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「なんで……泣いてるんですか?」

 油断していた。オレは自分が泣いていることに気付かないまま、無様な姿を一つ後輩の女マネ――桃井に、見つけられてしまった。
 部室のドア口に立っていた桃井は、今日行なった練習メニューが記録されているらしいノートを胸に抱いて、おそるおそる、といったように歩み寄ってくる。木目のテーブルに着いてしまっているオレは、桃井とは反対側に顔を隠して、練習着の袖口で目元を拭った。

「わりぃな桃井、いつもサンキュ」

 隣に立った桃井に、オレは笑顔を作ってみせた。作ってから、オレ普段こんなふうに笑うキャラじゃねえわ、って気付いたけどもう遅い。パイプ椅子に座ったままのオレを見下ろしている桃井は、何か痛々しいものを目の前にしたみたいに眉根を寄せていた。居心地が悪い。

「なにか、あったんですか」

 なんもねえよ、とオレは答える。開いていた部誌を閉じて、桃井のノートを受け取った。それで用が済んだはずの桃井は、でもこの場を立ち去らず、心配そうな表情を浮かべて未だオレを見つめている。オレはそんな桃井と、目を合わせられなかった。ただ、赤司早く来いよ、と願うばかりだった。この空気の中、二人っきりはきつい。
 四月、新一年の仮入部期間が終わって部活が本格始動し、今はもう全中に向けて厳しいなんてもんじゃねえ練習に明け暮れている。体育館は日によって暑かったり寒かったりして、体調の管理が難しい。まあ体を動かしてりゃ、どのみち汗だくになるのは変わりねえけど。
 でも、オレたち三年がこの体育館でバスケをできる時間は、もうそれほど長くない。だから、例え試合での主力が二年――「キセキの世代」だろうが、最後まで突っ走ってやるつもりだった。なんとしてもベンチに居座って、やつらの大仰な通り名に劣らないくらいのプレーを、最後まで見せつけてやるつもりだった。

「主将」

 ――「だった」、だ。それはもう、過去の決意でしかない。

「ほんとに、大丈夫なんですか?」

 右側にずっと、桃井の体温を感じている。オレは桃井の、クリーム色のパーカーの裾にじっと焦点を合わせていた。

「平気だっつってんだろ。ほら、遅くなっちまうし、早く帰れ」

 首裏が、さっきまでの練習の汗でべたついて不快だった。乾いた涙の跡が突っ張って、目の周りに違和感がある。
 桃井が移動した気配があって、やっと出ていってくれんのか、と思ったらテーブルを挟んでオレの正面に回り込んできた。顔を覗き込まれて、反射的にオレは目をそらす。

「しつけえよ桃井」
「でも、やっぱり大丈夫そうに見えないです。無理にとは言いませんが、相談に乗るくらいだったら私、いつでもしますよ」
「いらねえって」
「虹村先輩、」
「いいから!」

 部室中に轟くほどのでかい声が出た。そのままの勢いで、オレは桃井を睨み上げる。

「とっとと行けっつってんだろ!」

 桃井が大きく肩をびくつかせたのを見て、我に返った。部室のドアは開きっ放しだ。オレの怒鳴り声は、ずいぶん遠くまで響いてしまったかもしれない。
 反動のように静まり返った部室のせいで耳鳴りがして、オレはテーブルに肘をついたまま、左手で額を押さえた。

「……わりぃ。八つ当たりだ、気にすんな」

「元ヤン」の威嚇だ、そりゃビビるよな、つかなにやってんだよオレ大人げねえ――と、強風に煽られた風見鶏みたいに思考を回していたら、右手に何か温かい感触が降ってきた。見ると、桃井の両手が、テーブルに放置されていたオレの手をやわく、包み込んでいた。

「虹村先輩」

 桃井は瞼を、ゆっくりとおろしている。

「大丈夫です」

 蛍光灯の逆光になって、桃井の前髪の下に影ができていた。白い頬は、ほのかにピンク色に染まっている。
 もう一度オレを見据えた桃井は、その頬を柔らかく歪めて、泣き笑いみたいな顔になっていた。

「私は、大丈夫ですから」

 急いで顔を背けた。鼻がつまって、目尻の奥に得体の知れない重たくて熱いものが集中していく。やべ、と思った時には、もう涙がこぼれていた。
 頭ん中に、いろんなことが一気に噴き出してきた。灰崎が今日も部活サボりやがったとか、後輩にスタメン取られたとか、主将としての仕事や役割が結構きついとか、――親父のこととか。
 水分で視界が滲んでいても、紺色になった窓ガラスに部室の景色が映っているのは分かった。その中で桃井は、盛りの過ぎたバラの花みたいに首を垂らして、ただオレの手を見つめていた。オレの手を――親父を殴ったこともある、オレの手を。
 やめろ、桃井。
 いたわるように、つたない仕草でオレの手の甲をぽろぽろ撫ぜている桃井に、オレは思った。やめろ、さわんな。そんなきったねえ手、お前みたいなんがさわっていいもんじゃない。放せよ。
 でも、嗚咽に飲まれて、言えなかった。
 うなじに、桃井の視線を感じる。顔を伏せたまま情けなく泣き続けているオレのことを、桃井はどう思っているんだろうか。甘いにおいのするかわいい女子の前でくらいかっこつけていたかったな、と頓狂なことを考えてみても、やっぱり涙は収まらない。

「桃井、」

 呼びかけると、はい、とか細い声が返ってきた。繰り返し呼びかける。同じように、桃井は返してくれる。
 桃井。桃井。
 オレはもう、バスケのことだけを考えるなんて、できねえんだよ。
 手を動かして、今度はオレが、桃井の手をぐっと握った。桃井は一つも反抗せず、オレになされるがままでいてくれた。
 近々、きっとオレは「主将」じゃなくなる。桃井がオレを「主将」と呼ぶ、今この瞬間はもう二度と訪れない。
 どこからか足音が聞こえてくる。着替えを終えた赤司が、ここへ向かってきているのかもしれない。まだだ、とオレは思った。さっきまであんなに、赤司が来るのを待ちわびていたのに。
 まだだ、もう少し、もう少しだけ、このまま。


up:2018.02.23