※薩摩弁、時代考証は緩い目で見てください





「鯉登様はおじ様のことをとても尊敬しておられるのですね」

隣を歩く女性を見ながら鈴の鳴るような声だと、鯉登は思った。

「はい、勿論です」
「おじ様から鯉登様のことはよく伺っております」
「本当ですか!?」
「はい」

微笑む栞に鯉登も頬が緩む。

「私は、栞さんのことも尊敬しております」
「え?私ですか?」
「女学校では成績優秀だと伺っております。先日も論文で賞をお取りになったとか」
「いえ、そんな……賞も学内のものですし、そんなに褒めていただくことではございません。……でも、鯉登様にそう言っていただけると嬉しいです」
「流石、鶴見中尉の姪御さんです」
「いえ、男性に比べたら足元にも及びません」
「そんな、」

隣を歩く彼をちらり、と見る。
鯉登様はいつもお優しい。
鯉登様が褒めてくれた論文は、お母様とお父様、そしておじ様には胸を張って入賞の報告をした。とても努めて書いた論文だった。関連する論文を読み漁り、先生にも教えを乞い、女学校で学んだことを全て活かして書けたと思う。学長先生にも、署名がなければ女性が書いたとは思われないだろう、という評価もいただけた。女の地位が低い中では、有難いお言葉だ。
別に女だてらに男に並ぶぞ!とか女だって男とやり合えるんだ!とかそんな思いは一切なかった。たまたまこの家に生まれ、学びたいことを学べる環境だっただけだ。
けれど、鯉登様がどう思われるのかは不安だ。「女のくせに」「女の分際で」。そう思われる男性は少なくない。特に軍人なら余計にそうだろう。おじ様はそういう意味では前衛的な方だが、鯉登様はどうだろう。おじ様の手前、褒めてくれるだけなのかもしれない。

「たまたま、です」
「それも才能ですよ」
「……鯉登様はお優しいのですね」
「栞さんの前では自然とそうなってしまいます」

少し顔を赤くしてそう言った彼は、真っ直ぐ前を向いていた。私は、彼と目が合うことが少ない。
私はいつも、彼とは一線を引いていた。おじ様の紹介で知り合った少尉様。それ以上でも、それ以下でもない。おじ様に顔を見せに行くときにたまたま会う程度だ。勘違いしてはダメ。彼が私に優しくしてくれるのは、中尉であるおじ様のおかげ。おじ様が私のことを娘のように可愛がるから、彼もこうして丁寧に接してくれるのだ。だから、勘違いしてはダメ。彼の眼中に、私はない。
いつも門まで送ってくれる鯉登様に頭を下げ、家路についた。

私では、鯉登様に想いを寄せても意味がない。
そう自分の心を抑え込んでいる時だった。私に縁談が舞い込んできた。母の強い勧めもあって、そして何よりおじ様が持ち込んだ縁談だと言うことで、私はそれを受け入れた。その数日後。







「栞さあ!」

女学校から出たときだった。校門の近くで、聞くはずのない声がした。

「鯉登様?ごきげんよ、」
「わい結婚すっとな!?」
「わ……、はい?」

彼が鹿児島出身の方なのは知っていたし、おじ様の前では月島様を介してお話しされているのを見たことはあるが、私にはいつも標準語だったのに、どういうことだろう。目の前の彼は額に玉のような汗をかいている。走ってここまで来たのだろうか。

「鶴見中尉どんにそう聞いた。相手とはもういっきょたんか?流石に決めっとが早すぎんか!?」
「あ、あの、鯉登様、落ち着いてくださいませ。私、鯉登様のお国言葉には明るくなくて、」
「あ……すみもはん、いや、すみません」

女学校の門の前では目立ってしまう。そう思って彼を脇の小道に入るように促した。一瞬困ったような顔をする彼だったが、目立ちますから、と言えば素直に足をすすめてくれた。

「その、突然会いに来てしまい申し訳ありません」
「いえ、ここなら目立たないですし大丈夫です。……あの、恐らく私の結婚のお話かと思うのですが…」

彼にそう言えば、肩を跳ねさせて勢いよく口を開いた。

「そうじゃ!…やない、……そうです。その、鶴見中尉殿に聞きました。栞さんの縁談が決まったと」
「はい。お相手から断りがなければまとまるかと思います」
「どうしてそんなにすぐに決めてしまったのですか」
「え?」
「鶴見中尉が、二つ返事だったと」

鯉登様を見れば、苦い顔をしてこちらを見ている。どうして彼がそんな顔をするのだろう。思いつく理由は一つしかない。でもその可能性に縋るほど、私は甘えた生き方をしてこなかった。

「……私は女学校、専攻科を来年で卒業です。ですが、教師になろうとは思っていませんし、卒業後は今のように勉学に励むつもりもありませんので、縁談がまとまらないと行き遅れてしまいます」

実際、既に行き遅れているようなものだ。女学校の卒業を待たず結婚していった同級生は少なくない。そんな私に今回の縁談は有難い話だった。
そう伝えて彼を見れば、顔を真っ赤にして口を開いた。

「おいがおっ」
「え?」
「その、……私がいます」
「……鯉登様?」
「わいが好いちょっ」

鯉登様の言葉に、頭が真っ白になった。これは鹿児島の言葉がわからなくても、わかる。彼の深く息を吸う姿に、彼も気持ちを落ち着かせながら話そうとしてくれていることがわかった。

「私では、だめですか?」
「……」
「貴女のことが好きだ。嫁に来てほしい」

この人にこんなことを言われて舞い上がらない女がいるだろうか。鯉登様が私を。このまま彼の手を取れたらどんなにいいだろう。しかし、鯉登様はお父様が海軍少将の立派なお家の方だ。私には身に余るお話だ。

「……今回の縁談は、おじ様のご縁ですし、母からの強い勧めもあります。お受けしないわけには、」
「貴女の気持ちは?」

これでも軍人の娘に生まれた身なのだ。自分の気持ちだけで生きていけないことはよくわかっている。

「……私は、家のためになることをするだけです」
「そんな、」
「鯉登様のお気持ちは嬉しいです。でも、鯉登様にもそういったお話は既にあるのではないですか?」
「……そ、れは」

鯉登様に複数の縁談があるという話は風の噂で聞いていた。お相手は私なんて敵うはずのない名家の御令嬢ばかりだと記憶している。

「おじ様がいるとはいえ、私の父は今でこそ隠居して元気に暮らしてはおりますが、日清戦争で腕も脚も失い除隊した身です。片手片足で頑張ってはおりますが、立派な家柄とは言えません。現役で軍事に明るいお家の令嬢と一緒になられるのが鯉登様にとっては良いかと存じます」
「じゃっどん、」
「私の縁談のお相手は、軍にも卸している医薬品の会社のご子息だそうです。近い内にお継ぎになるそうなのでそれなら戦地に行くこともないですから、早くに亡くすこともないだろうと。父もおじ様も私には甘いので、早くに未亡人になって欲しくないのでしょう」

ここまで言えば、彼は引くと思った。暗に軍人との結婚を否定したのだ。お父様とおじ様まで引き合いに出して。
ちら、と彼を見れば小さくため息をついて口を開いた。

「栞さんは、その方が好きなのですか?」
「お会いしたことがないので何とも。でも家の者たちは喜んでおります」
「後悔しませんか?」
「後悔なんてしません。下手に学のある私に声をかけてくれた方なのですから、有難いことです」
「どんな者か分からないではないですか」
「賢くてお優しい方だと伺っております」
「そういうことではっ、」

唇を噛む彼を、下から見上げた。そんなにも私のことを慕ってくれているのだろうか。身に余る幸せだ。
彼の視線には以前から気づいていた。気づいていて、気づかないふりをしていた。この歳で夢をみたっていいことはない。目の前に見えているものだけが、幸せとは限らないのだから。
そう思っていると、彼の目がどんどん見開かれた。

「ないごて泣っど!?」

一歩距離を詰めてきた彼の指が私の目元にそっと添う。それで私は自分が泣いているのだと自覚した。彼の指が触れている部分がどんどん熱を持つ。彼の指は私の涙で濡れているのだろう。もうそれだけで、私の想いは報われた気がした。

「鯉登様」
「……はい」
「…これは、私の精一杯の強がりなのです。私はこの家に女として生まれた以上、役目がございます。それに父の命が救われたのは、当時のお相手様の会社のおかげだと聞いております。これで私は、父の命の恩、そして育ててくれた両親や面倒を見てくれたおじ様に恩を返せるのです。だから、分かってくださいまし……」

鯉登様は何か言おうと口を開こうとしていた。けれど私はそれを待たずに続けた。

「鯉登様は、これからお国のために柱となって大きなことを成す方だと思っております。鯉登様は、そんなご自身を支えてくれる素敵な伴侶を得る機会を既に手にしているのです。お互いに、縁があった方と結ばれるのが、お互いのためです」

涙を拭ってくれた彼の手を遠ざけるため、私は一歩退いた。袂からハンカチを取り出し、なるべく触れぬように彼の指をそっと拭った。それをじっと見ていた彼は、ハンカチごと私の手をぎゅっと握った。

「貴女の言い分はわかった。だが、おいは諦めもはん」

彼はそう言って手を離すと一礼し、私に背を向けて歩き出した。









ドンっと開く扉に鶴見はそちらに視線を向けた。

「鶴見中尉!」
「どうした鯉登少尉」
「栞さあんこっで話があっとです。彼女ん縁談を取りやめてもらえもはんでしょうか!彼女んこっはおいが一生大切にすっで、じゃっでどうか……!」

鶴見は相変わらずの聞き取り難い薩摩弁に一瞬口を噤み、そしてわずかに聞き取れた単語から鯉登の話を推測した。

「……何を言っているのかわからんが、栞の縁談の話か?」
「はいっ!」
「……お前があの子と結婚したいと?」
「はい!許されんこっかもしれもはんが、おいは栞さあを愛しちょります。自分ん手で幸せにしちゃりたかんじゃです」

そう言って土下座をする鯉登に鶴見は視線を向けた。

「そうか。構わん」
「そこを何とか、……え?」
「構わん。あの子次第だがな」

鯉登はポカンと開けていた口を閉じて、鶴見に向き合った。

「よかですか?」
「ああ、構わん。今回の縁談はたまたま相手が軍に近い企業だったというだけだ。何人か候補がいたが、あの子の母親がその中から選んだに過ぎん」
「では…!」
「ただ、あの子の母は自分のような思いをして欲しくないのだろう」
「……彼女ん父上の件ですか」
「ああ、半島に出兵し瀕死の状態で戻ってきた夫を迎えるのは、死なれるよりマシとはいえ辛いものだ。今はもうすっかり自分のことはできるようになっているが、元の生活に戻るまでの苦労もあっただろう。それを思えば、娘を軍人に嫁がせるのは避けたかったのかもな。だから、候補の一覧に年若い将校が並ぶ中、商家の息子を選んだのだろう」
「……彼女ん母上は、おいが説得します」
「ああ、好きにしなさい。私からも伝えておこう」
「あいがとごわす!」

鯉登は鶴見に深くお辞儀をすると、颯爽と部屋を出ていった。





















「栞さあ!」

母についていき案内された扉を開ければ、そこには夫になる人がいるはずだった。

「鯉登様……?」
「はい!」

目の前には鯉登様が立ちはだかるように立っている。どういうことだろうか。私は今から縁談のお相手と顔を合わせるはずだ。その場として、この料亭を指定されお母様と一緒に来たと言うのに。彼越しに部屋を覗けばそこにはお父様とおじ様がいた。

「その着物、栞さんにとてもよく似合っております」
「え、あ、ありがとうございます…?」
「鯉登様、篤四郎さんの横にお座りになって。ほら栞、入りなさい」
「お母様、でも、」

ぐいぐいと背中を押され、部屋に入り促されるがまま彼の向かいに座った。目の前の彼は顔を赤くして、いつもより頬が緩んでいる気がする。状況が全く掴めない私の肩に父がぽんと手を乗せた。

「薩摩隼人の好い人がいるなら、どうしてもっと早く言わなかったんだ」

お父様のその言葉に私は目を丸くした。好い人って、そんな人私にはいないはずだ。なのに「薩摩隼人の好い人」なんて、この場に該当する人は一人しかいない。

「いえ、あの、今日の顔合わせは…?」

何も状況が掴めない中、絞り出した言葉がそれだった。

「今しているだろう?」

おじ様のその言葉に、私はさらに目を丸くすることしかできない。

「あ、あのお母様、これはどういう…」

お母様に助けを求めるかのように視線を向ければ、優しく微笑まれた。

「最初にお話があった縁談は、断りました」
「えっ?どうして!?」
「あまりにも貴女の返事が早かったから、こちらで保留にしていたの。だから、鯉登様からのお話を聞いて断ったのよ」
「鯉登様からのお話……?」
「篤四郎さんを通じて鯉登様からお話をいただいたのよ。栞と一緒になりたい、って」
「へ、」

思わず彼を見れば、相変わらず顔を赤くしてこちらを見ている。

「でも、おじ様にいただいた縁談は、」
「なに、特段義理のある相手というわけではない。お前が好きなようにして構わん」

確かに複数の候補の中から、おじ様やお父様お母様が相談して決めた相手だとは言われていた。

「貴女、篤四郎さんのところへ行って鯉登様にお会いした日はいつも機嫌が良かったでしょう」

お母様のその言葉に、私の顔はどんどん赤くなる。

「栞、お前の好きにしなさい」

お父様とお母様に見つめられ、私は彼に視線を移す。力強さを感じる優しい目で、彼は私を見ていた。おじ様にも了承を得て、お父様お母様が認めてくれるのであれば、私は彼の好意を受け入れてもいいのだろうか。

「あの、鯉登様のご両親は…?」

私のその言葉におじ様が口を開いた。

「彼の父とも話をしたが、是非にとのことだった」
「母も鶴見中尉に栞さんのことを聞いて喜んでおりました。学のある人なら私を支えてくださるだろう、と」
「そんな、……滅相もございません」

頭を下げる私の手をお母様が握った。

「栞、貴女は軍人の家の娘としてとても頑張ってきたわ。もう貴女の好きなように生きていいのよ。貴女が望むなら、何にだってなれるんだから」

そう言って微笑むお母様の手を私はぎゅっと握り返した。

「……私も、鯉登様と一緒になりたいです」

そう小さく呟くと、彼がバッと立ち上がった。

「本当か!?」

あまりの勢いに全員の視線が彼に集まった。

「す、すみもはん……」

そんな彼に私は口を開いた。

「不束者ではありますが、何卒よろしくお願い致します」

そう言って三つ指をついて頭を下げる。

「栞さん」

彼の声に頭を上げれば、そこにはいつもの優しい彼の表情があった。


恋と私


back top
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -