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 お姫様になりたい。
 ふんわりラブリーなドレスにほっぺたが落ちるほどのかわいいお菓子、お花の香りの満ちるお部屋、そして隣には大好きな大好きな、とっても凛々しい王子様。女の子なら一度くらい、ぼんやりとでも夢見たことのあるような淡い祈りは、私だって持っていた。空想の中のお姫様――つまり私は、いつだって笑顔で、欠けたものなんかなんにもなくて、幸せで。
 でもそれは同時に、叶わないって知ってるからこそ没頭できる甘く儚い夢でもあって。

「よく似合っているよ、桃井」

 だから今、本当にお姫様になろうとしている私の胸に湧くのは嬉しさとかときめきとかじゃなくて、戸惑いだった。

「あの……ほんと? 赤司くん」
「オレがうそを言うと思うかい?」

 そう言って腕を組んだ赤司くんは白いタキシードを着ていて、それはもう、高校生だなんて信じられないくらい彼の体に馴染んでいた。私はどうだろう、なんてまだ不安を抱えたまま、自分が身にまとっているドレスをつまんでみる。桜色をした、ベアトップのチュールドレスには胸元にもスカートにも赤や白、黄色にピンクといった色とりどりの造花の花びらが縫いつけられていて、お花畑みたいにかわいらしい。お揃いのヘッドドレスでゆるくまとめた私の髪は、左肩に流してあった。ちゃんと、お姫様に見えてる?
 三年生への進級を間近に控えた春休みの今日、私は初めて赤司くんのおうちを訪れた。日本有数の名家のご子息である彼のおうちは、覚悟はしていたけれどすごかった。本当に、すごい、としか表現できないような門構えに外観、内装で、動揺しすぎて目が回りそうになっていた私を赤司くんはさっさと導いて、二階の、とある部屋に招いた。そこは生前、赤司くんのお母さんが使っていたというお部屋だった。

「これに着替えてくれないか」

 ウォークインクローゼットから赤司くんが取り出してきたのは、ドレスだった。結婚式に花嫁さんが着るのにふさわしいような、豪華で本格的なドレス。びっくりして固まってしまった私に、淡々と赤司くんは言った。

「遠慮はいらないよ。オレの貯金で購入したものだからね」
「ちょっ、貯金!?」

 住む世界の、あまりに違いすぎる彼の言葉にめまいを覚える隙もなく、赤司くんは私にドレスを押しつけた。じゃあオレも着替えるから、なんて言って部屋を出ていこうとした彼は真鍮のドアノブを掴んで、でもそこで何か思い立ったように振り向き、微笑んだ。

「桃井の願いを、叶えてあげるよ」

 ――……それから、あれよあれよという間に着替えを済ませて使用人だという方に案内されて、私は今、お庭の一角にある温室の入口に立っている。赤司くんの背後では、名前も分からないような木や植物が茂って私の視界を緑に染めていて、葉っぱのにおいがぬるく漂っていた。なにもかもに圧倒されている私に、行こう、と赤司くんは左手を差し出す。私がおずおずとそれを取ると、彼はまた微笑してみせた。本物の王子様みたいに。
 足元まで隠すドレスにヒールのあるウェディングシューズで歩く私を気遣ってか、赤司くんの足取りはゆったりとしていた。やわらかい日光を取り入れた温室で、赤司くんの姿はますます輝く。手を繋いで隣を歩く彼の横顔は毅然としてかっこいいけれど、時節私へと投げかけられる笑みは本当に優しくて、私は頬が熱かった。

「あの、赤司くん。ほんとに変じゃないかな、この格好」

 照れくさくて目線を斜めに落としながら、さっきとおんなじ質問を繰り返していた。空いている方の手で頬を掻いた私を、赤司くんは引き寄せて腰に腕を回す。瞬間、全身に緊張が走った私の耳元で、彼は囁いた。

「シンデレラだってこうまでではなかったろうというくらい、美しいよ」

 すぐ近くにある赤司くんのにおいに、口から心臓が飛び出そうなくらいどきどきしている私へ、赤司くんは余裕の笑みを向けた。少し冷たい赤司くんの手をぎゅっと握って、必死に言葉を探す。

「あ、あの、お返しするからね。こんなすごいドレス、もらいっぱなしじゃ申し訳ないし」
「別に必要ない」
「で、でも、それじゃ私の気が済まないから。そうだ、手料理振る舞うっていうのはどうかな? 私、頑張っちゃうよ?」
「……いや、やはり遠慮しておくよ」

 間があった。赤司くんにしてはあからさまなその反応に、私が悪いんだって分かっていつつもむうっとしてしまう。

「そこは『愛情こもった君の手料理ならどんなものでもおいしく食べられるよ』くらい言ってくれないと!」
「愛情どうこうでどうにかなる問題かな?」
「ひどーい!」

 わざとらしくふくれっつらを作ってみせた私に、赤司くんは笑った。あははっ、と声に出して。それだけでしゅるしゅると毒気を抜かれちゃった私も、つられて笑う。楽しい、と思った。

「さあ、着いたよ」

 赤司くんの合図で前に向き直った私の目に飛び込んできたのは、四方をバラの生垣で囲まれた小規模のプールだった。三つほど、巨大なお皿みたいな形の植物が水に浮かんでいて、そのうちの一つがとりわけ大きい。周りの地面には芝が生えて、近くで栽培しているのか、バニラのとろっとした香りが空間いっぱいに広がっていた。

「あ、赤司くん。これは?」

 指示されて、プール脇のハイスツールに腰掛けた私は、尋ねた。スカートをあげて私のシューズを脱がせている赤司くんが、答えてくれる。

「オオオニバス。その名の通り、ハスの一種だ」

 私の右足の、親指にキスをしながら、上目遣いで赤司くんは私を見た。スイレンではないが、と続ける。

「親指姫みたいだろう?」

 指の腹に舌を伸ばした赤司くんから、逃げるように私は足を引っ込めた。「きききき汚いから! ダメだよっ」とどもる私に、赤司くんは小首をかしげて「そうかな」とつぶやく。

「桃井の体に汚い部分など、オレはないと思うが」

 ぱくぱくと口を開閉する私を、お姫様抱っこで持ち上げて赤司くんはハスの葉に乗せた。一瞬だけ不安定に揺れたハスは、でもすぐに静止してアヒル座りになった私を迎えてくれる。水面が踊って、きらきらと光の粒をプールのふちにいる赤司くんへ投げかけていた。
 その場に膝をついた赤司くんが、私の髪をそっと撫でる。

「こんな愛らしいお姫様が流されていたら、オレならば決して、捕まえて二度と放さないだろうに」

 さっきからほっぺたのほてりが全然収まらない私の、髪先を梳きながら赤司くんは口元をゆるめた。

「いや、もう捕まえてしまったんだったね」

 だから、二度と放さない。
 髪にまで口づけてくれようとした赤司くんの、一瞬前に私はうつむいて自分の顔を両手で覆った。そこだけ沸騰したみたいに、すっごく熱い。

「もういいよう、赤司くん……」

 へなへなと、白旗をあげた。これ以上囁かれたら、見つめられたら、ふれられたら、きっと私、ダメになっちゃう。

「何がいいんだ。お姫様になりたいと言ったのは桃井だろう?」
「も、もういいの! 充分だよ! お姫様ごっこ終わり!」
「『ごっこ』じゃない。桃井は紛れもないお姫様だ」
「だっ、だからそういうこと言うの禁止だってばあ!」

 私が叫ぶと、「えー」なんてからからと笑いながら赤司くんは不平を漏らした。なんだか面白そうにしてる彼に、私はちょっと、ふてくされてしまう。

「赤司くん、私のことからかってるでしょ」

 そっぽを向きつつ、唇を尖らせてみた。「そんなことないさ」と否定した赤司くんの声にも、やっぱり少し、笑いの色が滲んでいる。

「『小公女』のセーラだって、自分のことをプリンセスだと信じ続けた結果、本当にプリンセスになったんだよ」
「……つまり?」
「気の持ちよう次第ってことだ」

 だってセーラは元々プリンセスだったもん、なんて野暮なツッコミを飲み込んだのは、今私の目の前に赤司くんの笑顔があって、私と過ごす時間を「楽しい」って思ってくれているんだってことに、今更だけど気づいたからだった。少し離れた視点からみんなを眺めていることの多かった赤司くんが、等身大を曝け出してくれるくらいには私は心を許されている。その事実の前には多少の意地悪なんて、なんでもないことのように思えた。
 とはいえあんまり恥ずかしいことばっかりされたら私の身が持たないから、ラプンツェルがどうのこうのといった殺し文句を吐かれる前に私は髪の毛を背中へ避難させた。こうすれば赤司くんの位置からじゃ、手が届かなくなる。

「桃井、お菓子でも食べようか」

 くすくす笑いの波がやっと引いたらしい赤司くんは、そんなことを提案した。さっき私が座ったスツールの、そばに立っている猫脚のテーブルから、ミルクガラスのカフェオレボウルを持ってくる。

「それは?」
「ビスキュイ。さくらんぼ風味のクリームがサンドされていておいしいと実渕が絶賛していたから、取り寄せたんだ」

 片膝を立てた赤司くんはビスキュイをひとつまみ、私の唇に差し出す。

「さあ、お姫様のお口には合うかな?」

 またそういうこと言うっ、と私が抗議する前に赤司くんは有無を言わさぬ微笑でもって私にビスキュイを食べさせた。口に入ってきた瞬間、クリームの甘味とほのかな酸味が広がって、歯茎の根っこの方までじんわり浸透する。とってもおいしくて今すぐにでも感想を教えてあげたかったのに、でもそれは叶わなかった。赤司くんの指先がいつまでも、私の口中に残っていたからだった。
 赤司くんを見上げて、どうしたの、と瞳だけで訴えかけてみる。私の意思は確実に赤司くんへと伝わっているはずなのに(だって赤司くんだから)、赤司くんは真顔のままで指を引き抜こうとしなかった。そのまま、赤司くんの指先が私の舌をなぞる。突然のことに動揺して噛み込んでしまった唇の中、赤司くんの指はねっとりとうねって私の上顎を撫で、それからようやく、いなくなった。
 その、濡れた指にゆっくりと舌を這わせて、赤司くんはねぶる。

「――甘い」

 たったそれだけ。それだけの感想が、他のどんな綺麗で難しい単語を並べ立てた感想よりも衝撃的で恥ずかしくていたたまれなくって、私は思いっきり、赤司くんに掴みかかってしまっていた。
 だってこんなの、ずるいじゃない。私ばっかりどきどきして。

「もー!」
「うわっ」

 珍しく赤司くんが驚いたような声をあげたかと思ったら、彼の体のバランスが崩れた。赤司くんの襟を握ったままの私もそれに引きずられてしまう。はっとした時にはもう遅くて、私と赤司くんは一緒に、プールの中に落っこちてしまった。
 水の音が私の耳で鳴る。目を開けられないぶんそれ以外の五感は研ぎ澄まされて、私はとにかく、夢中になって水上を目指した。幸い、プールはそれほど水深がなくて、赤司くんを抱いたままで私は水から顔を出す。ぷはっ、と息があふれた。

「びっくりしたあ」

 遅れて顔を出した赤司くんに向かって苦笑してみせると、赤司くんは呼吸を整えながら「すまない」と言った。「全然全然っ。ていうか私のせいだし」と首を振りながら、いいことをひらめいちゃった私は赤司くんの腰に巻いた腕にぎゅっと、力を込める。

「王子様を助ける人魚姫、なんてね」

 ちょっとした反撃のつもりだったのに、赤司くんは真正面から「王子様」という言葉を受け止めた。まるで「そんなの当然だよ」とでも言うふうに。そうして、ふ、と息を漏らすような笑い方をして、水の滴る前髪を掻き上げる。

「君が人魚姫なら、他の誰でもなくオレの手によって、不滅の魂をあげられるよ」

 意味は分かるだろう? と私を覗き込む赤司くんに、私はどうにか、うなずいてみせた。
 それはつまり、愛してくれるということ。
 完敗だった。バスケの試合だったらたぶんトリプルスコアの大差がついているくらいの、完膚なきまでに、という単語がぴったりなくらいの、私の負け。
 プールには、私のドレスからはぐれてしまった花びらが散らばって水面を彩っていた。膝から下だけを水に浸したまま、赤司くんと二人、プールのへりに腰掛ける。蹴るように足をばたつかせるとしぶきがあがって、まぶしかった。

「やっぱり、赤司くんには敵わないや」

 少しだけ頬を膨らませて、降参宣言する。

「そう簡単に敗北するわけにはいかないからね」

 隣の赤司くんは相変わらず悠々と勝利を受け止めて、へりに置いた私の左手に、自分の右手を重ねた。

「寒くないかい?」
「うん、大丈夫」

 言った直後、くしゅん、とくしゃみが出た。あはは、と取り繕ってみせた私の頭を、赤司くんは自分の胸に引き寄せる。後頭部にさわった赤司くんの手のひらは私の髪の中へと潜り込んで、その指使いの穏やかさに、眠気のような、すごく温かい衝動が押し寄せてきた。私の背中を抱きしめる彼の、ちょうど心臓の上あたりに、私は頬をくっつける。
 顔の輪郭を掴まれたかと思ったらもう唇がふれていた。とぷ、と水の揺れる音が微かに鼓膜を震わせて、私はきゅっと、まぶたをおろす。
 やがて唇が離れると、私は訊いた。

「甘かった?」

 そうだな、と赤司くんは答える。

「だが、わずかに水のにおいもした」
「ふふ、プールに落っこちゃったから」
「こんな味のするお姫様は、世界で桃井ただ一人だろうね」

 あくまで「お姫様」にこだわり続ける赤司くんに、もう、と仕返しのつもりでやんわりと振り上げたこぶしはあっさりと捉えられてしまって、私はまた赤司くんの懐に招き入れられた。服が水分を吸ってしまったせいでいつもよりぴったりと赤司くんに貼りついている気がして、彼の体温がますますくっきりと浮かび上がるみたいに、感じられる。

「――私ね、お姫様にはなりたいけど、お姫様ならなんでもいいってわけじゃなかったよ」

 つぶやく。赤司くんは何も言わない。

「たった一人のお姫様がいいの。『桃井さつき』っていう名前の、たった一つの存在がいいの」
「言いたいことは分かるよ」

 私と目を合わせた赤司くんが、微笑した。

「『赤司征十郎』という存在だけのお姫様がいい、ということだろう?」

 明確に表現されちゃうと一気に恥ずかしさが込み上げて、そうです、と肯定した声は泣き出す寸前の子どもみたいに弱々しかった。赤司くんの肩にもたれて、顔を伏せる。
 赤司くんに勝てる日なんてきっと、来ないんだろうなあ。

「ずっと待ってたよ。赤司くんっていう王子様のこと」

 赤司くんが笑うのが、肩越しに伝わってきた。

「それは天蓋のついたベッドの中で口にすべき台詞だよ」
「……連れてってくれる?」
「すぐに」

 黄金の寝室はないけどね、と赤司くんは断りを入れたけれど、それは本当に些細なことだった。私にとっては、赤司くんさえいればそこはもう二人だけのお城に変われるんだから。

「桃井」

 赤司くんが私を呼んだ、その声はバニラよりもビスキュイよりも甘ったるく響いた。私の膝裏に手を差し入れた赤司くんは、再びのお姫様抱っこで私を運び出す。二人っきりのお城へ。

「この上なく素敵なお姫様だよ、君は」

 ありがとう、とうなずいて、私は赤司の首に腕を回した。赤司くんは、私にはもったいないくらいの素敵な王子様だよ。
 目を閉じる。絵本の中の、「二人はいつまでも幸せに暮らしました」なんて終わりの一文が、ぽうっと浮かんでくる。本物のお姫様になれた、なんて自信はまだまだないけれど、せめてそんなふうに私と赤司くんの物語が進んでいってくれたら、いいな。
 そんなことを願いながら、私は赤司くんに、きゅっと抱き着いた。


up:2017.11.26