった涼太君の面影が残っていて心の端っこが温かくなる。あの頃と全く違うのは、間を作らない会話力である。モデルをやっていることにも驚いたが、ボクの後ろに隠れてばかりいた涼太君がそんな華やかに世界に身を置ける程に社交性を身につけたことにも驚いた。
 それが顔にも出ていたのだろう。へぇ、と反応すると、オレだって大人になったんスよ! と言われ、その言い方が可愛くて思わず笑ってしまった。確かに大人にはなったようだが、まだまだ子供だ。ましてや元教え子、どうしたって可愛いと言う思いばかりが先に立つ。

「ねぇ、先生。今帰りなんでしょ、お腹すかない?」
「そうですね。君も?」
「うん! 折角久しぶりに会えたんだし、一緒にご飯食べに行こうよ」

 ね、と小首を傾げて強請って来る様子を見て感じるのは、やはり男らしさよりも可愛らしさだ。園児たちは皆一様にかわいいが、彼は初めての教え子で初めての卒園生で、ボクにとっても思い入れの強い生徒だった。久しぶりの再会と彼の元気そうな姿に、今朝から溜まっていたフラストレーションが和らいでいくのを感じる。

「あ、でも先生、荷物たくさんあるから家帰る? うわ、ビールばっかじゃん」
「ああ、ちょっと今日は飲みたい気分だったんです。そうだ、アイスも買ったんでした」
「なら一回家帰った方が良いよね」
「でもそれだと涼太君をお待たせしてしまいます。そうだ、うちに来ませんか?」
「え、いいの?」
「夕食が配達のピザでも良ければ。ここから歩いて10分くらいなんですが」
「うん、行く行く!」 

 嬉しそうにしている涼太君はまるで大型犬みたいだった。あの人見知りだった頃の涼太君の面影はない。
 連れ立って歩いている間も荷物を持ってくれたり、高校での話しをしてくれたりと、まさに絵に描いた様な好青年っぷりを見せてくれた。これはさぞ女の子にもてるだろう。

「彼女はいないっスよ」

 ずっと好きな子がいるんス。と言った彼の横顔は照れているのか耳まで赤い。こんなにかっこよくて好青年でしかも一途だなんて、彼に思われている女の子は世界一の幸せ者だろう。この顔で、この声で愛を囁けば、落ちない女の子なんていないと思うのだが、彼はずっとその子に片思いをしているのだと言う。なかなかうまくいかなくて、と笑う彼に、幸せになって欲しいと願わずにはいられなかった。 3つ目の交差点を右折し、郵便局の前を通り過ぎた。あと300メートルで、ボクの住む単身者用のマンションに着く。

「先生は? 彼女とは最近どうなの?」
「それが……今朝、振られました」
「え? 今朝? ああ、だからそんなにビール買ってたんだ」

 10年ぶりに会った教え子にする話ではなかったかな、と自嘲気味に笑ったが、涼太君はそんなことを気にする様子もなく、じゃあ今日はぱーっと飲んで忘れちゃおう! と頭を撫でてきた。身長差はあるものの、14歳も年の離れた元教え子にされるには抵抗のある行為だ。ぱしりと手を払いのけて、君には飲ませませんよ、と言うと分かってるっス、と、また笑われた。







 ぼろぼろと琥珀の双眸から流れ落ちる涙をハンカチでぬぐってやると、小さな身体ごとボクの胸に飛び込んでくる。よしよし、と背中を撫でてやると次第に落ち着いていくのが分かった。
 今日は大輝君ではなく、さつきちゃんとケンカしたらしい。さつきちゃんは優しくて明るい子で、幼なじみの大輝君以外とケンカすることは滅多にない。何があったの? と視線の高さを合わせて聞くと、ぷいっと目を逸らされた。

「りょうたくん、何があったか先生に教えてくれませんか?」
「……」

 涼太君はスモックの裾を両手で握りしめて、下を向いたままぷくりと頬を膨らませる。両目からはまた大粒の涙が零れ落ちた。
 こう見えて、案外頑固な子だ。
 優しくて大人しいから自分の意見を口に出すことはないけれど、こうと思えばそれを変えることはない。それをバカにされたり、批判された時には、意見こそしないがこうしてぼろぼろと泣いて見せるのだ。 さつきちゃんとの間に何があったのかは分からないが、涼太君がケンカしたくらいだ、きっと彼なりに譲れない何かがあったのだろう。

「これがしたいとか、あれが欲しいって思うこと、ありますか?」

 そう聞けば、涼太君は顔を上げる。その拍子にまた涙が零れ落ちた。

「りょうたくん、それを口に出さないと誰もりょうたくんがそれを欲しいってわかってくれません」
「……」
「わがままを言わないりょうたくんが良い子なのは知ってます。でも、たまにはわがまま言っていいんですよ」
「くろこせんせぇは、」
「うん?」
「くろこせんせぇは、わがまま言ってもオレのこときらいにならない?」

 尚も零れ続ける涙に、もうそろそろ目が溶けてしまうのではないかと不安になってしまう。
 この小さな子は、自分が嫌われるのが怖くて本音を言わずにただ泣いていたのだろうか。子供は、大人が思う以上に大人のことを見ている。過敏に何かを感じ取って、嫌われまいと必死に耐えてきたのかと思うと、心が潰れる思いだった。

「なるわけがないでしょう。先生はりょうたくんのことが大好きです」

 ぎゅうっと小さな身体を抱きしめる。高い体温が、更に高くなっていく。頭を撫でてやると、必死でしがみついてくる涼太君が愛しくて堪らなかった。

「オ、オレもだいすき! せんせいだいすき! 大きくなったら、オレとけっこんしてください」
「え、りょうたくん、それは……」
「だめ……?」
「うーん……、ずっと一緒にいてあげることはできるかな……?」

 嘘を吐くことも、折角自分の思いを口にしてくれた涼太君の願いを無下にすることも出来なくて、精一杯の譲歩で答えれば、それでも彼はひまわりみたいに笑ってくれる。眩しいほどの笑顔に、目が痛んだ。

「やくそくだよ!」

 絡められた小指を見て、涼太君は嬉しそうに笑った。







 熱い。
 身体は熱くて居心地も悪い。べたべたと纏わりつく粘液が煩わしい。皮膚の上を這う他人の体温に、今朝別れたばかりの彼女を思い出したが、冷え症だった彼女はいつだって指先が冷たかったことを思い出す。そういえば、ここ数カ月はキスすらしていなかったっけ。
 じゃあ、この体温の持ち主は誰だ、と考え始めたが、思考は白く鈍く薄れて行くだけで、考えること自体が酷く億劫だ。 ああ、やっぱり酒なんか飲むんじゃなかった。

「きもちわるい、」
「うそ、だってもうこんなになってる」

 そうじゃないんだ、そういうことではない。下世話なことを言う誰かに異議を唱えたくなるが、それすらも面倒だった。
 好きだ愛してると囁かれて、この声で囁かれればどんな女の子でも簡単に落とせるんだろうなぁとぼんやりと考える。
 とにかく熱い、熱気がこもった室内には臭気も混じっていた。青臭くて堪らない。窓を開けてくれ、と絞り出した声は掠れていて、酒やけでこんなに掠れるものか、と他人事みたいに思う。

「窓開けたら、先生の声みんなに聞かれちゃうっスよ」

 いいの? と問われる。良いのも何も、声ぐらい聞かれたからなんだと言うのだ。誰にも言えない様な密事を話している訳でもないのに。 瞬間、下半身がずくりと痛んで、思い切り突き上げられた。生理的に口元から零れた声は高く掠れていて、自分のものではないみたいだ。
 浅く小刻みに零れる声を堪えようと下唇を噛むと、声を聞かせて、と唇を舐められる。あばらをなぞる感触に、くすぐったくて息を吐き出すと、開いた唇の隙間から舌が捻じ込まれた。
 ぐいぐいと奥深くまで侵入しようとしてくる舌の動きに、下腹部が疼く。

「全部食べる気ですか、きみは」
「うん。全部食べちゃいたい、食べさせて?」

 嫌だって言ったって聞いてくれるつもりもない癖に、ずるい。昔はこんな子じゃなかったのに。昔っていつだ。こんな子って、どんな子だ。頭が朦朧とする。耳朶を甘噛みされて、耳の穴に息を吹き込まれる。
 気持ち悪いけど気持ち良い。
 そう言うと、覆いかぶさっている誰かがひまわりみたいに笑って、それが眩しくてボクは目を閉じた。







 割れそうとまではいかないが、鈍器で小突かれ続けている様な頭痛を感じて目が覚める。

「っ……ぅ」

 カーテン越しに差し込む日差しは既に高い。一瞬寝過ごしたかと焦るが、今日が土曜であることを思い出して安心した。
 頭を両手で抱えると、今度は腰が鈍く痛んだ。そうだ、そう言えば昨日腰を痛めたんだ。彼女に振られて仕事に打ち込むつもりで園児たちと遊んで腰を痛めて、それから、やけ酒するつもりでビールを買い込んで。ああ、そうだ、涼太君。涼太君に会ったんだった。久しぶりに会った彼は立派なイケメンモデルに成長していた。あの引っ込み思案で恥ずかしがり屋だった彼がモデルになっていたのだ。10年と言う歳月は偉大である。
 それから一緒にご飯を食べようって話しになって、うちにきて、宅配のピザをとって、涼太君が飲め飲めってお酌してくれたからついお言葉に甘えてボクだけ飲んで、彼女の愚痴を聞いてもらって、あれ、そういえば、彼はボクが話す前から彼女がいたって知ってなかったっけ?
 そうだ、涼太君はどうした。
 起き上がると腰がずくりと痛んで、再度ベッドに身体が沈む。この痛みはぎっくり腰のそれではない気がする。嫌な予感で頭が占められていく。この、脳裏にうっすらと残る卑猥な映像は何だ。鼓膜に残る水音と声は何なんだ。

「先生起きてたの? おはよ」

 コーヒー飲む? と聞かれて、思わずはい、と答える。いや、違う、そうじゃない。

「……なんで涼太君がここにいるんですか」
「泊ったからっスよ。やだなぁ、先生、覚えてないんスか?」
「いえ、あの……記憶が大分混乱していまして、あの……涼太君、」
「はい?」

 暑さからではない、嫌な汗が背中を伝う。
 昨日と同じ、制服のシャツとスラックスだけの姿でベッド脇に座った涼太君は、うつ伏せで冷や汗を書いているボクに端正な顔を近付けると、つむじにキスをしてきた。
 なんだ、これ。どういう状況だ。

「ボクは昨晩、何かやらかしましたか?」

 そう聞いた瞬間、隣に座る涼太君の動きが止まった。
 まずい、ボクは保育士で、未来ある子供たちの成長を見守る立場で、涼太君は元教え子で男子高校生でモデルだ。そしてボクは29歳、いい年したおっさんだ。次の誕生日が来れば大台、三十路だ。相手は16歳、子供である。まずいまずいまずい。脳内で警報が鳴り響く。 そんなボクの胸中を杞憂だと笑い飛ばす様に、涼太君はやだなぁ、と軽く笑った。
 あ、大丈夫っぽい。首の皮一枚でつながったっぽい。
 
「先生がやらかしたんじゃなくて、二人でヤったんじゃないっスか」

 大丈夫じゃありませんでした。
 どうするんだ、これ。社会的責任とか犯罪とか、色んな事が一気に脳内をぐるぐると巡る。

「大丈夫、オレが絶対幸せにするから」

 何が大丈夫なのか。若さ故の根拠のない自信など、社会的制裁の前には無意味でしかないのに。

「ずっと一緒にいてくれるって、約束したもんね?」
「それは、」
「ずっと好きだった。もう離さないから」

 左手の小指を絡め取られて、あのひまわりみたいな笑顔を向けられる。
 眩しすぎて視線を外した僕は、10年前のあの日のことをただただ後悔することしかできないのだった。

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