ずぶ濡れ彦星様 しとしと降る雨が全ての音を吸い取るような昼下がり、午前中だけだった練習を終え一息ついていたその時、静寂を破るように携帯が鳴った。ろくに着信の相手の確認もせず、通話ボタンを押し、耳に当てた。 「アロー」 「チャオ、エドガー?」 即通話を切りたくなった。なんで確認もせずに電話を取ったのか後悔した。電話を耳から離そうとすると、電話の向こうの人物は、電話切らないでよ、と釘をさしてきた。 「ねぇ、今日何の日か知ってる?」 突拍子もなく電話をかけてきた男が口にしたのはまた、突拍子のないことだった。 思い当たる節はなったくないし、祝日でもないただの平日。なにかあったとすれば、今日は試験前で授業がなく、練習も早く終わったという事ぐらいだ。もしかすると通話の相手の誕生日か何かかとも思ったが、私にそれを祝う謂れはない。誕生日を知らなかったことに少し胸が痛んだのは気の所為だ。 「タナバタだよ、タナバタ!」 はぁ?と声を漏らせば、知らないの?!と非難めいた声が聞こえた。 「俺も今朝キャプテンに聞いたんだけどね」 なんでもやっとの事で結婚できた恋人達が、父親の怒りを買っちゃって川を挟んで離れ離れにされちゃったんだって。で、年に一度だけ、つまり今日だけその川に橋が架かって二人は出会えるんだって。 そう、キャプテンとやらに聞いた話を嬉々として話すのを私は話半分に聞いていた。何故そんな話を私にするのか分からない。 「で、それがどうした」 「うん、だからね」 越えてきちゃった。 その言葉を理解した途端、私は走り出した。いつもはきちんと履く革靴の踵を潰して部屋を飛び出し、エレベーターの下りのボタンを必要以上に押して、到着を告げるベルと同時に飛び出し、エントランスを抜け、寮の入口に向かった。オートロックの向こうに見慣れた姿を見つけた。だがそれはいつもの姿と少し違っていた。 オートロックの自動ドアをくぐって、私は怒鳴りつけるように叫んだ。 「なんでお前はずぶ濡れなんだ!」 呑気にチャオなんて言っている目の前の男にふつふつと怒りが湧く。 「なんでって、泳いできたから?」 その言葉に怒りを通り越して脱力する。深くため息をつくと、嘘だよ、嘘、と取り繕うように言う。そんな事ぐらい解っている。 「だってこっち雨降ってると思わなかったし」 ああ後さっきの続きだけど、雨が降ると川が氾濫しちゃって会えないんだって。 ペラペラと話を続けるフィディオに私はポケットに入っていたハンカチを黙って渡す。フィディオはそれを使って濡れた顔を拭った。 「お前学校は」 「テストで休み」 「練習は」 「大丈夫、マルコに言ってきた」 「私が帰るの遅かったらどうするつもりだったんだ」 「まぁそれも天命って事で」 飄々とした受け答えをするフィディオが、不意に私の手首を掴んだ。いつもは私より暖かいその手は今は酷く冷たかった。 エドガー、と、真剣な声色で名前を呼ばれ、真剣な視線とかち合う。 「…ずぶ濡れだな」 「うん」 「手、冷たい」 「うん」 「風邪をひくぞ」 「うん」 「…私は雨の日は外に出たくない」 「うん」 「紅茶が飲みたい」 「うん」 「それから…」 「エドガー」 ぎゅう、と、掴む手に力が入る。 「会いたかった」 ぐぅっと胸が詰まる。圧迫される手首からトクトクと鼓動が全身に伝わる。 私は返事をすることなく、掴まれた腕を引いてオートロックの自動ドアをくぐった。 ずぶ濡れ彦星様 七夕フィエド |