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 懐かしい楽譜が出てきた。
 随分と昔のものだ。小学校低学年、あるいはそれ以前のものもあるかもしれない。バイエルやバーナム、その他児童向けのピアノ教本が、自室のクローゼットの奥に雑多に収納されていた。適当に一冊取り、繰っていくと、インクの独特の香料がざっと散る。どのページにも五線譜を埋め尽くすように書き込みが施されていて、四隅は酸化で茶けていた。
 教本の、ある一ページで手が止まった。曲名の部分に赤鉛筆で大きく、花マルがつけられている。それはオレの中の、錆びついた古い記憶――小学三年頃の記憶を、浅く刺激した。そうだ、オレはこの時。
 階下に降り、アップライトピアノの設置されている防音室へと入った。西陽を反射してエナメルのように輝く黒と白の鍵盤に、指を置く。腰掛けることもしないまま、オレは教本の曲を弾いた。ペダルを使用する必要すらない、簡易な曲だった。
 とりたてて有名であったり、著名な作曲家の作品であるわけでもない。この曲がオレの胸にしこりを残す、その理由は「花マル」にあった。当時のピアノ講師の手によって咲いた、大輪の真っ赤な花。
 狭い部屋を満たしていた音が、演奏の終わりに従って途切れる。
 初恋、などという濃密で確かなものではなかった。あまりにも淡い、例えるなら水分が極端に多すぎた水彩画のような、そんな憧憬だった。彼女の笑顔を引き出すために、頑張ったね、という言葉をもらうために、オレはこの曲を必死に練習した。そうして「花マル」を手に入れたのだ、おめでとう、という美しい笑顔とともに。
 ふっと、口元がゆるむ。幼かった、と思う。
 ピアノの前の椅子をどかし、もう一度曲をなぞった。両手を鍵盤の上に滑らせていくたび、あの時の講師の笑顔が脳裏に浮かんでは沈んでいく。だが、その微笑みは次第に、桃井のそれへと取って代わられていった。桃色の艶やかな髪先がひるがえる、その光景がまぶたの裏に走る。
 聴き入っちゃうの、と桃井は言った。中学の時だ。バスケ部の連中との帰り道で、例によってあいつはアイスキャンディを握っていた。

 ――式の時とかさ、伴奏があんまりにも綺麗だから、集中して校歌が歌えないんだよ。ミドリンのせいだからね。

 指先が勝手に、帝光の校歌を奏で始める。秀徳のそれより軽快だが、むやみに明朗なわけでもない。メロディーはもう身体に染みついていて、頭で楽譜を辿るまでもなく指が踊っていく。
 様々な場面での桃井が、総身に怒涛のごとく去来した。お疲れ様、とドリンクを手渡してくる桃井。収集した情報を噛み砕き、的確に開示してみせる桃井。帝光祭の時分、オレのホラ貝を強奪した桃井。先日のIHでオレを――秀徳を、完璧に封じ込めてみせようとベンチから眼光を鋭くさせていた桃井。
 ミドリン、とオレの肩を叩いて笑顔を見せた、桃井。

 ――あの子たしか黒子っちのこと好きじゃなかったスか?

 耳をつんざいたのは強烈な不協和音だった。手の甲の筋が突っ張り、骨は隆起している。力の限り鍵盤を押し込めてしまった十の指尖は、弱く震えていた。白鍵が軋む。
 部屋中に漂流していた濁音が、残響さえ壁に吸収されて消えたところでようやく、自分が息を荒げていることに気がついた。額で玉の汗が湧く。
 桃井には、想い人がいる。そうしてそれは、オレの全くあずかり知らぬところで当の昔に始まっていた。
 分かっている。オレと桃井の関係は、中学時代の部活の、ただ選手とマネージャーに過ぎない。
 深呼吸をしてから椅子に腰をおろして、背もたれに身を預けた。目の前の「花マル」を睨む。当時の、あの脆く朧気な心持ちを思い出そうとするが、それは形として掴めるようになる前に黒ずんで汚れ、粉々になってしまう。
 そうさせているのは、今のオレの中身だ。黒子に嬉しげに抱き着く桃井を、青峰の一挙一動に謙虚に振り回されている桃井を、憎々しいものに思う今のオレの、感情だ。
 あいつの姿をそばで見ていたい、と願う。あいつを笑顔にしてやり、望むことはなんでも叶えてやりたい、と乞う。だがそれと同時に、あいつがオレ以外の人間に意識を向けていると、許せなく思う。力づくにでもこちらへと引き寄せ、オレのことだけを見つめさせ考えさせ意識させてやりたいと、そう思ってしまう。

 ――なあ真ちゃん。それはさ、

 オレの告白を聞いた高尾は、眉をさげ、本当に哀れそうな表情を作った。そうしてオレの感情の正体をか細く、だがはっきりと告げた。
 鍵盤にキーカバーをかけ、オレはスラックスのポケットから、携帯電話を取り出す。
 桃井と学校が離れてから、一年と半年が過ぎ去ろうとしている。出会いから数えるならばさらに膨大な時間が、経過しようとしているのだ。それだけの期間をかけてゆっくりと、しかし確実に成長してきた感情は、ここへ来て許容量を超え、あふれようとしている。
 アドレス帳から桃井の番号を呼び出し、通話ボタンを押した。まもなく桃井が、電話を取る。

「もしもしミドリン? どうしたのー? ミドリンからかけてくるなんて珍しいねえ」

 明るく華やいだ声の向こう側で、テレビの音がした。自宅にいるのか、と少々気が抜け、こいつは一体どんな番組を視聴するのだろう、と思いを馳せると、自然唇がほころぶ。そんなオレの一瞬の隙をついて、飛び込んでくるものがあった。さつき、と桃井を呼ぶ声。
 青峰の声だ。

「桃井、」

 通話口の桃井は青峰に、ちょっと待って、と言った。それからこちらに戻ってきて、「なに?」と問うてくる。

「ごめん、もう一回言ってくれる?」

 現状報告を兼ねた短い会話などできれば上々だろう、と思っていた。オレの「感情」と桃井の「感情」が合致しない以上、オレはそういった些細な事柄を、懇切丁寧に積み重ねていくしかないのだ。本件限りは、人事を尽くしても致し方ない事象なのだから。
 ……そう、思っていた。青峰の声を聞くまでは。

「……ミドリン?」

 桃井が、訝しげにこちらを窺ってくる。オレは立ち上がり、譜面台に立てかけていた教本へと、片腕を伸ばした。
 桃井、と呼びかけた瞬間、あいつの身にまとう甘い香りが、鼻腔をくすぐる錯覚を覚える。

「よく聞け」

 うん、と桃井が相槌を打つ。オレの頭の左半分に、黄昏時の熱が注いでいる。
 あの頃の憧憬が持ち得なかった、利己的で卑しく、下劣極まりない「衝動」が、今オレの中に生まれ、蠢いている。
 オレは間違った選択をしようとしている。桃井をひたすらに苦悩させるだけであろう台詞を、吐き出そうとしている。だがそれに対する罪悪感は不思議と、かけらもないのだ。笑みさえ浮かぶほどに。

「――オレは、」

 もっともっと、お前はオレのことに、オレのことだけに、捉われていればいい。

「オレはお前を、手に入れたいと思っている」

 幼いオレが健気にも咲き誇らせた「花マル」を、容赦なく毟り取るようにオレは、楽譜を思いきり握り潰した。


up:2018.04.01