悠久の丘で
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それはまるで気紛れのように、

「ねぇ、クリス」
「……なんだよ、俺の名前はクリスじゃねェって」
「お願い事がね、あるんだ」
 ちっとも話を聞かない国王陛下は、偶然、過去にある繋がりがあるだけの俺を呼んだ。玉座に座ればいいのにちっともそんな事をしなくて、俺の長い髪を掬ってそれに口付ける。
「……レヴォ…?」
 誰も居ないところでしか呼ばない彼の本名を呼ぶと、何故だか彼は嬉しそうにした。サングラスの奥で瞳が細まるのが分かる。
「クリスにしか頼めないんだよ」
「俺に出来ることは驚くほど少ない」
「これはクリス以外の誰にも頼めない。意味が無いからね」
 本当にちっとも話を聞く気がないようだ。
 ―――いや、そうじゃない。本当は分かっているのに、俺が断れなくしているだけなのだ、この我侭な陛下は。
 何時まで経っても俺の本名は覚えてくれない。半ば無理やり彼が名づけた愛称「クリス」とだけ呼ぶ。俺の長い髪を掬って口付けて、そのまま頬に手を伸ばして。

「―――僕のお願いを聞いてくれないのかな、クリス」
 とうとうゴリ押しときた。

 意外と持ちネタが少ないらしい陛下。だけど、俺はこの人のこうして言いだしたことを最後まで拒絶できたことはない、悔しい事に。今はこうして拒絶していられるが、次第にそれを身体が許してくれなくなる。
 ―――ほら。もう、段々この人の声に逆らえなくなってくる。
「…………話を、聞く、だけだ。叶えてやるかはその後だからな…!」
 鼓膜から侵入して、散々俺の精神を揺さぶり続けてきた声。俺が今更その声に逆らえるとも思っていないが、それでも早すぎるだろ、と自分の事なのに呆れてしまう。
「ありがとう、クリス。大好きだよ」
 そうやってこの人は常に俺を揺さぶり続ける。鼓膜に直接入れるようにして耳元で少し掠れた声が音を吹き込む。今では他人に見られたら少しの誤解は受けてしまいそうなくらいは近付いて、抱きしめられている。
 だけど、すでにこの体温をも身体は覚えているから安心するだけで特に違和感を感じられない身体に違和感を感じる。

「クリスにはね、家庭教師をして欲しいんだ」
「―――…家庭教師? 誰の、」
 俺には大した教養なんかない、と云おうとしたら指を押しあてられて口を塞がれた。
「いや、家庭教師というよりは教育係…調教?」
「は…?」
「いや、ごめん。調教は行き過ぎだった」
 不穏な事を云った陛下は少し考えてから首をゆるく左右に振った。だが、どちらにせよ俺には十分な教養すら備わっているか怪しいところで。教育は受けたことがない、というのが本当のところだ。
「だって、俺はちっとも…!」
 人に教えられるものなんて、これっぽっちも。
「うん。だからね、クリスにしか頼めないんだ」
 まったく話が読めない。
「レヴォ、俺にわかるように言ってくれ…」
 いつも何か言っていることがおかしいけど、今日は最たるものだ。何を言いたいのか全く分からない。

 だって、教育を受けたことがない俺が教育係?
 的外れにも程がある。

「だからね、教育係をして欲しいんだ。イヴェールの」
 なんともなしに云った言葉。だが、その名の持ち主に少し覚えがあった。
 確かその名前は、この人の、
「―――…レヴォの後の、領主…かな? 傾かざる『冬の天秤』?」
「そうそう。クリスは勉強家だね」
 よしよしと撫でられた手をどうにか止めさせて、相手をまっすぐに見た。
「…小さい子でも普通それくらいは知ってる。―――…それで何で俺が領主なんかの教育係…?」
 そう云えば陛下は苦笑した。そして手持ち無沙汰に俺の髪を弄る。くるくると毛先を巻かれ、その度に手から指の隙間からすり抜ける髪を面白そうに見ている。
「勉強の方じゃないんだよ。あの子にね、『ヒト』を教えてあげて欲しい」
「『ヒト』…?」
「そう。ずっと1人だった寂しい『天秤』に」
 繰り返し撫でられた髪がいい加減熱を持ってくる。レヴォの手はそれほどまでに優しく暖かい。

「お願い、聞いてくれるでしょう?」

 本当に卑怯な陛下。本当は彼の言葉の何処にだって俺が拒否できるような要素はないのに。
「――――――何時まで、」
 掠れる声で問えば、陛下は嬉しそうに笑った。

「彼が『ヒト』を覚えるまで」

 それは、暗黙のうちに期限が無いということ。
 帰ってこなくて良い、と言われたように響いて、胸が痛くなった。だけど、彼は優しく紙を撫でる。

「―――良いよ、レヴォ」
 叶えてあげる、と呟いたら彼は安堵したように笑った。
「絶対に様子を見に行く」
「子どもじゃないんだが」
 陛下はくすくす笑った。
「ああ、そうだった。―――いってらっしゃい、クリス。気をつけてね」

 最期だと思われる彼が呼んだ自分の名が本当のものではなくて、だけど本当の名も誰も呼ばないから俺の名前では無くなってしまった。
 最期だと思ったその声は意外にも自分の心に何の波風も立てず深いところまで落ちて、少しだけ、小さな波紋を作って消えた。

「ああ。行ってくるよ、陛下」


  *


「ムシュー?」
「ムシュー!」
 軽やかな子どもの声が響く。紫と青の目の彼女たちが駆けてきて、僕の膝の上に手を置いた。
「あ、ムシュー!」
「誰かきたの、ムシュー」
 知り合い? と聞く可愛い人形たちは揃って首を傾げた。
「お客さん…?」
 そんな人いたかな、と思えば双子の言う通り門の前に馬車が止まる。そこからなんだかきれいな人が出てきて、馬車は帰っていった。
「ムシュー、あれ、王様のところの馬車よね?」
「うん」
 確かに横に小さくではあったが紋章がきちんと描いてあって。
「なんにも聞いてないんだけどなー」
 そう言えば呼び鈴が鳴った。
 慌てて降りて、ドアを開けるとやや仏丁面の背がそんなに高いわけではない1人の青年が立っていた。


「―――どちら、様ですか?」
「…レヴォ陛下からの依頼によってお邪魔いたしました。私はクリス。あなたの教育係です」
 青年は、何か悔しそうな顔をして、そうとだけ言った。

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