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※今吉さんの気が立ってます



 もう二度と見たくない。試合終了直後は確かにそう思っていたはずのボールを、今吉は抱えていた。
 高窓から射す月光だけに淡く照らし出された桐皇学園の体育館、フリースローラインに立って、ゴールを見つめる。今吉の手から放たれたボールがネットをくぐり抜け、小気味いい音を鳴らしたすぐあとに、体育館の鉄扉が重々しく開かれた。

「体育館、そろそろ施錠した方がいいと思います」

 そこにいたのは、マネージャーの桃井だった。少しく眉をさげた桃井は、遠慮がちに今吉を窺っている。気を使っているのだろう、まあそれも当然か、と今吉はボールを拾った。最後の大会が終わり三年の引退が決まったのは、たった数時間前のことだ。

「あと一球、打たせてくれへんか?」

 許可を求める口調ではあったものの、桃井の返答を聞く前に今吉はまた、今度はスリーポイントラインに立っていた。桃井が却下するはずもなかったし、却下されたところでそれに従ってやるつもりもなかった。
 扉を閉めた桃井は、壁に寄りかかって今吉を待った。特にこれといった感慨も込めず、流れ作業のように今吉はボールを構える。

「なあ桃井」

 ネットを一閃して床を跳ねたボールの、ど、という衝撃音が響いて尾を引いた。数回、バウンドしたあとで静かに転がり始めたボールを回収してから、今吉は言う。

「自分、嬉しいやろ。青峰が負けてくれて」

 桃井が総身を強張らせたことが、気配で伝わってきた。

「喜んどるんやろ。今日は最高の日やった、そう思ってんのとちゃう?」

 冷えきった体育館の中、上着を羽織っていてもジャージ姿では寒い。見据えた先の桃井は、パーカーから飛び出させたこぶしを握っていた。

「どうして、そんなこと言うんですか」

 泣きそうな声色だった。今にも消えてしまいそうに薄弱なそれを、無慈悲に踏みつけるかのように今吉は続ける。

「知っとったで、自分が青峰に負けてほしい思っとったことなんて」

 桐皇学園高校男子バスケットボール部のマネージャーである桃井さつきは、結局、青峰大輝しか眼中になかった。青峰の敗北はつまり桐皇の敗北と等号だというのに、桃井はそれを、少なからず望んでいたのだ。やけど別に構わへん、試合で手ェ抜かん限りワシの知ったこっちゃないわ――そう、今吉は考えていた。考えていた、はずだ。

「念願叶ったんや。嬉しいんやろ? 素直に言いや、怒らへんから」

 いつもの、人を食ったような笑みで今吉は桃井と対峙している。しばらくして、とうとう泣き出した桃井は「そんなことないです」と、ほとんど叫ぶように言った。

「確かに大ちゃ――青峰くんには、負けてほしいって、思ってました。でもだからって今日のこと、嬉しいなんて思えるはずないですよ」

 両手で顔を覆って、桃井は泣き伏せた。

「だって、今吉さんたちとはもうこれでっ」

 だん、と体育館を震わせたのは、今吉が手にしていたボールだった。自らの手で床に叩きつけたそれを無視して今吉は桃井に詰め寄り、胸倉を引っ掴む。

「青峰しか見とらんかった自分に言われとうないわ」

 涙が、桃井の頬をてろてろに濡らしていた。あかんな、と脳内のどこか、冷静な部分の自分が警告を発している。今吉は普段、滅多に表情を崩さないし、感情を露わにしたりもしない。他者の心理を読むことに長けた彼は小さな、ほころびとも呼べる言動からでさえ秘めた本心が見透かされかねないことを、よく理解しているからだ。
 その自分が、今はどうだ。

「ワシらのことなんかどうでもええて思っとったんやろ。なあ」
「そんなこと、」
「あるわ」

 沈黙。目を伏せた桃井は、絞り出すようにつぶやいた。

「そんなこと、ないです」

 しゃくりあげる桃井を、そっと解放する。こういう時は「すまんのう」なんて謝って頭を撫でてやるべきなんだろう、と泣きじゃくる桃井を見下ろして、今吉は思考した。でも。
 生憎ワシは、そないに優しい人間やないねん。

「ほな、証明してみせてくれへんか」

 桃井の頬に指を引っかけると、大袈裟にびくついて桃井は今吉を見上げた。不安気にたゆたうまつげの奥、上目遣いの瞳からまた一粒、涙が湧き出してくる。

「自分、ワシのこと慰めるつもりで来てくれはったんやろ。慰めてくれえや」

 短いスカートから伸びた、桃井の内腿にふれた。一瞬表情を歪ませた桃井に、殴られるかと警戒したが何もされなかった。軽く撫で回しても、かすかな吐息を漏らすだけで桃井はただ目を閉じている。本当に証明するつもりなのだろうか、と今吉はあくまで冷淡に、桃井を観察していた。
 どうせ本気やないと思っとるんなら大間違いやで、桃井。

「青峰ともしとるんか? こないなこと」

 かぶりを振った桃井は、唇を噛んでいた。今吉はその場に跪き、桃井の膝を捕まえる。十二月の外気に晒されていたそこは凍てついて、あっけないほどに細かった。
 圧倒したんか。あの青峰を、ワシが。
 ふ、と今吉の口元が、自嘲気味にゆるむ。最強は青峰やっちゅうのに。
 太腿に、唇を這わせた。軽く愛撫してから吸いつくとミルク色の肌に一点、深紅の残痕が、どす黒い濁りをたたえて咲く。さらに脚の付け根の方へと向かっていこうとした今吉の、髪の中に桃井の指が弱々しく滑り込んできた。見上げると、今吉の頭皮をやわくなぞっていた桃井は泣き笑いのような顔をぐしゃりと崩して、あふれさせた。

「勝てなくて、ごめんなさい」

 桃井の双眸からこぼれた涙が、顎先で出会って一瞬光り、今吉の前髪に落下する。嗚咽を、必死に噛み殺そうとしている桃井は痛々しく、今吉の膝は、力なく折れた。
 ワシの台詞や、と思う。
 桃井の膝に額をぶつけて今吉は、ワシの方こそ、とつぶやいた。

「勝たせてやれんくて、すまんっ――」

 視界が滲む。熱せられた全身から蒸発していくかのように、瞳が水分を溜め込んだ。背中を打ち震わせた今吉を、抱きしめるように桃井は彼の頭をただ、撫で続けていた。


up:2017.12.24