series | ナノ

 今日の蟹座のラッキーアイテム、三毛猫のキーホルダーを手の中で転がしながら桃井がステージのふちに腰掛けている。彼女の視線を右頬に感じながら、オレはスリーを打ち続ける。ボールは高いループを描いてゴールネットをくぐり抜け――先程から居残り練習を始めてすでに五十六本目だが、一本たりとて外していない。
 練習着のシャツの下、背骨のくぼみに沿って汗が這うように流れ落ちた。額も鼻の下も首の裏も、体から滲み出た水分でべたついている。ゴールのバックボードの、透明な部分に体育館の照明が一瞬反射して、目をやられた。それでもオレは、そばに置いたカゴからボールを取る。シュートを打つ体勢に入る。
 黒子はもう帰ったのだろうか、いつのまにか姿が見えない。赤司は主将の仕事でもしているのだろうが、それにしても遅すぎる。今日は自主練をしないつもりなのだろうか。青峰と黄瀬と紫原は――そもそもあいつらは今日、部活自体に参加していない。人事を尽くさぬ者のことなど、知ったことではない。
 誰が何をしようが構わない。オレはオレのやり方を貫くだけで、それを曲げるつもりなど毛頭ないのだから。

「ミドリン、ちょっと休憩したら?」

 ネットを通過したボールが数回床をバウンドして、再び体育館が静かになった時、桃井が言った。桃井はオレと目が合うと小首をかしげて、それから不自然に、床に散らばったボールの方へ視線をやった。

「……あ、のね。余計なお世話だったら、別にいいんだけど」

 歯切れの悪い二の句だった。これが、少し前までの桃井なら「絶対休まなきゃダメだよ!」などと言って強引にでも休憩を取らせただろうに、今はこちらの機嫌を窺うかのように下手に出ている。原因が分からないわけじゃないオレは、溜息の代わりに深く酸素を吸って、鼻から吐いた。

「分かったのだよ」

 桃井に差し出されたボトルを受け取って、ステージに身をもたせる。ドリンクは、飲み下すと食道の形を浮かび上がらせるように滑り落ちて、最後に空っぽの胃にじんとしみた。ステージに座る桃井と、その下で隣に立つオレの、目線の位置はほぼ同じだ。オレの方がわずかに高いくらいだった。
 第一体育館には、オレと桃井しかいない。ステージに一番近いドアだけが開け放されていて、湿気で重たくなった風を室内に取り入れていた。もうじき梅雨がやってくる。最後の全中も、目の前だ。

「ねえミドリン、この子かわいいね。どこで買ったの?」

 沈黙に耐えかねたのか、桃井がスイングの部分をつまんで、キーホルダーを胸の前でぶらさげてみせた。オレはボトルのふたを閉じて答える。

「商店街なのだよ、駅前の」
「へえー。こんなかわいい子売ってるお店あったかなあ」
「お前らしくもないな」

 三毛猫の黒い耳を撫でていた桃井が、それで硬直した。顔をあげる、オレを見る、それらの動作がいちいちスローモーションがかって見える。

「何を取り繕う必要があるのだよ、今更」

 オレが猫を好いていないことを、桃井は知っている。確認したことはないが、情報収集を得意としている桃井のことだ、知らないはずはないだろう。ならばオレが、今桃井の握っているキーホルダーを、ラッキーアイテムだからと渋々所持しているであろうこと、容易に察せられるはずだ。間を繋ぐためとはいえ話題が不用意すぎる、普段の桃井ならばもっと上手く立ち回っていただろう。

「ここにいたくないのなら、帰ればいい」

 ボトルくらいオレが洗っておくのだよ。言って、床に目を向けたら、足元のコートのラインが剥がれかけていた。シールの部分が黒ずんでいる。

「ミドリン」

 呼ばれて、向き直ると桃井にキーホルダーを押しつけられた。ズボンを引っ張られ、むりやりポケットの中にねじ込まれる。突飛な行動に驚いて「何をするのだよっ」とたじろいだが、思いがけず桃井がオレを見据えていたので、何も言えなくなってしまった。

「帰らないよ」

 帰らないもん、とつぶやいた桃井はオレからボトルをひったくり、そのまま中身を飲んでしまった。ぐいっとそらされた白い喉が、数回上下する。勢いよくボトルを置いた桃井を前に、オレはただあっけにとられた。

「私マネージャーだから部員のみんなのことちゃんと見てなきゃダメだし、それは当たり前のことだし、だからここにいなきゃダメだし、」

 まくしたてる桃井に、口を挟む隙もない。桃井はもうオレを見てはおらず、横目でその視線の先を辿ったら、体育館を広く使った場合ちょうどコートのセンターラインが来るあたりに、注がれていた。

「ほら、みんながふらっと自主練に来た時に体育館が開いてなかったら困るでしょ? 誰かここにいないとダメだなあって思って、だから私がいようって」

 桃井はまだコートの中心を睨んでいる。何かを――「みんな」を見つけようとするかのように、じっと見ている。
 だが、そこにはもう、誰もいない。

「――ここに、いたいの」

 桃井の、こわばっていた目元と眉間がぴんと張りつめた。次の瞬間、桃井の頬を、何かがつうと渡っていく。

「うそ。私がここにいたいだけだよ」

 ずるずると洟をすすりながら嗚咽をこぼし始めた桃井に、かける言葉など持っていなかった。泣いている人間――ましてそれが女子であるなど、対処の仕方に検討もつかない。もう何年も前、まだ幼児だった妹をなだめた記憶は朧気だがあるものの、その方法が目の前の桃井に通用するとは、到底思えなかった。
 青峰なら、分かるのか? ひらめいても、それは無意味だ。あいつは今、ここにいない。

「目は、こすらない方がいいのだよ」

 スカートから伸びた腿に目を落としていた桃井がぐいぐいとまぶたをこすり始めたので、とりあえずそれだけアドバイスした。いつも大声でわーわーと騒がしいはずの桃井の、泣き声は体育館に反響することなく、ステージの幕に吸い込まれるようにして小さく消えていく。それが少し、恐ろしかった。
 桃井の両手首に触れて、目元から引き離す。充血した目尻が痛々しく、一瞬途方に暮れかけたオレの手を、今度は桃井が掴んだ。思いがけず強い力で。

「桃井?」

 オレの指の間に自分の指を滑り込ませて、桃井は手を組んだ。彼女の手の甲に付着していた涙の粒が、クリーム色のパーカーを袖まくりした腕を、伝っていくのが見えた。

「……あったかい」

 は、と間の抜けた声が漏れる。動揺したオレのことなど知らぬふりで、桃井はオレの耳の上を髪の毛ごと包んだ。何をするのだよ、などと抗議することも叶わないまま、桃井の顔が迫りくる。
 ごち、と音がして、桃井の額とオレの額が、合わさっていた。

「こっちはちょっと、熱すぎるかなあ」

 あはは、と桃井の吐き出した息が、オレと彼女の顔の間にとどまって渦を巻く。桃井からは、制汗剤らしき何か人工的で甘い果物のにおいがした。オレの頭を掴む桃井の手のひらも、重なっている額も、ぶつかり合う吐息も、全部が全部熱っぽすぎて視界が白くけぶるが、それは眼鏡が曇ったせいではない。頭皮や脇や背中、全身の毛穴から、脂汗が噴き出してくる気がした。

「な、にをしているのだよ、桃井、」
「んー? 熱計ってるんだよ、ミドリンの」

 喉奥で何かが絡んでいるような、掠れた声で桃井が囁いた。行き場のないオレの両手はズボンの縫い目に添えられて、「気をつけ」のような、変なポーズになってしまう。

「なぜ熱を計る必要がある」
「ミドリンがあったかいから」

 ぐり、と桃井が身じろぎすると、額に挟まれた前髪が、油がはねた時のような音を立てた。
 答えになっていないのだよ。オレがそうやって突き放す前に、桃井は続ける。

「ミドリンは、ここにいてくれるから」

 その瞬間、オレは桃井にとんでもなく無防備な思いを明け渡されてしまったのだと、気がついた。くるむものなど何もなく剥き出しで、やわく、指先でつつかれるだけで激しい痛みにもがくような、例えるなら産まれたての鳥のひなのような、そういう、桃井の持ち物を。
 オレはお前のためにここにいるのではない。そう言って桃井を拒んでしまおうかと一瞬、考えた。でもすぐに撤回して、こぶしを作る。桃井は自分のためにここにいてほしいわけではないのだ、バスケのためにここにいてほしいと願っていて、そしてオレはバスケのために、ここにいる。
 それに、体のどこか、深い深い部分では「いやじゃない」と思っていた。オレが桃井に肩を貸してやることなどできないしするつもりもないが、そういう無責任さの塊の中に一点、芥子粒ほどの優越感が光っているのだ。この、桃井の持ち物は、おそらくオレしか知らないのだろう、という。
 とはいえそれは、この体育館に最後まで残っていたのが偶然にもオレだったという、ただそれだけの話に過ぎないのだが。

「こうやって」

 再び声を発した桃井は、しゃくりあげていた。そっと確かめると、彼女はゆっくりと目を閉じたところで、下まつげに溜まっていた水滴が押し出されて、顎の方へと流れていった。

「こうやってくっついてるだけで、みんなの気持ちが全部全部、伝わってくればいいのにね」

 相槌は打たなかった。桃井の言葉はオレに語りかけるものではなく独り言なのだと分かったし、そもそもオレは、桃井に同調できるほど彼女と同じではないのだ。オレはもう、他のやつらのことなど自分には関係ないと思っていて、だが桃井は違う。だからこうして、オレを知ろうとして、額を合わせている。オレと桃井は、決して相容れぬほど根本的に違ってしまっているのだ。その差がつまることは、余程のことが起こらぬ限り、おそらくない。
 ……ならばオレは、桃井を突き放すのか?

「桃井っ、」

 ん? と桃井が返事をする。別に、何が言いたいわけでもなかった。動揺で、髪から湧き出した汗が襟足を滑り落ちる。二秒ほどあとに「……なんでもないのだよ」と茶を濁すと、なにそれ、と桃井は笑った。

「ミドリン、変だよ」

 反論の余地もない。オレ自身、変だと思ったのだから。自分が何をしたいのか見失うなど、何をすべきか常に省みながら行動しているオレにとって、本来ありえない。
 ただ、この衝動は、本物だった。確かにあるのだ。

「ごめんね」

 そうつぶやいてオレを解放しようとした桃井の、後頭部をとっさに捉えていた。離れかけていた額同士がもう一度ぶつかって、いたっ、と桃井が悲鳴をあげる。頭の高い位置で一つにくくられた、桃井の髪先がオレの手の甲をくすぐった。

「ミドリン?」

 うろたえたような声音で、桃井がオレを呼んだ。それには答えずに、オレは固くまぶたをおろす。

「謝られねばならないようなことは、されていないのだよ」

 桃井の唇から、え、と音が漏れた。ほとんど息に飲まれた声だった。オレはまぶたの力みをやわらげる。だから、と言葉を繋げた。

「謝るな」

 謝られたら、桃井が自分の肉を切り裂いてまで「持ち物」をオレに開示してくれた、その行為そのものがなかったことにされてしまう。そんなふうにはさせたくなかった。一緒に抱えてやることなどできないのに、オレは桃井が秘めてきたそれを、手の中でじっと見つめていたくなってしまっていたのだ。まったく、我ながらおかしな話なのだよ。
 だが今、ここにいるのはオレだ。偶然だろうがなんだろうがそれだけは事実なのだから、オレにのみ許された権利だとでも解釈して、もらってしまっても構わないだろう。せっかく、桃井がくれたのだ。
 桃井はしばらく、何も言わなかった。オレの発言の意味を噛み砕いているのかもしれなかった。そのまま指を、桃井の髪の中へともぐらせていく。汗の作用で、頭皮がわずかに湿っていた。
 こんなところだけは、同じか。

「……ありがとう、ミドリン」

 桃井が言った。彼女が再び泣き出してしまったことが、目を閉じていても気配で分かった。二、三度、頭を撫ぜてやる。先程からオレを突き動かしているこの衝動こそが、全ての答えなのだろうか。
 隣にはいてやれない。が、同じ空間にいてやることはできる。それは第一には自分のためだが、とはいえ桃井のためでもあるのだろう、きっと。桃井が欲している「バスケ」、それに取り組んでいる姿くらい、いくらでも見せてやるのだよ、オレが。
 ありがとう、と繰り返して、桃井は脱力した。オレが目を開けるのとほぼ同時に、オレの頭を支えていた桃井の両手がおろされて、彼女の膝に収まる。ずずーっと思いきり洟を吸い上げながら肩を震わせ続けている桃井の後頭部を、何度も、撫でてやった。それは泣いている人間への「対処の仕方」などではなく、ただオレがそうしたいからだった。わけの分からん願望だ。
 桃井が泣きやむまで、こうしていることにする。そうして泣きやんだら、次はコートのラインの貼り替えを願い出よう。「バスケ」に関われるのならと、桃井は喜んでやってくれるはずだ。その間オレは、中断してしまったスリーの練習に取り組む。桃井の仕事が終わるまで、彼女が「帰ろう」と言い出すまで、ずっと。ここにいてやる。
 ただ、同じ空間にいなくてはならないのは桃井も同様だ。彼女の仕事が終わるまでにオレの自主練メニューが終了していなければ、その時は最後まできちんと付き合ってもらうつもりなのだよ、桃井。


up:2017.10.21