夜久衛輔の場合
「私、もうダメかもしれない」
ある日、零れてしまった言葉だった。
努力して努力して、それでも結果が出なくて。でも、そんな時に甘やかしてくれるほど彼は「優しい」人ではなかった。だって、自分にも周りにもとても厳しい人だから。そんなの、分かってたのに。
「結果がついてこないのは、何かが足りないんだろ」
彼のその言葉に、私の中の何かが音を立てて崩れていくのがわかった。
模試の結果が悪かった。志望校はC判定。ふた月前の模試はA寄りのB判定だったのに。このふた月、頑張っていなかったわけじゃない。
自分の夢のため、親のため、将来のため。
学校が終わったら予備校に通って、授業がない日も自習室に通って。休みの日は朝から図書館に行ってテキストを開く。時間の許す限り机にかじりついて頑張った。はずだった。
「……足りない?」
私に何が足りなかったのだろう。でも、目の前にいるこの人は私より努力していた。勉強に部活に。手の中にあるもの全部に目を配って、全てを把握して、努力の割り振りをする。きっとこれが春まで続くのだろう。
そうか、私には努力が足りなかったんだ。
私はやれるだけやった、と思う。多くの時間を費やしただけで、何かやった気になっていただけかもしれない。でも、あっけらかんと、さも当たり前のように「足りない」と言った彼が、今だけは嫌いになりそうだった。
「お前、部活も入ってないじゃん」
うん。受験に専念したくて早期退部したから。
「で、予備校にも通わせてもらってんだろ?」
うん。親の援助を当たり前に受けられる環境で、それに甘えさせて貰っている。
「それで結果がついてこないなら、やっぱり足りねえんだよ」
彼が言いたいのは努力だけじゃない。多分私には、覚悟も何もかもが足りないんだ。
「……そうだね」
そう。全てを捨てでも、夢を掴もうとする覚悟が。
「ねえ、衛輔」
「ん?」
「私、決めた」
私がすっくと立ち上がると、彼の視線が私についてきたのが分かった。私は隣に座る彼を見ずに、前を向いて口を開いた。
「別れよう」
「……は?」
私たちの関係が終わるのが、公園のベンチだなんて予期してなかった。私は彼が好きだ。
でもここが私の、私たちの終着点だ。
「その足りないものを私が補う為には、衛輔が、恋愛が邪魔になる」
だって、結果がついてこなくて、こんなにもつらくて、その上報われないこの努力を認めてくれる人は誰もいなくて、甘えたい人にも甘えられない。そんな状況があるから、私はうじうじとそれに縋って後ろを向きそうになるのだ。
「わたし、絶対医者になりたいの」
衛輔を見れば、彼はぽかんと口を開けてこちらを見ていた。
「だから、別れて欲しい」
私のその言葉に、彼は開けていた口を閉じて下唇を噛んだ。
「……分かった」
頑張れよ、と笑顔で言った衛輔が、眩しすぎて見れなかった。
別れてから三日間。衛輔は私に話しかけてこなかった。のに。
「なあ栞」
「うん?」
「お前が好きな小説の新作出てたけど読んだ?」
「……先週出たやつ?」
「そうそう」
「あれ前編らしいから受験終わって後編出てからまとめて読む予定」
「そっか、受験後の楽しみ作っとくのアリだな」
「……そうだね」
*
「栞」
「……どうしたの?」
「これやるよ」
「あ、これ、」
「新作の菓子!抹茶の菓子あったら絶対買ってたろ?」
「……くれるの?」
「コンビニ寄ったら売ってたからついでにな」
「……ありがとう」
衛輔は普通の友人としてよく話しかけてくるようになった。なんなら付き合っていた時より気を遣わせている気がする。そんなことしてもらうつもりはなかったし、完璧な彼の傍にはいたくなかった。自分がどんどん惨めになる気がして、拒絶はせずとも距離はとっていた。
▽
「よう」
「今いい?」
廊下を歩いていると、黒尾と海に声をかけられた。私はその二人に話しかけられる話題がひとつしか思い浮かばなくて少し黙ってしまった。
「…………どうしたの?」
「俺らがお前のとこに二人で来るなんて話はひとつに決まってんだろ」
そう言って笑う黒尾とこちらをにこにこと見つめる海に居心地が悪くなる。
「…………衛輔の話?」
「そ、わかってんじゃん」
相変わらず世話焼きなふたりだ、と思う。黒尾がこちらを見ながら口を開いた。
「最近どう?」
「なにが?」
「夜久との関係」
「どう、って……友達に戻っただけ」
「ふーん」
意味ありげな感じでこちらを見る黒尾に少しムカついて睨んだ。
「何」
「このままでいいわけ?」
「どういう意味?」
「こらこら黒尾、意地悪な言い方をしたら春原が可哀想だろ」
少し意地悪な黒尾を海が制してくれる。
「春原、夜久がさ、“あの時別れるんじゃなかった”ってよく言うんだ」
「え、」
海の言葉に驚いた私の顔がそんなに面白いのか黒尾がにやにやしながら口を開いた。
「お前に振られたの、青天の霹靂って感じでビックリしすぎて今更じわじわキてるらしいよ」
「……でも今普通に友達っぽく接してきてるし」
「あれはお前と話すチャンスを狙ってんだよ」
「今の春原に優しくする男がいたらそっちに行くかもって」
「……そんなこと、あの衛輔が言ったの?」
私は「恋愛が邪魔になるから」と伝えて別れたはずなのに。衛輔のことが嫌いになったわけじゃないのに。
「何?信じらんない?」
「だって、衛輔ドライだし、別れたいって行ったらすぐに分かったって言ってくれたし」
「あー…、まあアイツ、不器用だから」
「衛輔はなんでも器用にこなす人だよ」
「お前以外のことではな」
そう言って苦笑した黒尾と海に、衛輔の気持ちを考えてみた。彼は自分にも他人にも厳しいだけで、優しい人だ。私の気持ちを汲んでくれたのだろう。自分の気持ちより優先して。
「衛輔、……まだ好きでいてくれるんだ」
「そりゃそう、……っておい、待て待て泣くな」
「ごめ、……止まんなくて」
まさかこのふたりの前で私が泣く日が来るとは思ってもみなくて少し笑ってしまいそうになる。
「春原も泣くほど好きってことだろ?」
海のその言葉に私は涙を拭ってふたりに微笑んだ。
「ふたりとも、ありがと」
「おう」
「どういたしまして」
「ま、こっからどうするのかは春原次第だから、後悔のないようにな」
「うん」
黒尾と海にそうアドバイスをされて肯定の返事をしたけれど、私から衛輔に接触することは無かった。どう動くのが正解なのか分からなかったから。
▽
今日は土曜日だけど、図書室が受験生向けに解放されているため重たいテキストを何冊もカバンに詰めて学校に来ていた。
まだ受験本番には期間があるからか図書室はほぼ貸切状態だ。司書の人に会釈をし、窓際の人気のない席に座った。ここはカウンターからの死角だし人目も気にならない。分厚いテキストと教科書を広げた。
テキストを三ページほどこなしたところで隣のイスが引かれる音がした。
「よう」
そこにいたのは衛輔だった。突然の登場に一瞬ここがどこだか忘れてしまって思わず周りを見回した。
「……なんで?」
「なんで?って何だよ」
「……そのままの意味だけど」
隣の席に座る衛輔を見ながら私は口を開いた。
「部活は?」
「今日は昼まで」
そう言われて時計を見ると12時を回ったところだった。中庭のベンチで食べようと思って作ってきた弁当に一瞬思いを馳せた。
「そっか、お疲れ様」
なんだかお昼を食べる気も無くなってしまった。今は集中力もいい感じだったし、衛輔から視線を外してノートに向き直った。
「……頑張ってんだな」
机の上にあるテキストや教科書に目を向けてそう言った衛輔に泣きそうになる。
「一人で頑張るって決めたから」
シャーペンに力を入れ紙の上を滑らせる。けれどこれじゃ、何も頭に入ってこないな、と思った時だった。私の手に衛輔の手が重ねられた。
「あのさ、」
思わず衛輔の方を見た。久々に正面から合った視線に心臓がドクンと跳ねる。
「その一人で頑張るってやつ、やめないか?」
「……え?」
「俺も栞と一緒に頑張りたい」
眉を下げてそう言った衛輔の意図はよく分かった。けれど、突き放したのは私だ。
「なに、言ってるの」
「俺、お前に厳しかったなって今なら思う。うんうんって話聞くだけでいいところでめちゃくちゃ口出したり努力が足りないって言ったりさ」
「…………」
「それがお前を追いつめてたなんて思ってなかった」
衛輔なりに考えてくれたのだろう。それだけで嬉しかった。
「逆にお前、俺の事に口出したりしなかっただろ?だから俺に興味無いのかなとか思ってた」
衛輔のその言葉こそ私にとっては青天の霹靂だった。
「衛輔は私が口出すまでもないじゃん。すごい人だから」
「そんなことねーって」
「そんなことあるよ。衛輔は万全の状態をキープして、その上で最大の努力をする人だもん。私とは違う」
「そう、違うんだよ」
心臓がチクリ、と針で刺されたようだった。私から言ったこと、なのに。
「だからこそ、お前のこと支えたい」
「支える、って……」
「支えたいって言うか、支え合いたい、だな」
私の手に乗せていた手を離して頭の後ろに回した。後頭部を摩るその仕草は、衛輔が照れている時にするものだ。
「お前にも俺のこと支えて欲しい」
顔を少しだけ赤くしてそう言った衛輔に少しだけ口角が上がる。
「衛輔は一人で頑張れるタイプじゃん」
「あー……俺もそう思ってたんだど、それがそうでもなかったって言うか……」
「?」
「お前がそばにいなくなってから気づいた。栞が近くにいてくれただけで自然と頑張れてたんだなって」
「……衛輔」
「俺、お前のことすげえ好きだ。やっぱり一緒にいたい」
「うん。黒尾と海に聞いた」
「へえ、黒尾と海に……って、は!?」
「ふふ、あのふたりも大分お節介だよね」
「アイツらまじか……」
頭を抱える衛輔の腕に手を添えた。
「衛輔」
「ん?」
「私、頑張るから」
「……ああ、俺も」
久しぶりに重なった唇はすごくすごく優しかった。
ストイックなふたり「……もっとしていいか?」
「止まらなくなるからだめ」
「……」
「頑張るって決めたでしょ」
「俺もしかして受験終わるまでお預け?」