さようなら、物質 ※死ねた 彼は物理が得意だった。とは言えテストの点数に困ることの無い位に他科目も苦手ではない。やっかいな敵は副科目の家庭科である。ただ今はそんな話がしたい訳ではない。 彼は歳上の女性が好きだった。落ち着いた女性に魅力を感じる。よくある思春期の男の子の思考だ。しかし理想と現実とは違うもので彼はクラスメイトの女性に恋をした。歳は同じではあるが随分落ち着いており、心の余裕を感じていた。彼は彼女ほど魅力的な女性を見たことがない。 彼はミステリー小説が好きだった。ふと彼女を見ると彼が好きな作家のレアな単行本を読んでおり、彼は思わずその本を貸してくれないか、と提案した。彼女は少し驚いた顔をしたものの、私は既に何度も読んでいるから構わない、と快く貸してくれた。これが彼と彼女の出会いだ。今から六ヶ月ほど前のことになる。 本を貸してもらってから二週間程が経った。 彼はテニス部に所属していた。あぁ、誤解しないで欲しいが彼は今でもテニス部員だ。過去形だからと言って辞めたわけではないので心配しないで欲しい。彼と彼女は、というとたまに会話をするような関係になっていた。クラスメイトから知人へワンランク上にいったような感覚を彼は少し喜んでいた。 そんな時、レギュラーメンバーとしてテニスに励む彼の元に彼女が来た。ただテニスコートを眺めていただけで彼に会いに来たという訳ではなかったのだが彼の鋭い洞察力も彼女の前では狂ってしまうようで柄にもなく練習を少し抜け出して彼女に声をかけた。 「テニスが好きなのかい。スポーツをしているところは見たことがなかったよ」 「テニスに限った話じゃないんだけれどね、何かを一生懸命してる人って素敵だな、と思っていたところよ」 「苗字は部活には所属していなかったね」 「うん、忙しいし運動部には入りたかったけど体力無いからね」 「そうか、体力をつけるトレーニングならいつでも付き合うよ」 「ふふ、君が言うなら本当にムキムキになれそうね。じゃあ私はこれで」 「あぁ、また明日」 少し微笑みながら手を振る彼女に安心していた彼だったが後に彼はこの発言を後悔することになる。そんなことも知らないこの時の彼はまた明日会えたら小説の話でもしよう、と然り気無く勝手な計画を立てていた。 テニスコートの近くで会ってから三週間程が経った。 彼女はあの日を境に学校に来なくなり、この日は久し振りの登校だった。体調が良くないのだろうか、等と彼は様々な可能性を考えたが納得のいくものはなく、本を返すと同時に直接本人に聞くことにした。珍しくこの時の彼は緊張していた。何故だったのだろうか。 「おはよう、久し振りだね」 「あぁ、うん。どうしたの?」 「遅くなってすまない、本を返しに来たんだ」 「君の返却が遅くなったんじゃなくて、私が受けとるのが遅かった、よね」 「いや、二週間の内に返せていれば問題はなかったんだ、苗字は気にすることじゃない」 「有り難う。優しいね」 彼女の言葉に彼は少し頬を赤らめながらも気になっていた本題について質問した。彼女は、家の事情だ、と言った。彼は考え出した可能性の中に『家庭の事情』もあったが納得がいかなく弾いたので、彼女に何となく不信感を抱いた。しかし隠すということは込み入った内容なのであろう根掘り葉掘り聞くのも失礼だ、と潔く引いた。 彼女が久し振りに登校してから一ヶ月程が経った。 彼女はあの日から毎日学校に来ていたし、彼とも確実に友情を育んでいったからだろうか。彼は油断をしていた。五時間目の後の休み時間だっただろうか、彼女は顔色が悪かった。彼は勿論心配をしたが彼女は大丈夫だ、と笑顔を作って見せた。しかし、六時間目が始まるギリギリの瞬間に小走りで教室の外へ出た。彼は妙な胸騒ぎに駆り立てられ廊下に出た。保健室に行っているのかも知れない、と廊下を走り階段の踊り場に行くと階段で倒れている彼女を見つけた。彼は気は動転したものの彼女を抱き上げ保健室へ走り抜けた。保健室に行ってからは、取り敢えず君は授業へ戻りなさい、と言われ仕方なく教室に戻ったが彼の心中は授業どころではなかった。 彼女が倒れてから一週間程が経った。 連絡先を交換していないことに初めて気がついた彼だった。あの後彼女がどうなったか分からない彼は焦っていた。部活も身に入らぬ程で、部長の手塚も珍しいなと動揺していた。そしてこの日彼は担任に呼び出されることになった。何かをしでかした心当たりなど当たり前のようになく、かと言いこの時期に何か頼み事があるようにも思えない。考えるのを止めた彼が大人しく職員室へ向かえば担任は彼を別室に案内する。何やら深刻な話があるようだった。 「苗字のことだが」 「はい」 「本人の希望で何処とは言えない。ただ苗字は今入院していてな。元々病気を患っていたからだろうが、暫く登校は難しいらしい」 「……」 「苗字から乾に、有り難う、と伝言を貰ったんだ」 「そうですか」 「心配だとは思うが今は落ち着いて、苗字が帰って来た時に迎えてやってくれ」 「……分かりました」 彼は何も考えられなかった。まさか病気だったとは。それに気が付かなかった自分にも嫌悪した。病院が分からなければ見舞いにもいけない。来るな、という意味なのだろうか。彼は一生懸命考えたが何も生み出されなかった。ただ彼は待つしか出来ない。 彼女が入院したと知ってから二ヶ月程が経った。 彼女がやっと登校してきた。彼女は恥ずかしそうに、見つかっちゃったね、と彼に笑い掛けた。彼は彼女に何も言えなかった。ただいつも通り挨拶をし、小説の考察について話し合ったり、そんな日々を繰り返していた。あの日から彼女と彼の中で病気の話はタブーのような扱いになっていた。どちらも口にはしない。彼は気になっている。彼女は彼が気になっているのを分かっている。それでも双方とも何をするでもなく"普通"を楽しんだ。 彼女が再び学校に来るようになって一ヶ月程が経った。 あのタブーを彼女が破ったのはこの時だった。珍しく放課後に彼女から、この後一緒にカフェに行けないかな、と誘いがあった。彼は間髪入れずに、勿論お供しよう、と答えた。彼女は彼の返事の早さに少し笑って、お勧めのお店なの、と話してくれた。彼女は彼に自分の好きなものをこの一ヶ月かけて少しずつ教えていた。記憶力が元より良かった彼は問題なく全てを把握していた。ただ彼女が意図して自分の好きなものを彼に教えていたことを彼が気付くのはまだ先の話になる。 一緒に歩いてカフェへ行く。彼は道を知らないので彼女が先導している。彼女の右斜め後ろを歩く彼。端から見ると恋人同士にでも見えているのだろうか。彼は少し心を踊らしていた。 着いたカフェは大きな切り株のような外観で、ログハウスのような内装だった。そして壁一面は本棚が並んでおり、まるで図書室だった。 「凄いでしょ、私のお気に入りなの」 「いつまでも楽しめそうだな」 「でしょ」 少しいつもよりテンションの上がっている彼女に彼は微笑み掛けながら、店員により席に案内された。彼女はレモンティーを、彼はコーヒーを頼んだ。本について30分ほど話していると彼女は1つの本をカフェの本棚から取ってきた。 「この本はね、私が一年生の時に見つけたの。病気のせいで学校には行けなかったからね」 「……どういった内容なんだい?」 「人間の定義について語ってるの」 「哲学的な話だろうか」 「物質的な考え方をする主人公と哲学的な考え方をする人の対話形式よ」 「興味深いね」 「主人公が言うのよ。『人間も死ねばただの物質に戻る。そう考えれば生も死も物質が踊らされているだけの現象なんだ』ってね」 「……」 「そう考えると死ぬのも怖くないでしょ」 ふと彼は思った彼女に感じる心の余裕は死を恐れないところにあるのではないかと。彼女とそんな話を繰り返しその日は別れた。カフェの前で彼女を見送った彼は帰宅するとパソコンに向かって人間の身体の成分について調べ始めた。物体も突き詰めれば物質だろう。そうすれば人間も確かに物質かも知れない。 彼女とカフェに行ってから一週間程が経った。 彼女はあの日から彼と共に行動することが増えた。今まではどちらと言うと彼から話し掛けていたがここ一週間は彼女から話し掛けることの方が多かった。他愛もない会話を楽しみ距離はどんどん近付いていくのを双方が感じていた。しかしその距離は突然離れてしまうものだった。 放課後になると彼女は彼を誘って屋上へ行った。初めての行動をする彼女に彼は戸惑いを隠せなかった。何より何故か彼女が怖かった。 「ここはね、たまーに開いてるの。多分煙草を吸っている先生が閉め忘れたんだと思う」 「よくやるのかい」 「たまにね」 彼女は屋上にスカートを整えながら寝そべった。彼は彼女の近くに腰を下ろした。この日の彼女は儚く、美しく、そして恐ろしくあった。人は美しいものを恐ろしいと思うのだろうか。 「人間はどうして必死にならないといけないんだろう」 「……苗字は心に余裕を持っているように感じるね」 「……何でか分かる?」 「醸し出す雰囲気じゃないのかな」 「人が必死にならないといけない理由は終わりが分からないから。私が心に余裕を持ってるのは終わりが分かってるから」 「……」 彼女は深刻な顔で彼を見つめる。上体を起こし立ち上がる。スカートを払いながら彼に微笑みかけるとフェンス前に移動し、そこに肘をかけ校庭を見下ろした。 「自由に選べるときに人は余裕を持つ」 「……」 「私、余命があるの。余命を延ばすためには薬を定期的に接種しないといけなくて、そのための手術も受けないといけない」 「そこまで重い病だったのか」 「でも、私はそれを望まないわ。それだけ苦労して結局死ぬときは死ぬのよ。だから私は自分の死にたいときに死にたい」 「……」 「物質に帰るの。だから悲しむ必要なんかないわ。私は死ねば既に私じゃなくなるんだからね」 腰を下ろしたままの彼は地面を見つめていたが彼女の言葉にふと顔をあげると彼女は既にフェンスを乗り越えていた。これは尊厳死だろう。自分にそれを止める権利はあるのだろうか。彼女が落ちていくのを彼はじっと見ながらそんなことを思っていた。 キャー、と校庭から声がした。我に返り、急いで校庭へ行く。重みのせいだろうか、頭から落ちた彼女はもう彼女と判別がつかない程だった。衝撃で足が曲がるはずのない方向へ曲がっている。確かにそれは既に苗字ではなかった。苗字であった物質だった。 水素、酸素、炭素、リン、カルシウム、その他25種類ほどの元素。彼が前に調べた人間の身体の成分は以上の内容だった。苗字名前が前記の物質に変わった。彼女の言う通り悲しむ必要はないのだろう。何故なら目の前の死体は苗字名前ではなく只の物質なのだから。 彼女が物質に変わってから一週間程が経った。今、現在の話になる。 彼女は火葬された。彼女の机には花の生けられた花瓶が置いてある。いつになるとそれは無くなるのだろう。彼は今日、彼女の家にいくことになっていた。彼女のお葬式は身内だけで済ませたらしく彼は参加できなかったが、生前彼女は両親に彼の話を良くしたらしく後日担任を経由して招待して頂いた。 学校を終え、彼女の家へ向かう。カフェの直ぐ近くだった。彼はチャイムを鳴らし彼女の両親へ軽く挨拶を済ませると彼女の仏壇に向かった。遺影はすました顔をしていて、自分の前ではもう少しにこやかに笑っていたんだけどね、と彼は思った。そんな彼に彼女の母親が話し掛けた。少し驚いたが彼は振り返る。 「骨は埋めてないの。女の子だから結婚せずにずっと親の元なんて可哀想でしょ?散骨にしようかと思ってね」 今思えばテニスに限らずスポーツをしなかったのも病気のせいだったんだろう。そう思えば海にでも散骨して縦横無尽に駆けられるなら彼女も本望かもしれない。と彼は思った。そして、一つだけ欲が出た。 「……大変言いにくいのですが」 「なにかしら?」 「……骨を一欠片頂けませんか」 「……名前は学校に行けなくて友達が居なくてね、乾くんが初めての友達だったのよ。そんな乾くんと一緒に居れるなら本望かもしれないわね」 そう彼女の母親は言い、小さな木箱に彼女の小振りな骨を一つ入れ彼に渡した。少しの間、両親と話した後彼は彼女の家を後にした。 彼は少し歩いて振り返り、ここが彼女の産まれ育った家なのだろうか、と考えた。家に帰る途中のカフェを見て、彼女はここで幾らの時間を過ごしたのだろうか、と考えた。そして家に帰り、彼女はもう居ないのだ、と確信した。それでも彼には貰った骨が彼女にしか見えなかった。 さようなら、物質。苗字名前は他の元素を失い只のリン酸カルシウムの塊になった。 おかえり、苗字名前。このリン酸カルシウムの塊は乾貞治の中で苗字名前になった。 企画へ提出 [BACK] ×
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