series | ナノ

※黒子くんが若干ひねくれています。キャラ崩壊過多かもしれません。



 テツくん。そう呼んでボクを抱きしめる、貴女のその振る舞いがどれだけボクを激しく掻き乱しているのか、貴女はまるで分かっていない。

「それでねっ、今日もテツくんにドリンク渡せちゃったのー!」

 部活終了後、体育館裏にある水道へ向かっていたボクの耳に、そんな声が飛び込んできた。首にかけたタオルで口元を押さえたまま、建物の陰で足を止める。水道の前には三人の女性が集まって、華やかな声をあげながらドリンクボトルを洗っていた。男子バスケ部のマネージャーの方々だった。会話に夢中になっている彼女たちは、背後のボクに全く気づかない。

「さつきちゃんってほんとに黒子くんのこと好きだよねえ」

 三人のうち一番左にいる方が、そう苦笑して真ん中の女性を見た。真ん中の女性――桃井さんは、満面の笑みをたたえた横顔をボクに晒して「もっちろんだよ」と言う。

「だってすっごくかっこいいもん! 優しいし、たまーに見せる笑った顔とかもうほんとかわいいんだから!」
「うーん、でも私は赤司様派だからなー」
「ていうかさつきちゃんって絶対青峰くんとだと思ってたから、なんか未だに信じられない感じ」
「青峰くん!? ないない、絶対ない!」

 きゃらきゃら、と水音とともに響く三人の軽やかな笑い声は、五月の、蒸し始めた風にのってボクの鼓膜を震わせた。コンクリートの壁に寄りかかって深呼吸し、先程までの練習メニューによって生じた吐き気や喉の渇きを、ごまかそうとする。

「あ、そうだっ。なんかついついしゃべっちゃうけど、二人ともテツくんのこと好きになってないよね!?」
「あはは、なってないから安心して」
「というより、黒子くんのこと好きな女子とか、学年でさつきちゃんだけだと思う……」

 それどういう意味ーっ、という桃井さんの少し怒ったような、でも楽しげな声を後ろに聞きながら、ボクはその場を離れた。めまいがした。
 桃井さんの、開けっぴろげで無垢な、ボクへの好意がいたたまれなかった。「影」に徹するために作り上げたポーカーフェイスを崩されそうになるほどの威力をそれは持っていて、だけど桃井さんはそんなことにはつゆほど気づかず、まっすぐに捧げてくる。そのたびボクは、胸の中をぐちゃぐちゃに引っ掻かれる。桃井さんに好意を向けられるたびに決して明るいとは呼べない感情が、全身に渦巻くのだ。それはおそらく不安とか恐怖とか、そういった類いのものなんだろう、と思う。
 だからボクは少し、桃井さんが苦手だ。

「最近よお、さつきのやつがテツテツうっせんだけど」

 ……なんてこと、青峰くんたちにはきっと一生かかったって理解してはもらえない気がする。

「はあ。そうなんですか?」
「おい、なんだよその気のねえ返事は。オレ困ってんだけど」

 そう、ボクの頭を小突いてご飯をかき込む青峰くんは、別段困っているようには見えない。ボクの正面に座る彼の、隣では緑間くんと紫原くんがなにやら言い争っていた。昼休みの学食は混雑していて、二人のケンカ(らしきもの)も喧騒の中に紛れ込んでしまっている。

「そうっスよー、こういうのはできるだけ早く答えを出さなきゃダメっス」

 そう言ったのは、ボクの隣でサンドウィッチを食べている黄瀬くんだった。目を輝かせて身を乗り出している、完全に面白がっているようだ。

「いつまでも曖昧にしてぇ、女の子困らせちゃかわいそうじゃないスか。特に桃っちなんて良い子なんだから、はっきりしてあげないと」
「はあ……」
「それに桃っち、めちゃくちゃモテるっしょ? さっきもここに来るまでに男に捕まってるの見かけちゃったんスけど、あれ絶対告白だったし!」

 その後黄瀬くんは、「この学校のイケメンってほとんどが桃っち狙いって言うじゃないスか。あ、オレは違うっスよ?」とさらりと口にして、青峰くんに割り箸を投げつけられていた。
 黄瀬くんに指摘されるまでもなく、そんなことは知っていた。先日はファンクラブまであるサッカー部の方に告白されていた、と専らの噂だったし、とにかく、桃井さんは異性の目を惹きつけるのだ。その綺麗な容姿で、大人びた体型で、面倒見のよさで。彼女はいつだって、集団の中にあっても埋没せずに視線を集めている。そしてそれは、青峰くんも黄瀬くんも緑間くんも紫原くんも赤司くんも、ここで今昼食をともにしているボク以外のみんな、同じだ。
 対してボクは、いてもいなくても変わらないどころかいることにすら気づいてもらえない、クラス内に階級を持ち込むとするならばほとんど最下層に位置してしまう人間だ。だからといってそのことに悲観しているわけじゃないけれど、桃井さんが絡むとなると話は変わってくる。「上」に君臨している人間が「下」の人間を慕うだなんて、そんなこと本来、あるはずがないのだから。

「ったく、わざわざさつきに告るとか趣味ワリィよなマジで」
「とか言ってー、桃っちを盗られたくないだけじゃないんスかー?」
「ちげえっつの!」

 眉間にしわを寄せている青峰くんとだらしなく口元をゆるませている黄瀬くん、二人のやりとりに耳を傾けながら、ほら、とボクは思っていた。青峰くんや黄瀬くんはこういう話をしていても違和感がないし、桃井さんとも釣り合いがとれている。でも、ボクは。ボクが桃井さんに、似合っているはずがない。
 オムライスを突き崩した。半熟玉子がケチャップライスの上をとろとろに流れて、お皿を汚す。
 身の丈に合わない幸運を手に入れたって、結局残るのはわずかな期待と、それをはるかに上回る後ろ暗いような気持ちだけじゃないですか。

「……ボクのことなんか、見なくていいのに」

 つぶやいた、その本音は青峰くんにも黄瀬くんにも、誰にも拾ってもらえなかった。
 それから、授業が終わって放課後、部室へと向かう廊下を歩いていたところで桃井さんに見つかってしまった。ぱたぱたと上靴を鳴らして駆け寄ってきた桃井さんは、テツくん、と叫んでボクを背後から勢いよく抱きしめる。

「会いたかったよー! 今日も部活頑張ろうね!」

 少し薄暗くて冷たい廊下、桃井さんの体温だけがどこまでもまぶしかった。はい、とボクは、平坦に返事をする。ボクたちの脇を通り過ぎる他の部員の方々など、まるきり目に入っていないかのように桃井さんは少しく頬を紅潮させて、笑っていた。ボクの前に躍り出て後ろ手を組む。肩の鞄で、キーホルダーが揺れていた。

「白金監督のメニューはやっぱり大変?」
「そうですね。最近やっと吐かなくて済むようになりましたが、吐き気をこらえるのに精一杯です」
「でもリタイアしないんだもん、テツくんやっぱりすごいよー!」

 あ、でも我慢しすぎないで吐いた方がいいよ、と忠告をくれた桃井さんにうなずいてみせた。誰のこともよく注視して気遣いをくれる、こんな桃井さんに惹かれる人も多いんだろう。
 ……じゃあ、ボクは?

「桃井さん、今日は食堂に来ませんでしたね。お昼休み」

 なにげなさ、を装ってふっかけた。桃井さんは大きな瞳を丸く見開いて、ふ、と目線を泳がせた。

「う、ん、ちょっとね。話があるって呼び止められちゃって。みんなとお昼、食べたかったけど」

 頬を掻いて気まずそうな様子の桃井さんに、切り込んでしまえばボクの期待は木っ端微塵に砕けるかもしれない。それでも引く気になれなかったのは、膨張しきった心の中のもやを、いい加減払拭したかったからだった。

「黄瀬くんが言ってたんですが。……告白、だったんですか?」

 あからさまに、桃井さんが硬直した。ボクがこんな話題を出すなんて初めてだから、それはそうかもしれない。
 どんな人ですか? 魅力的な人ですか? でもきっと、どんな人でもボクよりは桃井さんにお似合いで、ふさわしい方なんでしょうね。
 発言はしないで、頭の中だけで続ける。こんなことを言ったら、桃井さんはきっと胸を悪くするだろう。「私が好きなのはテツくんだからお似合いだとか関係ない」、そんな台詞をなんのためらいもなく口にする桃井さんを、簡単に想像できた。
 やめてほしい。そんな美しく飾った言葉で、ボクをかどわかそうとしないでほしい。

「桃井さんは素敵な方ですから、惹かれてしまうのも分かります」

 言った瞬間、心臓のあたりが痒くなった。ミミズがのたうち回るような違和感が湧く。ボクの言葉は本心だ、だから余計な期待なんてさっさと打ち壊してほしい。そう、思っているはずなのに、それとは全く別の場所で「そうじゃないだろう」と訴えかけている自分もいた。お前は桃井さんを好きなわけじゃないだろう、と。
 だったら、なんだと言うんだろう。ボクは桃井さんに、「期待」しているのに。
 桃井さんは赤面して、「ひ、惹かれる!?」とどもった。それから髪をさわったりスカートを引っ張ったりして、落ち着きをなくす。再びボクを見据えて「あ、あのねっ」と切り出した桃井さんを、遮ったのは青峰くんだった。

「よーうテツ」

 そう言って、ボクの肩に腕を回す。出鼻をくじかれる形となった桃井さんはしばらくあっけにとられていたけど、やがて我に返って「もーう!」と青峰くんに突っかかった。

「邪魔しないでよ青峰くん!」
「あ!? なんのことだよ?」
「邪魔は邪魔なの! もうっ、どっか行ってってば!」
「ンだよ、意味分かんねー」

 いつものような諍いを繰り広げ始めたお二人を、ボクたちを追い抜いていく人たちは生温かい目でもって見守っていた。やっぱり、とボクは、単純に確認する。青峰くんや桃井さんと、ボクの間には明らかに境界線が存在している。
 不可視の階級なんて、桃井さんたちは気にもかけていないだろう。そんなもの関係ない、とボクに手を差し伸べてくれる、優しい人たちだから。でもボクにとってはそうもいかない。少なくとも、完全に無視するなんてできない。
 だって、そうだろう。なんの変哲もない地味な人間がある日突然輝かしい人気者に見初められる、なんてそんなの、本の世界に広がっているだけならまだしも、現実にあったって恐ろしいだけだ。罠かもしれない、罰ゲームかもしれない、まやかしかもしれない――ボクが桃井さんの気持ちを受け取った瞬間に、「そんなわけないでしょう」と手酷く嘲られてしまうかもしれない。騙されるなんてバカじゃないの、と。桃井さんは決してそんな人じゃない、それは痛いほど理解できているけれど。
 怖気。それがひたすら、ボクを蝕む。

「ほんっと青峰くんってデリカシーないんだから。少しはテツくん見習ってよねっ」

 ふと、ボクの腕を取った桃井さんは、そう言って舌を出した。

「お前がイミフメーなことばっか言ってっからだろ!」
「意味不明じゃないもん、ほんとことだもーん」
「チッ。あーはいはいそうかよ、悪かったなデリカシーがなくって!」

 乱暴に頭を掻いた青峰くんは、どたどたと足音を響かせて部室の方へと向かっていってしまった。彼の背中に桃井さんは「ほんとのことしか言ってないんだからね」と唇を尖らせてつぶやく。

「あっ。ごめんねテツくん、巻き込んじゃって」

 部活行こっか、と申し訳なさそうに微笑んだ桃井さんを、「待ってください」とボクは引き止めた。

「さっきの言葉、うそじゃありませんから」

 自分に言い聞かせるみたいに、告げた。桃井さんはきょとんとしたあとで再度頬を染めて、嬉しい、とはにかんだ。

「私もね、テツくんのこと大好きだよ!」

 本当に好き、と小さくこぼして照れ隠しのように身を翻した桃井さんの、背中をボクはとっさに捉えていた。ふわ、と桃井さんから、なにか甘ったるいにおいがする。
 ああ、そうか。

「テテテテテ、テツくんっ!?」

 悟る。ボクは桃井さんがほしい。桃井さんにボクを見ていてほしい、そう望んで、期待している。けれどもそれは、桃井さんを好き、という感情とは、あまりにも隔たりがある。
 抱き寄せられ、取り乱している桃井さんに、ボクは言った。

「いつも桃井さんがしてくださいますから、お返しです」

 優越感だ、これは。
 不安じゃない、恐怖じゃない。ボクのような人間が桃井さんの想いを掴むことができた、その事実がとてつもなく心地よくて手放しがたくて、優越意識を掻き立てるんだ。怖気はあっても、それはその優越感が裏切られることに対する恐れであって、桃井さんが本当にボクを好いてくださっているのか、そういった心配に対するものじゃない。
 醜くて汚くて、自分で自分を軽蔑したくなるような感情だった。こんな自分がいるだなんて、足がすくむ。一刻も早くどこかに追いやって、そうしてもっと純粋に、桃井さんと向き合いたい。
 すみません。それまではまだもう少し、桃井さんの想いをボクに与えていてはくれませんか。
 いつかきっと必ず、ボクは貴女を「好き」になってみせる。こんな最低な自分なんか吹き飛ばして、心から、笑い合ってみせる。
 だから、お願いですから。もうしばらくはこのまま、ずるいボクのままで貴女と接することを、許してはもらえませんか。


up:2017.10.26