笠松幸男の場合



「別れて欲しい」

彼のその言葉に、私は食べかけのチキンを落としてしまった。期間限定の柚子胡椒味。まだ三口しか食べていないのに。今は放課後で。ここはコンビニのゴミ箱の前で。突然すぎる彼の申し出に困惑した。

「わか、れる?」
「ああ」
「えっと、私たち付き合い初めてもうすぐ一年、だよ?」
「……ああ」
「私、……何かした?」
「……いや」
「…もう、幸男くんは私のこと好きじゃなくなった?」
「その、理由は……言いたくない」
「何それ………他に、好きな子できた、とか?」
「……そういう、わけじゃ…」

何事にも真っ直ぐで正直な彼が、こんなこと冗談で言うわけないし、意思は固いのだろう。そう思った。

「どうしても、別れたい?」
「……ああ」

何事もないような顔で、幸男くんも普通の男の人みたいに女を振るのだな、と何処か他人事のように感じた。

「そっか。わかった」
「……いい、のか?」

その確認に、なんの意味があるのだろう。そう思いながらも彼に微笑んだ。

「うん。明日からは、“友達”に戻ろう」
「……悪い」
「ううん、こういうのはお互いの気持ちが大事だし。あ、でもバスケの応援はまた行ってもいい?」
「ああ、お前が来てくれるなら心強い」

別れた女にそんなこと言っちゃダメだよ、とは言えず、私は落としてしまったチキンを拾いゴミ箱に捨てた。

「じゃあ、ばいばい」
「……ん、気をつけてな」

いつもなら家まで送ってくれたのに、と思いながら彼に背を向けて歩き出した。体の右側がいつもより寒い気がする。ああ、私は彼と別れてしまったのか。そう実感したのは、家の玄関に着いてからだった。
その夜はひたすら泣いた。彼の別れを受け入れた時、私は他人事のように自分はなんて物分りのいい女なのだろう、と思ったが今更色々込み上げてきた。
初めて好きになった人だった。真面目でしっかりしていて、芯の強い人。だから告白をしてOKを貰えた時には夢だと思った。付き合い始めてみれば、彼は女というものに全くと言っていいほど慣れていなくて、私のために無理をしているようにも見えた。そんなところも嬉しかった。一年近くも経てば、普通の高校生カップルのように振る舞えていたと思う。友達からは「幼稚園児のカップルの方が余程進んでる」とからかわれたけれど。確かに否定はできない。キスなんてしたこと無かったし、手を繋いだのも片手で数えられるほどだ。彼の誕生日と、クリスマスと、初詣。あ、三回か。
デートしたり、一緒に帰ったり、と言うのは普通のカップル並みだったはず。彼に触れなくても、触れられなくても、隣を歩ければそれで私は幸せだった。でももう、それも叶わない。
私の何が、ダメだったんだろう。








翌日から、私は彼を避けた。
友達に戻るとか、バスケの応援に行くとか言ったけれど、以前のようにはどうしても振る舞えなかった。多分、周りから見ても相当露骨だったと思う。友達にも心配されたけれど、大丈夫だよと繰り返した。
人の噂なんて直ぐに消えるもので、私と彼が別れたと言う噂も三日も経てば誰も話さなくなった。学年が上がり、彼がバスケ部の部長に選ばれたと聞いても、私がバスケ部の応援に行くことは無かった。友達に「黄瀬くんを見に行こう!」と誘われても全部濁して断っていた。別れてから時間が経つのに、まだ私は幸男くんのことが好きだった。廊下で見かける度に、まだ彼のことが好きなんだと心臓が主張する。
この苦しさは早く手放したくもあり、ずっと抱えていたいとも思った。他の人を好きになる余裕なんてなくて、心の奥底に何かが積もっていく気がした。










「春原さん!」
「森山くん」

廊下を歩いていると、森山くんに声をかけられた。幸男くんと付き合っている時は顔見知り程度だったけれど、今は選択授業で席が隣になったためよく話すようになった。

「お願いがあるんだけど!」
「え、また宿題?」

森山くんは何でもそつなくこなすように見えてそうではなかった。よくこうして宿題のプリントを写しに来たりする。

「あれ、今週って宿題あったっけ?」
「あるよ。プリント二枚も配られたよ」
「えっ嘘!忘れてた!」

そう言って慌てる森山くんに私は苦笑した。

「まあ締切は明後日だし、明日までにゆっくりやりなよ」
「うーん、間に合わなかったら写させて」

語尾にハートが見える。

「いやいや自分で頑張ってよ」
「えー……ってその話じゃなくて!」
「なに?」
「今週末試合があるんだ」
「試合?バスケ部の?」
「そう!来て欲しい」
「え、やだ」
「えっ」
「えっ」

森山くんは私が幸男くんととうの昔に関係が終わっていることを知っている。

「なんで!」

それはこっちのセリフだ!と叫んでやりたい気持ちだがどうしてそこまで驚くのか分からなかった。

「そんなに驚かれても困るんだけど…」
「土曜の午後!」
「いやそういう事じゃなくてね、」
「来て欲しい」
「どうして?」
「どうしても!」

これは怪しすぎる。何かを企んでいるに違いない。

「理由言わないなら行かないよ」
「だって理由行ったら春原さん来てくれないもん」

男子高校生が語尾にもんを付けて許されるのだろうか。いや、この人顔だけはいいから許されるな、と思いながら見つめていると少しきょとんとした顔をした。

「なに、馬鹿にしてんの?」
「してないしてない!俺がちょっと勝手に一肌脱ごうと思ってるだけ!」

既に嫌な予感しかしない。

「……ねえ待って、もしかしてそれって、」
「そう、笠松関連!」
「……絶対行かない」
「来てよ!」
「……私元カノだよ?」
「知ってる」
「それも振られた側」
「うん、知ってる」
「……何企んでるの」
「ひ・み・つ!」
「さようなら」
「ああ待って!」

歩き出した私の前に立ちはだかる森山くんにため息をついた。

「もう私関係ないから」
「春原さんって今彼氏いないでしょ?」
「はあ!?森山くんそれは失礼だよ」
「えっごめん!いるの?」
「いないけど」

いないんじゃん!と大きな声で叫んだ森山くんに苦笑した。少しからかったのは許して欲しい。

「いないなら大丈夫!」
「……日本語通じてる?」
「一生のお願い!」
「……しつこい」

パンッと顔の前で手を合わせる森山くんに低い声で呟いた。

「お願い!」

そこを何とか!と一歩も動かない森山くんを見つめる。もうこの人テコでも動かない気だろう。私は一度深く息を吐くと、口を開いた。

「…………わかったから」
「ほんとに!?」
「うん、行くだけでいいんでしょ」
「うん!ありがと!」

詳細はLIИEするね!と風のように去っていった背中見て私はため息をついた。











ボールの音が響く体育館に足を踏み入れた。久しぶりにギャラリーに混じる。この感覚は久しぶりだ。
体育館の入口にぞろぞろと人が集っている。わざわざこうして休みの日に学校に来て他人の試合を見るなんてみんな物好きだ。過去の私も、その物好きの内の一人だったのだけれど。
それにしても黄瀬くんの人気がすごい。私が来ていた頃とは比にならないくらい人がいる。
私はギャラリーの後ろの方からコートを眺めていた。森山くんがキョロキョロしているのが見える。彼をじっとみていると目が合った。すると何故かこちらに向けて親指をグッと突き出してきた。とりあえず手を振り、気づいたことを知らせる。
各校共にアップの時間が終わったらしい。それに合わせてギャラリーもぞろぞろと動く。上の観覧席が開放されたらしい。私がその場に立ち尽くしていると森山くんが駆け寄ってきた。

「春原さん!来てくれてありがとう」
「うん。ギャラリーすごいね」
「ああ、黄瀬のおかげで可愛い子が沢山…ってそうじゃなくて、春原さん!」
「なに?」
「観覧席じゃなくて、キャットウォークのあの辺で観ててくれない?」

彼が指さした方を見れば、二階の観覧席の端から伸びる廊下のようなところでほとんど人はいないししかも相手校のベンチの近くだった。

「え、やだ。あんなとこ目立つじゃん。しかも相手校側だよ?」
「コートチェンジしちゃえば関係ないし大丈夫!第一クオーターにあそこに居てくれればいいから!」

じゃ!と私の返事も聞かずコートの方へ戻って行った森山くんを睨む。睨んだところで何も変わらないのだけれど。森山くんの向こうには幸男くんが見えた。後輩に何か指示を出しているようだった。
わたしは森山くんの指示通り、相手校のベンチの近くを陣取った。こうしてバスケを上から見るのも久しぶりだ。手すりに肘をつき、コートを眼下に眺める。幸男くんがこちらを見ることはなくて、なんだか拍子抜けした。森山くんがここを指定した意味はなんなのだろう。それに、今日この時間に期待してしまっている自分が恥ずかしくなった。
気を取り直して森山くんを見れば、黄瀬くんになにか耳打ちしている。顔がいい人が並ぶと圧巻だ。二人とも綺麗な肌をしている、と思っていると黄瀬くんと目が合った。イケメンすごい。目が合っただけなのにドキッとした。すると彼は何を思ったのかこちらに向かって手を振ってきた。私は思わず振り返り、近くに人がいないか確認したけれど半径2メートル以内に人はいない。森山くんを見れば一緒になって手を振っていた。なんで。
そのせいで海常側のギャラリーの目が怖い。怖すぎる。二度と平穏な学生生活を送れなくなった気がする。けれど試合開始のホイッスルで私への視線も途切れた。


試合は難なく海常が勝った。


ぞろぞろと退出していくギャラリーに混ざり、私も体育館を出ようとしたけれど、これでは本当に試合を見に来ただけだ。何となく気になって体育館のロビーで森山くんを待ってみた。ギャラリーの大半が出ていき、相手校の部員たちも帰っていった。もう周囲に人はいない。体育館の中ではまだボールの音がしているから練習が続くのだろう。私ももう帰ろうと壁から背中を離した。



「春原っ!」

声がした方を見れば、そこには幸男くんが立っていた。

「……お疲れ様」

絞り出した言葉がそれだった。

「みっ、見に来てくれたんだな」
「……うん、森山くんに誘われて」
「ああ、聞いた」

目立ってたからすぐに気づいた、という彼に目を丸くした。確かに黄瀬くんから手を振られて会場の視線を独り占めすれば彼も気づくだろう。森山くんの作戦か、と少し悔しくなる。
そのあとの私たちと言えば、お互い何を話したらいいのか分からないみたいに沈黙が続いた。分からないみたいではなく、分からない、が正しいのだろう。

「……あの、私もう帰るね」

そう言って玄関の方へ向かおうとすると彼が一歩こちらに踏み出してきた。

「まっ、待ってくれ」
「うん?なに?」
「その、去年のこと、謝りたくて……」

彼のその言葉に、眉間にシワが寄ったのがわかる。

「……別れた時のこと?」
「ああ」
「うーん、アレはお互い話し合って決めたことだし、ゆき、…笠松くんが謝る理由はないよ」

なんとなく、現状に抗いたくて苗字で呼んだ。少し、彼の眉間にシワが寄る。

「…お前、あれから来なくなっただろ」
「え?」
「俺の試合、来るって言ってたのに一度も来なかった」

私を真っ直ぐに見据えてそう言った彼は、眉間に皺を寄せ、眉を下げている。

「友達に戻っても来てくれると思ってた」
「……そう」
「どうして来なくなったんだ…?」

真剣にそう言った彼に私は微笑んだ。

「だって、私は元カノな訳だし」
「っ、元カノ……」
「ほら、笠松くんに新しい彼女が出来た時に厄介でしょ?それに私、当時別れることは受け入れたけど普通に好きだったし、……正直言えば、しんどくて」
「春原……」
「今まで近くにいた人を遠くに感じるのって、思ったよりつらくてさ」

そう言って微笑めば、彼は顔を歪めた。

「周りの目もあるでしょ?別れたのに私が応援行くのって、なんか違くない?あの時は、その、そういう風に言っちゃったけどさ。全く関わらなければ、その、気にすることも減るし、」

過去の自分の嫌なところがズルズルと引っ張り出される感じがして、すごくここから逃げたくなった。

「……友達に戻れば、気が楽になると思ったんだ」
「え……?」
「俺は女子の扱いとか慣れてねえし、一年間も付き合ってたのに、その、こ、恋人らしいこととかしてやれなかったから……春原も俺に愛想尽かすかな、って……」
「恋人らしいこと?」
「あ、いや……、その、キス、とか」

私はその言葉に目を丸くした。

「えっ!」
「えっ」
「別れた理由ってそれなの?」
「……まあ」

赤い顔で俯く幸男くんに、思わず笑ってしまった。

「……私の想像を遥かに超えてピュアだね…」
「うるせえ!……っ、じゃなくて、その、周りの奴らが彼女にしてやってるようなこと、俺はお前にしてやれなかった」
「……笠松くん。笠松くんがしたくない事はしなくていいんだよ」

私のその言葉に幸男くんは一度唇を噛んだ。

「したくない、わけじゃねえ」
「……」
「嫌われたく、なかった」
「……嫌うわけないのに」
「お前は男子高校生の理性のなさを知らないだけだ」
「ふふ、何それ」
「ずっと後悔してた。お前が俺と関わらないようにしてるのも分かってたから、…それを伝えるタイミングが分からなくて」
「あー…、それで森山くんが」
「……ああ」
「不服そうだね」
「有難いが気に食わねえ」
「ふふっ、」

私が笑ったことに安心したのか、幸男くんも少し微笑んだ。言葉はお互い出なくて、また沈黙が続く。でも、幸雄くんがなにか伝えたいというのは分かったから彼の言葉を待った。

「あのさ、……」
「……うん」
「…俺は、春原のことが好きだ。もちろん、今も」
「幸男くん……」
「俺はあんまり、そういう表現が得意じゃねえけど、お前に告白された時もすごく嬉しかった。今もお前の隣にいたいし、その、触れたい、って、おも、う」

真っ赤な顔をしてそう言い切った幸男くんに思わず笑みがこぼれる。彼の精一杯の愛情表現なんだと思う。ここから進むには、私からも歩み寄らないと。

「…じゃあまずは」

私は両手を広げた。

「?」
「ハグ、しますか…?」

幸男くんは顔を真っ赤にしながらも、こちらに一歩踏み出した。


綻んで綻ぶ
「森山先輩ー!!笠松先輩がさっきの元カノさんと抱き合ってるっスー!」
「何!?本当か!!!」
「お前らうるせえ!!!!!」

back Main
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -