悠久の丘で
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穢れの中で
親が死んだ。AKUMAに果敢にも向かって行って、だ。 俺だったら、殺せたのに。
血の海の中で、俺は初めて戦う、という事を知った。
行くよ、彼女のためになるなら俺はこの身なんてどうなったっていいんだ。
*
「…城が、歌う?」
いくら知識があったってその怪奇を頭から信じられる人間がエクソシストや探索班や科学班にいるのかというと、実際は全く違う。信じられないものは信じられないし、ソレを見てきたのであろう探索班の言葉だって、もう1度尋ねる程度には疑っている。
そしてそれに慣れているから、自分が現場へ行ったから探索班はそのイノセンスの絡む怪奇を教団へ持って帰ってくる。
「えぇ、その通りでございます」
「…風とかじゃなくて」
「どうやら過去の遺物が残っていたようで、AKUMAの出現を知らせる物かと」
過去の遺物。
イノセンスもまた、然り。
手渡された資料に列車に揺られながら適当に目を通していって、そしてその構造を大雑把に知る。
「…へェ、ダークマターの」
「周波数をそのまま音に変えているようです。イノセンスではまた別の音が鳴ると」
トマは丁寧に説明してくれた。
なんでも物質には何らかの波長があって、それは、その物質である限り崩れないのだと言う。
もちろん人間にも波長はあり、それは決して酸素、炭素、水素、窒素、カルシウム、リン、イオウ、カリウム、ナトリウム、塩素、マグネシウム、珪素、鉄、フッ素、亜鉛、ルビジウム、ストロンチウム、臭素、鉛、銅、アルミ二ウム、カドミウム、オウ素、バリウム、錫、アンガン、ヨウ素、ニッケル、金、クロム、セシウム、コバルト、ウラン、ベリリウム、ラジウム全てを合わせた反応と同じではない。
そこまで言うのだからダークマター<暗黒物質>にだって波長があるはずだ、とそんな意志を形にした装置らしい。
そんな、過去の遺物。
「ふんッ」
隣から機嫌の悪そうな声が聞こえて、溜息をついた。視線はトマを、そして俺を舐めるように下から上がってくる。
「…ンでトマ」
「ごほんっ」
また、言葉を遮られる。
あぁ、と心のどこかが冷たくなって重くなって堕ちた。
「…クリス殿、私はコレで」
トマは立ち上がって、そして隣にいたエクソシストに礼をしてから俺に資料を渡して個室の外へと出て行った。
「…あぁ、ありがとう」
正直に言えば、その資料は結構の量があって重い。歳のせいで小さい手に乗り切らないほどの資料をトマは置いていき、恐らくはその全てが探索班の調査の結晶なのだろう。
そして、今回の任務で必要な事。目を通さなければならない事だと重々承知していても嫌気は射す。それくらいは許してくれても良いだろう、活字中毒者でもあるまいし。
隣にいたエクソシストはトマが出て行くと急に向き直る。
話をするのも嫌で窓枠に肘をつく。
「クリス」
名前を呼ばれた瞬間に背を這う嫌悪感。
「なんであんな使い捨てのような奴らと口を利く?」
使い、捨て
「いてもいなくても、代わりがいるから死んでも良い奴らじゃないか」
死んでも。
理解不能、といった風に肩をすくめ眉を寄せる男が、俺には人間になんて見えない。使い捨て? それは誰の事だ? お前の事か、このクソ野郎。
死んでも良いのはお前だって一緒じゃないのか。
決して口に出してはいけない事。
リナリーに聞かれたくないから、必死に押し殺す本音。
真っ黒な、俺。
だって、綺麗なリナリーを守るためには俺だってある程度綺麗じゃなきゃいけないから、リナリーを謂れのない暴力から守れる程度にしか汚れちゃいけないから、俺が汚れすぎたらソレがリナリーに移ってしまうから、だから俺は。
もうとっくのとうに汚れているのに、綺麗なリナリーと一緒にいたら俺の汚さがにじみ出るだけなのに、なのに俺はリナリーから離れたくない。
そのためにはこれ以上穢れてなんて、いられないんだ。
「クリスだって、そう思ってるだろう? 汚らわしい蟲共がよくも人間に」
だがこれには限度だった。
「『嗜好と共にその命を狩る死神よ、刃にて首を断て』」
思わずイノセンスを発動してしまう。『言霊』に反応した死神がゆったりとした動作でギラつく薄い刃を隣の男の首筋に押し当てた。
死神が合図を待つように首を傾げる。
ここで「是」といえばすぐにでもこの首を断ってくれると思うと、ソレは耐え難い誘惑だった。すぐさま唇が「是」と紡ぎそうになるのをかろうじて理性が押し留めるが、男の顔が驚愕に歪むのを見ると、やはりすぐさま首を断ち切ってやりたい。
「…俺までそういう人間だと思うな」
押し殺した声には殺気でも滲んでいたか。 男の顔はだらしない位に汁に塗れていた。
「蟲…? それはてめェの事じゃねェのか?」
薄い笑みが唇に乗る。
「蟲が人間に口を利いてるんじゃねェよ、トマにもだ」
態と相手が立ち直れないような言葉回しをする。相手を傷つけるように、言葉の刃を必要以上に押し当ててその身を刻む。
怯えたような視線が心地よかった。同じ蟲だと思われるくらいなら、そのほうがよっぽどいい。相手の言葉を否定するたびに自分が戻れないところに足を踏み入れているのだと理解して肝が冷える。
だが、それだけ。
リナリーに聞かせてはいけないとは、思う。痺れるように何も考えられない脳でそれだけははっきりしていて。
だけれどもそれだけ。
それ以外は何もはっきりせず、彼女だけには見られたくない姿を後生大事に持っていて、それでしか彼女を守れないと自分の醜いところなんて隠してしまう。
彼女と一緒になんて任務に出たくない。殺気を前面に押し出さなければAKUMAも破壊できない自分の汚さを、彼女だけには見られたくない。
だが彼女さえいなければいくらでも殺せるのだと知って、今更ながら血にまみれすぎた自分の手を呪う。
これじゃァ不安そうに笑うあの子を抱きしめることだって出来やしないと、後悔で重くなった頭を抱いて、そしてなかったことにする。
あの中で彼女を守るために、いくつもある道の中で俺が選んだ最も穢された、道。
「…や、やめ…ッ」
「…ふん」
興が殺がれた。ひたすらに自分の命しか守ろうとしないコイツを殺してまで自分の手を染めたいとは思わない、と手を振って死神を消す。消えていく際の死神の優しい笑顔とからかうような響きを含んだ言葉が胸に刺さる。
『壊したい、と思う欲求にいつまで耐えるかな、主殿』
最初はそんなに挑発してくるような奴ではなかったのに、と彼に消してもらったAKUMAの数を思い出してため息をついた。
沢山、沢山、彼には殺してもらった。彼の手の紅は俺の手の紅に匹敵する。1番最初に『言霊』で創り出したのは間違いようもなく、彼だったから。
彼は俺なのだ。
「クリス殿」
外からトマの声がかかった。
「ん? どうした」
「…何かございましたか、いささか物音が」
あぁ、扉が思ったより厚かったのか。外に漏れるような音ではあったが、決して内容までは解らなかった、と。
ちらりと隣の泡でも吹いて失禁しそうになっている男を見たが、トマには敢えて嘘を言った。
「なんでもないよ、ただ…」
ただ、なんと言えば適度に彼の気がまぎれるだろうか。
イノセンスを使った、なんて馬鹿正直に言ってみろ、室長はもう、俺を外に野放しになんかしたりしなくなるだろう。それはごめんだったので部屋の中に置いてあったチェス盤に目をつけた。
「ただチェス盤が落ちただけ。何も問題らしい問題なんてないよ」
問題を起こしたやつが言えば様ない。だがいつもの態度から言ってその言葉は信用されるだろう、と高をくくった。
「…左様でございますか」
そしてそれは少しの疑問と大半の信頼と共に彼の胸のうちへと秘められる。
「…ぁ」
窓の外に視線をやって気付いた。
「そろそろヴァルトブルク城が見えてまいります」
大きく見ればベルリンとミュンヘンの真ん中ぐらいに位置するヴァルトブルク城。だがその実、ベルリンから向かうよりはミュンヘンから向かったほうが距離的には近い。列車は黒煙を吹き上げながらアイゼナハへと滑り込んでいった。
高い位置に立っているヴァルトブルク城は確かにその姿を列車からも確認でき、小さな物音でトマが立ち上がったのがわかった。
ヴァルトブルク城。
今回は怪奇、とは言われているが実際にはAKUMAの殲滅が実際の命令である…らしい。
怪奇の謎…城が歌う、というのは過去の遺産ということで折り合いがついていたからだが、もしかしたら…という疑念も捨て切れているわけではないらしい。
構造を脳では理解した。
だが、実際それを動かすエネルギーに不明な点が多いようで、実際にはイノセンスがその動力源となっているらしい、との見方も強く、決してイノセンスがないとも言い切れない。何よりAKUMAの出現率がかなり高いことからイノセンスの可能性も否定されるばかりではないとか。
実に面倒くさい。
*
来たばかりだというのに早く帰りたいと思った。
早くリナリーに会いたいと思った。
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