なんでもない夜のこと


水面を叩けばピシャリと白く色づいた水が撥ねる。浴槽につかって、そのふちに肘をついて湯舟の外で身体を洗う男をぼんやりと見遣る。自分より少しだけ色素の濃い身体には程よく筋肉がついており、初めて見た時より、更に付いたように思える。
ふと下を覗けば決して肉付きのいいとは言えない身体。体質からか筋肉の付きづらい自分の身体は、細くあばらが浮いていて貧相だ。
はあ、と溜息が漏れる。身長だけ伸びて筋肉の付かない身体に嫌気がさす。男として、悔しいのだ。

ばしゃりと水面が揺れる。先程身体を洗っていた男が正面に向かい合う様に入ってきたのだ。決して広いとはいえない浴槽に男二人はやはり厳しい。私は膝を折り曲げてスペースをつくってやる。
すると正面の男はせっかく浴槽に浸からないようにと髪を束ねていたタオルをさらっていった。案の定長い髪は重力に従って浴槽に散らばる。
「せっかく束ねていたのに。濡れるじゃないか」
そう窘めると男はんー、と間延びした返事を返してきた。水面に散らばる髪を一房掬って無言でいじりだした。私ははあ、とまた溜息をついて浴槽の外に視線を向ける。
会話もなく、浴室にはただぴちゃぴちゃと控えめな水音だけが響く。正面の男は黙々と髪の毛をみつあみにしては解き、みつあみをしては解くを繰り返している。
いい加減逆上せ始めた私は立ち上がり、浴槽から出る。
「逆上せる。出る。お前は?」
「んー、もう少ししてから出るよ」
濡れた髪の毛を束ねてぎゅうと水気を切る。わかったと一言おいて浴室からでた。
身体の水滴を拭い、髪の毛を拭くのもそこそこに下着とズボンを掴んで身につける。
リビングに入ってまっすぐ冷蔵庫に向かう。ボトルの紅茶を出してグラスを二つ取りに行く。カラカラとグラスに氷を入れて紅茶を注ぐ。一つはストレート、もうひとつはミルクと少しのガムシロップ。砂糖の量も、すっかり覚えてしまった。
無言でその作業を終え、ローテーブルにグラスを二つ並べる。湯舟につかり過ぎた所為か少しぼんやりしてきて、コースターを取りに行くのも面倒だった。
ソファを背もたれにクッションをひいた床に座る。テーブルに置いてあった読みかけの本を手にとって、ストレートティーを一口飲む。あったまった身体にストレートティーの冷たさが心地好かった。
栞の挟んだページを開いて読みはじめるとほどなく、男が風呂からあがってきた。
男はまっすぐこちらに向かってきて、私の真後ろのソファに腰を下ろす。
「何読んでるの」
私が無言で表紙を見せるとうへぇ、難しそうだとぼやく。
「ねぇエドガー、髪の毛拭いてもいい?」
すでにタオルを私の頭に当てているのだが、私は首肯してページをめくる。
真後ろの男は優しく長い髪の水分をとっていく。あまり髪の毛を触られるのは好きではないし、親しい仲のものにもあまり触らせはしないのだが、この男にだけはどこまでも許してしまう。他の誰との分類とは異なる、唯一だからだろうか。
タオルを広げてわしわしと髪を拭かれる。一定のリズムと気持ち良さから睡魔が襲ってくる。目の前の文字も二重に見えてきた。
「エドガー、眠いの?」
甘いテノールが聞こえてきて、いいやと返事をしたいのだが、いよいよ睡魔が勝ってきた。もうまぶたも重い。
意識が途切れる寸前、ふっと笑う気配と頬に柔らかい感触をかんじた。
もう瞼は持ち上げられなかった。



なんでもない夜のこと



801の日だったのでやまなしいみなしおちなし。シットリナス。













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