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「いたずらでもしようか」

 窓際の席で弱い風に髪をなびかせた、私の向かいに座る赤司くんが言った。携帯の画面に目を落としていた私は一瞬何を言われたのか分からなくて、「へ?」とまぬけな声を出してしまう。数学の教科書を見ながらノートに問題を書きつけている赤司くんの表情は、いたって冷静だった。

「今頃、青峰は部室に向かっているところだろう。一分もすれば異変に気づいてここへやってくるはずだ。そうだな……あと六分といったところか」

 そう言って赤司くんはノートのページを破り、折り紙で遊ぶみたいにして何かを作り始めた。話についていけない私は、とりあえず携帯を閉じる。さっきまで眺めていた発信履歴、青峰くんへ三回ぶん。三回とも、青峰くんは電話を取らなかった。

「えっと、どうして分かるの?」

 なにしてるの? と迷って、結局そっちを訊いてみた。作業の手は止めないままで、赤司くんが答える。

「青峰が部室のベンチに放置していた雑誌、それが今オレの手元にある。書き置きも残しておいたから誰の仕業かもすぐに理解するだろう。そうすれば青峰は、必ずここへ来るさ」

 机の脇にかけていたバッグから赤司くんが取り出したのは、堀北マイちゃんの写真集だった。「青峰くんてば……」と頭を抱えた私を一瞥してから、赤司くんは続ける。

「青峰がおとなしくテスト勉強をするとは思えなかったからね。一年の頃はオレや緑間が探しに出て連れてきていたが、それも非効率的だし時間を無駄にする。あちら側から来てもらえるのならば、それが一番早い」

 完成だ、とつぶやいた赤司くんの手には、丁寧に折られた紙飛行機があった。
 テスト勉強、と赤司くんが言ったように、今日は二年生になって最初の定期試験、中間テストの対策会をやる予定だった。対象はもちろん青峰くんときーちゃんで、講師役には本当なら赤司くんとミドリンが当たるはずだったんだけど、今日はミドリンに用事があるとかで代わりに私がやることになってしまった(成績的にはムッくんの方が適任なんだけど、「めんどくさー」と言い捨てて帰っちゃったらしい)。
 昨日から部活も停止されて、当日まではみっちりがっつりテスト勉強! ……のはずなのに、放課してからもう二十五分、青峰くんもきーちゃんも、会場に選ばれたこの二年一組に姿を現さない。きーちゃんは今日日直だったみたいで、遅れる、という連絡を赤司くんも受けてたんだけど、青峰くんは完っ全にただ逃げただけだった。ホームルーム終わったらすぐ捕まえとけばよかった、なんてイライラしながら青峰くんの携帯を鳴らしてもやっぱり繋がらないし、「もう、あのガングロクロスケ!」なんて私がなじったところで赤司くんが掲げたのが、「いたずらでもしようか」という、突拍子もない提案だったんだ。

「今回からは黄瀬にも目を配らないといけなくなったぶん、これまでの倍の労力が要求されることになった。こちら側の手を煩わせるならそれ相応の報いがあると、教えてやらなければね」

 赤司くんが軽く溜息を吐いた直後、全開にした窓からものすごい風が入り込んできて時間割とか掃除当番表とか、黒板横の掲示物の背をばさばさと膨らませた。今日は風が強いな、と独りごちて、赤司くんが目を細めて外を見やる。向かい合わせにくっつけた私と赤司くんの机の、天板の上に五月の日光が落ちていた。

「でもいたずらって、具体的になにするの?」
「これだよ」

 赤司くんが、紙飛行機の持ち手の部分をつまんだ。

「桃井、青峰は幽霊の類が苦手だと、以前そう言っていたね」

 それと紙飛行機がどう結びつくんだろう、なんて首をひねりながらも「うん」とうなずく。

「基本『そんなんいるわけねえ!』って態度なんだけど、実は結構怖いみたい。初めてテツくんと会った時もびっくりして震えてたって、テツくん言ってたもん」
「そうか」

 特に期待していたそぶりや驚いたそぶりを見せるでもなく、当たり前のことを確認しただけだ、といった風情で赤司くんは私の話を聞き、振り返った。黒板の上にあるアナログ時計に視線をやって、そろそろだな、と立ち上がる。手には、紙飛行機と写真集を持っていた。

「桃井、ベランダに出よう」
「へ?」
「青峰が来る。早く」

 赤司くんに二の腕をぽんと叩かれて、ほとんど反射的に私も立ち上がってしまった。教室の後方、掃除用具ロッカーのそばにある引き戸を開けて、ベランダに出る。赤司くんは、ちょうどさっきまで私たちが着席していた位置の、窓を挟んで反対側に腰をおろしたから、私もそれにならった。

「あの、赤司くん。どうするの?」

 私が尋ねると、赤司くんはあくまでも落ち着き払った様子で唇の前に人差し指を立てた。ほとんど同時に、廊下の方からばたばたと激しい足音が響いてくる。

「いいかい、オレがこの飛行機を飛ばしたら、桃井はあちら側に移動するんだ」

 赤司くんが指差したのは私の背後、二組の方角だった。校舎のベランダには仕切りがなくて、隣の教室のベランダへも簡単に行き来ができるようになっている。赤司くん自身は私と逆方向、学習室側へ移動する、と教えてくれた。その後で窓からちょこんと顔を出して、教室の様子を確かめている。
 なんだか、不思議なことになっちゃったなあ。
 赤司くんの横顔を眺めながらそんなふうに思ったけど、だからって「やめようよ」なんて反抗するつもりもなかった。赤司くんが何をしようとしているのかはさっぱり分かんないままだけど、赤司くんの言う「いたずら」で青峰くんがちゃんとテスト勉強するようになるならそれが一番だと思ったし、なにより、やっぱり赤司くんは信じられるから。赤司くんの考えにならついていこうって、そう思える。
 ベランダの柵の向こう側、校庭の方からきゃらきゃらと女の子たちの声が聞こえてきた。湿った土の香りがあがってきて、なんだかすごく初夏っぽい感じがする。中間テストが終われば、すぐに全中の予選だ。

「来た」

 頑張らなくちゃね、なんて一人で気合を入れていると、隣の赤司くんがひそめた声で私に報告した。飛び出させていた頭をしゅっと引っ込めて、ぐいと私に寄ってくる。半袖から伸びた赤司くんの腕が私の生腕にぎゅうっと密着して、そのあったかさにびっくりして「ひゃあっ」と悲鳴をあげかけた私の口を、赤司くんが右手で塞いだ。

「静かに」

 ふれ合っている腕と腕が、あんまりやわらかすぎてシールのようにぺったりと貼りついてしまう気がする。赤司くんの汗のにおいが、鼻の先をかすめた。心臓が飛び跳ねんばかりに暴れて、息が苦しくなる。
 こんなにそばに赤司くんがいるなんて、初めて。

「おい赤司っ。てめマイちゃんの写真集返せ!」

 がたん、と教室のドアの揺らぐ音と一緒に、青峰くんの怒鳴り声が飛んできた。赤司くんは私の口を押さえ込んだまま、窓枠の下にもたれかかっている。

「……って、んだァ? いねーじゃねえか」

 机と椅子が床をこする、ずるっという音がだんだんこっちへと近づいてくる。赤司くんはまだ動かない。どうするの、なんて鼓動は速くなるばっかりで、こんなに波打ってたら赤司くんにも聞こえてるんじゃないかな、なんて思い至ったらますます混乱しちゃったから、とにかくぐっと息を止めることしかできなくなった。
 すぐそばで、椅子を引く気配があった。青峰くんが、私と赤司くんの教科書が広がっている席に、辿り着いたみたいだった。

「チッ。やっぱねえか。どこに隠しやがったんだ、赤司のヤロー」

 さつきのやつもいねーしよ。青峰くんの喚き声がその一瞬、遠くなる。机に背を向けて、教室を出ていこうと引き返したみたいだった。
 そのタイミングを、赤司くんは見逃さなかった。
 さっと上半身を伸ばした赤司くんが、教室に向けて紙飛行機を放つ。同時に、とても強い風が吹いて飛行機の威力をあげる後押しをした。「行くんだ」と赤司くんに合図を出されて二組の方へと逃げる一瞬、視界の端で青峰くんの後頭部に紙飛行機の先が突き刺さる。「いって!」と青峰くんが絶叫した。

「誰だよコラ!」

 二組のベランダで、必死になって気配を消すように努める。一組を挟んでその向こうでは、赤司くんが涼しい顔で柱のでっぱりの陰に隠れていた。私と目が合うと、ジェスチャーで「見つからないように」と指示を出してくれる。
 すごい。なんか、楽しいかも。
 しばらくして、だん、と空気を震わせた青峰くんが、窓越しに身を乗り出してきた。きゃあ、と心の中だけで叫んで、青峰くんの死角からはみ出さないように一切の動きを止める。両手で口を覆って、一秒、二秒。
 五秒ほど経ったあと、ばたばたばたっ、と豪快に上靴を鳴らして、青峰くんが窓際を離れていった。そのまま廊下に飛び出したみたいで、すぐあとに「あっ」という声が、少しくぐもった形で響いてきた。きーちゃんの声だ。

「青峰っちー。なにしてんスか?」
「ききききき黄瀬っ! やべえぞ!」

 青峰くんの、あからさまに動転した、ひっくり返った声。

「出やがった!」
「はあ? 何がっスか?」
「出たっつったらそりゃ、おおおおばけしかねえだろ!」

 なに言ってんだアンタ、なんて呆れたきーちゃんに構わず、青峰くんは「とにかく赤司だっ、赤司探すぞ!」と喚き散らした。「ちょっ、痛いんスけど!」というきーちゃんの抗議もフェードアウトしていって、青峰くんがきーちゃんまで巻き込んで逃げていっちゃったのが、分かった。
 私と赤司くんは、その場で顔を見合わせる。こらえきれずに噴き出しちゃった私だけど、赤司くんは「やれやれ」といったように肩をすくめただけだった。でも心なしか、いつもより口元がゆるんでいる気がする。

「こんな簡単に騙されるなんて、大丈夫なのかあいつは」
「あはは。青峰くん、勘は結構鋭い方なんだけどねー。よっぽどおばけがいやなのかも」

 って、私もあんまり得意じゃないから人のこと言えないんだけど、いつもわがまま放題に振舞ってるあの青峰くんがあんなふうに取り乱すんだから、やっぱりちょっと、笑っちゃう。

「まあいい。青峰と黄瀬を連れ戻そう」

 左手に写真集をぶらさげたまま、赤司くんが引き戸に手をかけた。教室に入った彼のあとを追って私も敷居をまたいだものの、その瞬間、びゅうと強風が吹きつけて私の背中を突き飛ばした。つまさきが敷居のでこぼこに引っかかって、つまずいてしまう。

「わあっ」

 ぎゅっとまぶたを閉じて衝撃に備えて――でもそれは、思いのほか包み込まれるような感触で、あっけなかった。あれ、と不思議に思いながら目を開けると、私の頭のすぐ上に、赤司くんがいる。赤司くんの手は私の肩と肘に、それぞれ添えられていた。

「気をつけろ」

 表情を変えずに、赤司くんが言う。頭の中が散らかって何が起きたのか即座に判断できなかった私は、赤司くん写真集持ってなかったっけ、なんて場違いな疑問を抱いてしまった。視線をさげると、写真集は私と赤司くんの間に落ちていた。

「桃井?」

 瞳を覗き込まれて、やっと我に返った私は「わっ! ご、ごめんねっ」とまくしたてて赤司くんから離れようとしたけど、足を動かしたら写真集を蹴飛ばしちゃって「ど、どうしよ、青峰くんに怒られる!」なんて考えてますます混乱しているうちに、赤司くんが抑揚なくつぶやいた。

「こういうのは普段、青峰の仕事だったな」

 微風が、赤司くんの前髪を揺らす。二人きりの教室で静かに舞っている細かなほこりの粒が、陽に照らされてきらめいていた。
 こういうの――ドジした私を、受け止めること?
 もう一度、ゆっくりと赤司くんを窺った。そこにあったのは、さっきいたずらが成功した時よりもやわらかく微笑んだ、羽布団みたいな赤司くんの表情だった。きゅ、とより力強く、赤司くんが私を支えてくれる。

「盗ってしまったね」

 さあ、青峰たちはどこへ行ったかな。私の体をそっと放して身を翻した赤司くんの後ろ姿に、私のほっぺたの内側で、火山が噴火した。
 初めて見た。赤司くんの、あんなに優しい顔。

「赤司くんっ」

 慌てて写真集を拾い上げて、赤司くんを呼び止めた。すでに廊下へ一歩踏み出していた赤司くんが、戸口で振り向く。駆け寄って、赤司くんの手首を掴んだ。

「行こ!」

 桃井っ? と珍しくうろたえたように赤司くんが呼んだけど、私はそのまま、赤司くんを引っぱって廊下を駆け出した。リノリウムの床を、窓の形に切り抜かれた夕日が光らせている。
 一年以上も同じ時間を過ごしたのに、私は赤司くんのことについて、まだ全然、知らない。でもさっきの笑顔を胸に置いたら、知らないぶんはつまり、これから知っていけるぶんなんだって気づいて、わくわくした。もっともっと、私は赤司くんのことを知っていける。
 そう思ったらなんだか楽しくなってきちゃって、私は赤司くんにすり抜けてしまわれないよう、握りしめた手首に固く固く、力を込めた。


up:2017.10.23