黒バス | ナノ




赤司さんと黒子君


 頬をくすぐる風は生ぬるい。砂埃が目に入らない様に軽く目を瞑って、ゆっくりと開く。桜の花びらが舞い上がって、赤司の視界を遮った。
 お目当ての人物は裏庭の大きな桜の木の下で一人、静かに寝息を立てていた。直前まで読んでいたのであろう小説の単行本が中途半端なページで開かれたまま、彼の膝の上に落ちている。静かに近寄れば、再び春風が二人の間を吹き抜けた。肩の上で切り揃えた赤い髪が風になびく。片耳に髪を掛けながらしゃがんで、眠る彼の顔を覗き込む。目元が少しだけ赤い。泣いていたのだろうか。

「かわいそうなテツヤ、」

 私がそばにいたならば、もう絶対に君を泣かせたりはしないのに。
 今は自分を映さない澄んだ大きな目を思い浮かべると、子宮の奥が収縮するのを感じる。可愛い人、愛しい人。君は覚えていないかもしれないけど、もうずっと前から私達は一緒にいたのよ。声に出さずに彼に語りかけると、色素の薄いその少年は少しだけ身じろいで、それを彼の返事と受け取った赤司は笑みを深くした。
 良く見ると、幼さを残す丸い頬には、涙の跡が少しだけ残っていた。出来る限りの慈愛を込めて、彼の頬を掌で撫でた。びくり、と少年の肩が揺れる。ゆっくりと、ゆっくりと双眸を開く少年に、背筋が粟立った。
ああ、やっと私を見てくれる。
焦点の定まらない炭酸水みたいな色をした目が、不思議そうに赤司を見つめた。

「きみ、はだれ?」





 運動部の強豪が集まる名門帝光中学でも、バスケ部の存在は別格であった。常勝をモットーに掲げる男子バスケ部は全中連覇の記録を塗り替え続け、帝光中学運動部の中ではまだ比較的歴史の浅い女子バスケ部もまた、ここ数年でめきめきと力をつけ、昨年はついに全中優勝を飾った。これにより、帝光中学は男女ともにバスケ部の頂点に立つこととなったのである。
 女子バスケ部が躍進を遂げた陰に、小学校を卒業して半年も経っていない一年生の存在があったことは、帝光中学では有名な話であった。
 創部5年目、優秀な人材が集まり、コーチ陣も設備も男子に比べれば劣るものの、そこいらの強豪校と遜色のないものがそろっていたことは確かだ。年々右肩上がりで実力をつけ、順位を伸ばしていたことも確か。だがしかし、創部5年目で圧倒的な力を得たのは、優秀なプレイヤーにして完璧な頭脳と観察眼を持った女生徒の力が大きかった。事実、一年でレギュラーとなり、同様に小学校を卒業したばかりだった同級生たちの力をいち早く見出して指導、成長させた結果、全中ではその試合のほとんどを一年生メンバーだけで勝ちあがっていた。
 彼女の存在は、一言で言うなれば「女帝」であった。
 孤高でありながら、裏切りを許さない。彼女の前では全てが平等に愚かだった。彼女は至高であり、絶対であった。だって彼女は、全てが正しかったのだから。
 鮮やかな赤い髪は血の色なのだと、誰かが陰口を叩いているのを彼女は知っていたが、彼女自身はそれを気にしていなかった。この赤は、幼い頃に唯一彼女を認めてくれた少年が褒めてくれた色だ。赤い髪が日に滲んで淡いオレンジになるのを見るのが好きだった少年は今はまだ、彼女の存在に気付いていない。だが、それで良い。大切なものを一つずつ奪って、自分だけを愛してくれるようになれば良い。
 彼にとってそれが苦痛であったとしても、それは一時の感覚。自分だけを愛してくれれば、自分だけの隣にいてくれれば、もう絶対に誰にも彼を傷付けさせない。絶対に。
 ほんの短い時間だったが、彼と過ごした時間が彼女を形成していると言っても過言ではなかった。彼女は彼で出来ている。だから、彼女は彼の為に生きた。それならば、彼も彼女の為に生きるべきだと結論に至ったのは、思春期ゆえの傲慢さか、それとも彼女本来の性質故か、あるいはその両方か。それはわからないが、彼女はその結論こそが正しいと信じていた。何故なら彼女は絶対的に正しいからだ。その証拠に、彼女は間違ったことがない。





 スカートの裾がはためく。待ちわびた瞬間に、視界は白ばんで行くのに、意識は鮮明になっていく。焦点の定まらない炭酸水みたいな色をした目が、不思議そうに赤司を見つめた。

「きみ、はだれ?」

 穏やかな声はあの頃よりも少しだけ低くなっていたが、耳に馴染んで非常に心地よい。炭酸水みたいな瞳に映る自分に、ゆっくりと笑いかけた。

「覚えてない?」
「……すみません、初対面じゃないですか?」
「違うよ、私と君は、小さい頃に一回だけ会ってる。凄く小さな頃だったから、君は忘れているのかもしれない」
「小さい頃?」

 寝ぼけた頭で必死に思考を巡らしている少年が愛らしくて、自然と頬が緩む。覚えていないのも無理がない。彼と一緒に過ごしたのは8年前の夏の日、たった一日だけだったのだから。
 顎に手を当ててしばらく考え込んでいた彼が、申し訳なさそうにこちらを見上げて来たのを確認して、少しだけそれを残念に思う自分を隠して笑った。

「覚えてなくてもいいよ。私は赤司、女バスのキャプテン」
「女バスの、」
「そう。ねぇ、黒子、うちのマネージャーになってくれない?」

 突然の申し出に彼が言葉を詰まらせる。無理もない。大好きなバスケを悩んで悩んで諦めて、それでも踏ん切りがつかなくてこうして裏庭で一人泣いていたのだ。それが突然、女子バスケ部のマネージャーに誘われるなんて、青天の霹靂も良いところだ。

「なんで、ボクを、」
「君には、サポートの才能があるから」

 彼がバスケが好きで、体格と才能に恵まれないながらも人一倍の努力を重ねてきたことを赤司は知っていた。逸材が揃うこの名門校で、どんなに努力をしても追いつけなくて、足を引っ張るくらいなら一層諦めようと、身の引き裂かれる思いでバスケを諦めた。この若さでどうしようもない挫折と諦めを知った彼の目はそれでも青く透き通っていて、その事実に赤司の胸はどうしようもなく高鳴った。
 男子バスケ部のバカ達には感謝している。この少年の才に気付かずに、こうして易々と手放してくれた。本当にバカな男ども。自分だったら彼の能力を引き出せた。彼をコートに上がらせることができた。だけど、それをしなかったのは、彼に隣にいて欲しかったから。
 君が私を一番に選んでくれるなら、私は君を幸せにしてみせる、絶対に。

「ねぇ、良いでしょう?」

 彼が断る筈がないことは分かっていた。バスケ部を辞めた今だって、バスケが好きで好きで仕方がないのだ。今はそれで良い。だから、この手をとって。赤司は嫣然と微笑むと、彼の正面にしゃがみこみ、視線を合わせて白い手を差し出した。
 彼、黒子テツヤがおずおずとその手を取る。嬉しい。こんなにも喜びを感じ、満ち足りたことはない。

「よろしくね、黒子」

 小さな手で握った彼の掌は、豆だらけで少しだけ固かった。



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