悠久の丘で
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小さな掌

 親が死んだ。AKUMAに果敢にも向かって行って、だ。
 俺だったら、殺せたのに。
 血の海の中で、俺は初めて戦う、という事を知った。

 泣く事しかできない自分なんて嫌いだ、ちっとも進もうとしてない。彼に頼ってるだけ。


  *


 彼が出発してからまだそんなに経っていない。

「…クロス…さん?」
 朝日が差し込む時間だというのにこの人の部屋には朝日の片鱗すらも見えない。暗くて、少し眩暈がするのはそこらじゅうに転がっているビンのせいだろうか。
 やけに豪奢なベッドに片膝を乗せる。乗せて勢いをつけてもう片方の足と一緒にベッドの上へと乗り上げるとついた手のすぐ近くに紅い色があった。
「…ひゃぁああ!」
 ビックリして手をどけると身体のバランスを崩してベッドの下に落ちそうになって…すんでの所で差し出された腕の中で瞳を白黒させた。
「…リー、怪我をするなって言わなかったか…?」
「あ…はは、言われました」
 5、6歳頃の女の子の体重くらいは支えられる。それが例え寝起きであっても、気付いたときすでに落ちかけていたとしても、だ。
 帰ってきたクリスに怪我でもさせたリーを返して何を言われるか分かったものではないから注意もするだろう。
 ベッドから気だるげに身を起こしたクロスはとりあえずリナリーをベッドへと腰掛けさせふかふかの枕に突っ伏した。
「クロスさん、大丈夫ですか…?」
 心配そうにクロスを覗き込むリナリーを見ると否定も出来ず短く返事をして髪を掻き上げ眩しい室内を見渡した。
「…今、何時だ」
「9時です」
 聞いてからクロスは失敗した、と本気で思った。
 9時で起きた事が久しぶりなら起きてまで身体の中に酒が残っていた事も久しぶりだった。
 なにもかも久しぶりすぎて脳が上手く回らない。
 昨日寝たのはいつの事だったか…。
 とりあえず3時は回っていたはずだ。
「…リー、飯は食いに行ったか?」
「…まだです」
 なぜか声が弱い。俯いて何かに耐えるように言うのだから頭を撫でてやるほかなかった。
「そうか、なら飯でも食いに行くか」
 小さな教団の切り札に、教団側が何かするとは思えなかったがクリスのこともある。もしかしたら自分が知らないだけで、本当は毎日のようにリーにはなにか起こっているのかもしれない。

 クリスは言っていなかったが。

 知らない可能性が高いのか、と独り言で濁した。
 おそらく敵は直接リーに手を出して怪我を負われることを何より恐れるだろう。あの歳で天才的な戦闘センスを誇るクリスの逆鱗に触れるようなこと、誰がするだろうか。
 あの力は――イノセンスの種類にもよるが――強すぎる。
 しかも『言霊』。遥か東の国の信仰をそのまま形にしたような武器。言葉には力があり、その力ある言葉にて発動、具現化するイノセンス。

 彼が本気で「死」を望めばイノセンスはそれを具現化するだろう。
 人が持つには厄介で、そして魅力的過ぎる力。

「1人で食堂に行くのは怖いか」
 はっとしたように見上げるリーを見て、言い方が急すぎたかと内心頭を抱えた。
 よく考えればもう少し言い方があったかも知れない。
 見上げて、そのままゆっくりと視線を落とし俯いたリーを見れば何かがあることなんて明白で、思わず態度に出てしまったのはクリスがいなかったからだろうか。
「…クリス、何か言ってましたか?」
「いや、何も」
 嘘だったが嘘ではなかった。
「ただ、子どもが朝飯を我慢するには長い時間だろう、9時なら」
 子どもは朝が早い。だからこんな時間まで朝食を取らなかったのは、何か理由があるからだ、とそれくらいは分かる。
 それが教団のどの位置にいる奴かまでは分からないにしても。
 研究者たちか、探索部の人間か。はたまたエクソシストか。大方その3種類だと思う。総務部の人間は非戦闘員だからかあまりエクソシストとぶつかることはなかった。

 どいらにせよ、クリスに知れたらそいつは此処を辞めるだろう。
 ―――…正しくない。辞めさせられるだろう。

 エクソシストなら話も多少変わってくるが、どうだろうか。
 支部に送ることくらいはしそうだ。

「…わるかったな、早く起きなくて」
 リナリーは首を振っ「そんな」と言った。
「いつももっと寝てるはずですよね、クロスさん。起こしちゃってごめんなさい」
「リー」
 大人に成らなければならない事情はわかる。

 ―――…でも、

「お前は子どもなんだから、押し殺さなくていい。クリスも、お前も」
 でも、そんな無理やり押し殺された”子ども”が泣いている。
「お前らが子どもでいられない理由は俺らが作ってるんだろうけど」
 頭をくしゃくしゃと撫でる。不器用だから綺麗に今日も梳いた髪を絡めるような撫で方で。
 だけれどもリナリーは嫌な顔をしなかった。
 嬉しそうな、だけれども泣きそうな顔。
「…リー?」
「クリス…」
 小さく呟くリナリーの声が聞きづらくて視線をやると、リナリーは見上げて…目元を擦って笑った。

「クリスもね、そういう撫で方してくれるの」

 そして、ぽつりと下を向いて小さく漏らした。
「クリスに、会いたいなァ」
 クリスは今任務に出ている。早ければすぐにでも…帰ってこれるだろうが、今回何が目的で行ったのか分からない上にどこに行ったのかすらわからないようでは軽々しくリナリーに適当な事を言うわけにはいかなかった。
 ぽんぽん、と繰り返し撫で整った髪を乱す。
「…あいつが帰ってくるまでに頑張るんだろう?」
 なんと言ったら良いのか、よく分からない。
 だから子どもは苦手だ。大人なんかよりずっと素直で…悲しい時に泣ける。
「…うん」
 小さく頷いたリナリーは立ち上がって、控えめに俺の腕を引いた。
「クロスさん、ご飯、食べにいこう…?」
 靴の踵を鳴らして首を傾げた。
「私、お腹すいちゃった」
 リナリーがやってきて早いものでもう20分はたっているようだが、まだクロスはなんの仕度もしていなかった。
 勿論、裸で寝ているわけではない――かろうじて薄い服を羽織っている――、そのまま出る事もできたが、今は一応リナリーの目があったので服を着ることにした。
「私、早くクリスを助けたい」
 リナリーがドアの方を見ている間に上着を羽織る。
「早く、クリスと一緒に戦いたいの」
 布団を剥ぐと朝の空気がまだ暖かい肌を刺していたい。
 だが目の前にそんなことを言ってられない理由もあることだし、クロスはいつもより確実に5時間ははやい起床に欠伸をひとつ、洩らした。

「クリスと一緒なら、きっと怖くない」

 そう言ったリナリーの頭に手を乗せ、ポンポンと叩いた。
「準備できた。行くぞ」


 決して硬く握った拳が見えなかったわけではない。
 決してそう伸びているわけでもない爪が掌に食い込み血を流しているのを、見落としたわけではない。


 だけれども、言わなくて良いような気がした。
 言った所で言わないのと結果が一緒なら、別に。
 リナリーはここで何かを言ったから頑張るとか、頑張れないとか、そういう子どもではないような気がした。
 彼女の中でもう何をしても動かされないほどの決定事項なら、別に、今更クロスが何を言う必要もないように思われた。

「はい、クロスさん」
 ただ手は伸ばして。
 小さいリナリーに彼女が望む場所へは手を伸ばしてやろうと思った。
 1人きりで行けるかもしれないけれども。
 身勝手だがそこはクリスにもリナリーにも何もしてやれない大人の罪滅ぼしという事で。

 手を伸ばして、彼女がその手をとったなら握ってやる。

 そんな簡単な事しか自分には出来ないのだと、クロスは自分でも知らないうちに唇を噛んだ。
「それにしても昨日の飯は美味かった気がするな」
「なんかね、新しい人が入ったみたい」
 伸ばした手をとる手はまだ小さい。
 きっと自分の手は彼女の両手を片手で包み込むことができるだろう。



 こんなに小さな手に、全てを押し付けるのかとクロスの胸が初めて痛んだ。
 それは深い棘のようで、不思議と、時折思い出したように痛む、悩みの種になった。

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