短編 | ナノ



天使視点

※社会人夫婦設定/死ネタ



脳死は人の死なのか、という議論は幾度となくされてきただろう。臓器提供が可能になったのは実はそう昔の話ではない。私は生前から臓器提供の制度自体に賛成だった。脳死であれ心肺停止の上での死であれ、もう私には必要ないものが他人の生きていく中で利用してもらえて人の為になり、それが積み重なって世の為になるのであればそれ程名誉で誇らしいことはないと思っている。ただそれは確かに自分自身のみの考えであって、残された側の人間だったり自分の死後の状況についての思考は足りていなかったのかも知れない。文頭に戻るが、脳死は人の死なのだろうか。これが人の死なので無ければ私は昏睡状態とでも言えば良いのだろうか。そして、これは人の死なのであれば私は幽体離脱とでも言えば良いのだろうか。
コンコン、と病室のドアが鳴った。個室の為、私しか居ないのだから勝手に開けたら良いものを彼はいつも律儀にノックしてから丁寧にドアを開ける。慣れた手つきで持参した花束と、更にサイドテーブルにある花瓶を持って洗面台へ移動する。既に活けられた花達は少し萎れた様子であった。彼の来院は3日ぶりになる。私がこうなってから、もう半年以上経つというのに彼は随分マメに週2,3回は相も変わらず来てくれる。
古くなった方の花を捨て、花瓶の水を変える。水が溜まるのを待つ少しの間に彼の微かな溜め息が聞こえた。まるで、一体いつまでこうしているのか、と悩んでいる様に見えた。きっと私がコロリと一思いに死んでしまえたのなら彼をこんなに苦しめることにはならなかったのだろう。
キュッと蛇口を締めた。新しい方の花の包装を取り外し、花瓶に生ける。この花は一体、誰の為に用意されているのか。私には既に目で見て愛でることも、花で香りを楽しむことも、皮膚で感触を実感することも出来ないのに。花瓶を元の位置に戻してから横たわる私の傍に置いてある椅子へ彼は腰を掛けた。



「まだかな」



話しながら私の手を触った。温もりがあろうが私はもうそこに居ないも同然なのだ。何が、まだ、なのか彼の言いたいことが私には理解出来ない。私には未来がない。まだ、も、もう、も何も無い。彼には現実が見えているのか、それとも見えている故にこんなに思い詰めているのか。こうなってから私は彼のことがどんどん分からなくなってしまった。



「どうして何も相談してくれなかったんだい?」



きっとドナーカードについてのことだろう。私は臓器提供の意思があった。申し訳ないが特別に熱意があった訳ではない。ただ私がこうなる前に、たまたま体調を崩して病院に行った際にドナーカードが置いてあっただけだ。そしてたまたま気が向いてサインした。家族の署名欄があったが、わざわざそんな話をするのも憚られたので私はそのままサインだけをしてスマホケースのカードポケットに入れていた。それを交通事故に遭い、脳死判定をされた際に担当医が彼に渡したらしい。
きっと優しい彼なら、私の意思を尊重してくれるだろう。ましては胸の張れる名誉な奥さんだ、とでも思ってくれると思っていた。私の予想は遥かに外れてしまった。彼は思い詰めてしまった。その結果が今のこの惨状だ。要するに彼は私の臓器提供の意思を拒否したのだ。



「まだだよ」



彼は泣きながら私の手を強く握った。だから、まだも何も無いんだってば。そんな風に抗議したところで彼に届くはずはないのだ。私の脳はもうお飾りで、身体を動かすシグナルを身体に伝えることすら出来ない。私の身体がたまたま動いたところでそれは反射なのに。
私も自分で考えることはある。今、私が思考が出来ている状況も一体これが何時まで続くのだろう、と。仮に臓器が摘出されて、この思考が途切れたのであれば私は昏睡状態であって脳死で無かったのであろう。途切れなければ私は脳死であって今は幽霊という立場になるのだろう。そんなしょうもない無駄なことを考える。
一言、何も言わなくてごめんね。と言えたら良かっただろうか。もう苦しまなくて良いんだよ、同意してください。とお願い出来たら良かっただろう。こうして死者は生前の行いに後悔をして、彷徨うのだろうか。それが所謂地縛霊と呼ばれる存在なのだろうか。何せ私も死ぬのは初めてだから分からないことだらけなのだ。そう何度も死んでいては困るんだけど。



「次来るのは明後日になっちゃいそうだ」



そんなに頻繁に来なくてもいいのに。別に来てくれることが嫌なのではないが、前に進んで欲しい。私はもう屍。仮に屍ではなくとも屍同然なのだ。私のことは早く切り捨てて、切り替えてくれはしないものか。きっとしてはくれないのだろう。根気強さは彼の方が上だったみたいだ。生前、口喧嘩では負けたことがなかったのに。今でも喧嘩さえ出来れば説き伏せられたかも知れない。全く無念。
彼は心惜しそうに私の頬を撫でて荷物を手に取り椅子から立った。少し泣きそうになっている様に見えた。病室の窓から西日が射す。彼は少しの間、夕陽を見つめて意気込んだように鼻から息を吐いて病室を出た。



「このまま、続けばいいのか」



そんな風に彼が声を漏らしていたことを私は知らずにいた。



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