series | ナノ

 きーちゃんがこんなにも意地悪だったなんて、知らなかった。

「青峰くん、ちゃんと来てくれるでしょうか」
「だーいじょーぶっスよ! いざとなったらオレが引っ張ってくるんで!」

「ね、桃っち?」と水を向けられて、「え!? うううう、うんっ」なんてあからさまに不審な返事をしてしまった。やだっ、テツくんがいるのに、なんて思っても、もう遅い。私の向かいに座ったテツくんは、バニラシェイクのストローをちょこんと唇にふれさせて、首をかしげていた。いつもだったら「かわいいっ……!」なんて心の中で身悶えているところなんだけど、今はそんな余裕ない。
 それもこれも全部、隣にいるきーちゃんのせいだ。

「緑間っちのことは高尾っちが連れてきてくれるし、火神っちにはもう黒子っちが声かけてくれてるし、これで無事に3on3できそうっスね!」

 言いながら、きーちゃんはテーブルの下で私の膝小僧を弱く撫でた。うう、なんて声が出ちゃったけど、日曜日の夕方、混雑したマジバの店内ではほとんどなかったものとされたみたいで、今度はテツくんにも不思議そうにされなかった。窓際の座席を確保して、通路側にはきーちゃんが座っているから、きーちゃんが私にしていることは誰にもバレていない、はず。
 左手でアップルジュースの容器を握りしめて、右手できーちゃんの手をぺっと追い払った。それでとりあえず、離れてくれる。

「無事にできるとは思いますけど、黄瀬くんと青峰くんはちゃんと宿題終わらせておいてくださいね。当日手伝ってくれなんて言われても困りますから」
「う。痛いとこ突きますね、黒子っち……」
「あと、二人して桃井さんに頼るのも駄目ですよ」

 ぶー、と口を尖らせて、きーちゃんは頬杖をついた。三人とも部活のあとでここに集まったから制服を着ていて、きーちゃんの腕まくりしたシャツはテーブルにこすれている。

「あーあ、インターハイもJabberwock戦も終わってちょーっとゆっくりしたいなあって時なのに、なーんで宿題なんてやんなきゃいけないんスかね」
「ボクたちが学生だからです」

 淡々としたテツくんの回答に、きーちゃんは「冷たいっス!」と嘆いて泣きまねをした。テツくんはそれを、あくまで冷ややかに一瞥する。いじられ役みたいなきーちゃんの立ち位置は全然変わっていないのに、ほんと、どうしてなんだろう。

「ところで桃井さん。本当に青峰くんへのプレゼントはいらないんですか?」

 ふとテツくんに尋ねられて、はっとした私は慌ててうなずいた。

「う、うん。あいつ誕生日プレゼントとかあげても大事にしないもん。ありがたみがぜーんぜん分かってないの。それにみんながバスケしてくれるなら充分だよ、バスケ馬鹿だし」

 私が言うと、テツくんはふわんと微笑んで「そうですね、バスケ馬鹿ですからね」と納得してくれた。きゃーテツくんの笑顔! なんて浮かれながら「うんっ、バスケ馬鹿だから」と答えている間、私の右側――きーちゃんのいる方から無遠慮なくらいの視線が注がれていることに、気づかないふりをする。頬杖をついたままのきーちゃんの目線は生け花に使う剣山みたいに、びしびしと痛い。額に冷や汗が滲む気がする。

「3on3では黒子っちとおんなじチームがいいッスねー、やっぱ!」

 ふいっと、きーちゃんの目がそれてほっとしたのも束の間、私の体はまたがつんと固まってしまった。加減を間違って潰してしまった容器が、手の中でひしゃげる。――だだだだって、きーちゃんの手が、わわわ私の、スカートの、上に。

「はあ。ローテーションしますから、同じチームにも違うチームにもなると思いますけど」
「うー。やっぱ冷たいっス」
「そうですか?」

 そうッスよー、と不満そうに(でも楽しそうに)テツくんに絡んでいるきーちゃんは平然と、まったくもっていつも通りに振る舞っていた。テーブルの下、テツくんに見えないところでは私の体をそろそろと探っているくせに、全く顔色を変えないんだからある意味感心しちゃう……なんて、そんなこと考えてる場合じゃない、早くこの状況をなんとかしないと!
 どうしよどうしよ、なんて頭の中でぐるぐると考えているうちに、きーちゃんの手はスカートの丈が及んでいない部分――腿に直接、着陸してしまった。びくん、と背中を震わせた私を、きーちゃんは横目だけで確認して、またテツくんに向く。

「黄瀬くんてボクとは同じチームになりたがりますけど、青峰くんには違いますよね」
「あー、オレ的にベクトルが違うんスよ。黒子っちとは一緒に戦いたい。でも青峰っちとか火神っちとは競い合っていたい、みたいな?」

 そうなんですね、と相槌を打ったテツくんの、半袖から伸びた肘が脇に敷いてあったナプキンを下に落としてしまった。あ、とつぶやいて、テツくんがテーブルの下に身を屈める。きーちゃんの手のひらは、まだ私にくっついたままなのに。

「きききっ、きーちゃんっ」

 焦った私が非常事態を叫んだ時には、きーちゃんの左手はもう、コーヒーの容器を掴んでいた。

「どうしたの、桃っち?」

 コーヒーをすすったきーちゃんは満面の笑顔で、それはもうモデルの本領発揮って感じの笑顔で、しれっと問うてくる。恥ずかしいやら怒りたいやらでわなわなしていると、体を起こしたテツくんがソファに座り直して、飲み終わったバニラシェイクの容器にナプキンを捨てたから、抗議するチャンスを逃してしまった。

「桃井さん? どうかしましたか?」

 ほっぺたがすっごく熱いから、外側から見た私はきっと真っ赤になっている。テツくんもそれを変に思ったのか、私の顔を覗き込んで心配してくれた。

「う、ううん! な、なんでもないよっ」

 必死に首を振る私を、きーちゃんは含み笑いでもって評した。ひどい、あとで絶対、絶対怒ってやるんだから。

「あーあ、学校がもうちょっと近かったら赤司っちと紫原っちも呼べたんスけどねー」
「仕方ありませんよ。当日は三十一日ですから、翌日はもう新学期ですし」

「黒子っちポテト食わねっスか」「床に落ちたナプキンをさわってしまったので、遠慮します」という会話を、ストローを咥えながら聞いた。とりあえず、落ち着かないと。テツくんに「変な女」なんて思われたら、もう絶対、立ち直れないもん。

「……あの、桃井さん。もしかして体調でも悪いんですか?」

 何回か深呼吸をして自分の中のほてりを鎮めようと頑張っていたら、不意に、テツくんに尋ねられた。びっくりして、ストローから口を離す。

「そ、そんなことないよっ。どうして?」
「いえ、なんだかさっきからずっとそわそわしていらっしゃるようなので。顔も赤いですし、熱でもあったら大変だなと……」

 大丈夫ですか? と気遣いをくれるテツくんに、私はすっかり滅入っちゃっていた。やっぱり、テツくんって紳士!

「ううん! ほんとに大丈夫なの。全然元気だよ、元気!」
「そうですか。それならよかったです」
「テツくぅぅぅん……! ありがと、」

 う、は私の喉の奥で、引っかかって出てこなかった。何かが、っていうか絶対きーちゃんの手なんだけど、それが私のスカートの中に滑り込んできたからだった。指先だけで腿にふれて、縦に横に、ゆっくりとなぞっている。
 正面のテツくんはまだ私を見ているのに、きーちゃんのボディタッチはそんなことにはお構いなしだった。そろそろと腿の上を移動して、そのまま内腿の方に――同時に、脚の付け根の方にも向かっていく。全身が完全に硬直した。周りの人たちの話し声とか物音とか、全部が遠くなる。
 やだ、きーちゃん、やめて。
 だんだん怖くなってきてぎゅっと目を閉じた瞬間に、きーちゃんの指がぐにゅっと肌に食い込んできた。途端、「いやーっ!」と悲鳴に近い声をあげて立ち上がってしまった私を、テツくんが唖然とした表情で見上げる。くりくりとした瞳をさらに大きくさせて、テツくんにしては珍しく、ぽかんとしていた。その反応を見たら急に我に返って、周囲の景色がわっと私の五感に戻ってくる。背中や横顔に突き刺さる視線、ひそひそ声、テーブルに広げられたポテトの、油っぽいにおい。
 頬が、脳みそが、恥ずかしさで爆発しそうだった。私を愛撫するように這い回っていたきーちゃんの左手はもうとっくに、何かあったの、みたいな顔をしてきーちゃんの膝に収まっている。
 痛くて長い沈黙を破ってくれたのは、テツくんの携帯電話だった。電話がかかってきたみたいで、ちょっとすいません、と断ったテツくんがテーブルを立っていく。そこで私はやっと、ひもが切れたキーホルダーみたいにすとんと、ソファに落っこちた。
 耳たぶまで熱を行き渡らせてる私を見て、ぶっ、ときーちゃんは噴き出した。そのままテーブルに伏せって、あっはっはっ、と大笑いする。

「き、きーちゃん! なに笑ってんのよう!」
「だ、だって桃っち、くっ、おもしろっ……!」
「笑いごとじゃないでしょお!?」

「ばかばかっ、きーちゃんのばかっ」と肩をぽかぽか殴ると、きーちゃんは「いていてっ、やめて」と、笑いすぎて涙を滲ませたまま私の手首の捕まえた。

「だってさあ。桃っち、相変わらず黒子っち大好きオーラ出してんスもん」

 わざとらしく口を突き出して不平を漏らすきーちゃんに、う、とつい言葉につまってしまった。

「そ、それはきーちゃんだって同じじゃない。テツくんのこと、好きでしょ?」
「そりゃ好きっスけど、今言ってんのはそういうことじゃなくて。それにやっぱり、オレより青峰っちのこと気にかけてるようなしゃべり方するしぃ」

 そんなことないもん、と反論する隙もなく、きーちゃんは私の耳元に唇を寄せた。

「――ねえ。桃っちのことを一番好きなのは、誰だと思ってんスか?」

 かすれた、息の多い声で、囁かれる。きーちゃんからほわんと、シトラスが香る。

「桃っちが好きなのは、誰?」

 捉われた手首に、きゅっと力がこもった。

「青峰っちでも、黒子っちでもないよね?」

 答えて、ときーちゃんがささめく。バニラビーンズと生クリームとあんこをぐちゃぐちゃに混ぜたような、胸焼けしそうなほどに甘ったるい声音で。

「桃っちの隣にいるのは、誰なの?」

 私の手首を解放したきーちゃんは、自然な流れで私の指の間に自分の指を通した。上から包み込むように、ふわっと手を握ってくれる。それだけで私はもうへなへなになって、文句を言う気力もなくしちゃって、それはもう完全に、完膚なきまでに、きーちゃんに負けちゃったのだった。

「……き、きーちゃん、です」

 がっくりとうなだれて、答える。「うん、そうだよね」と嬉しそうに言って、きーちゃんは私を放した。私は手の甲をほっぺたにあてて、そこに渦巻いている熱を計る。
 本当に、きーちゃんって、魔性。手のひらの上でかわいがるみたいな手口に翻弄されて、たまには私だって振り回したいのに、うまくいかない。いつのまにかきーちゃんのペースになっていて――でもそれがいやじゃないんだから、最初っから勝ち目なんてなかったのかも。

「はいさつきちゃん。あーん」

 きーちゃんが、つまんだポテトを私に餌付けする。それを口に含んでから、「なんかそれ、やだ」とせめてもの抵抗をすると、「ごめんごめん、桃っちね」ときーちゃんは苦笑した。

「すみません。母から電話があって、すぐに帰ってきてほしいと言われてしまいました」

 戻ってきたテツくんは、ちょっぴり慌てた様子でそう言った。それで私ときーちゃんも一緒に、席を立つ。お店の前でテツくんと別れて、送ると言ってくれたきーちゃんと一緒に帰路についた。
 電車に乗ったり歩いたりしている間、きーちゃんは「早川先輩がファミレスの注文に手間取らなくなった」とか「森山先輩から『どうやったら彼女ができるのかアドバイスしろ』ってメールが毎日送られてくる」とか、海常のみんな(「元」含めて)の話を本当に楽しそうにしゃべっていた。それで私も、マジバでの熱を引きずらずに済んだ。身振り手振り付きで色んなことを教えてくれるきーちゃんは、今日幼稚園であった出来事をお母さんに語って聞かせる、ちっちゃな子どもみたい。

「あ、青峰っちー!」

 私の家に近づいてきたところで、タンクトップ短パンサンダル姿でレジ袋を提げた大ちゃんが、アイスを咥えながら向かいから歩いてきた。きーちゃんがぴょこぴょこと飛び跳ねて合図を出す。西日を背負った大ちゃんは、あからさまに顔を歪めた。

「話しかけんな」
「ひどっ!」

 そのまま自分ちに入っていこうとする大ちゃんを、きーちゃんは「ちょっと待ってほしいっス!」と引き止めた。

「青峰っちの誕生日に黒子っちたちとバスケすることになったから、ちゃんと来てくださいね!」
「あ? 勝手に決めてんじゃねーよ」
「だって、相談したって『やだ』って言われるだけなのは目に見えてたしー」
「よく分かってんじゃねえか」

 食べ終わったアイスの、棒をレジ袋に放って背中を掻いた大ちゃんに、私は反射的に「あーっ!」と突っかかってしまっていた。

「大ちゃん、背中掻いちゃダメって言ったじゃない! あせもがひどくなっちゃうんだから!」
「あ? うっせーなー」
「うるさくないですぅ。あ、ほらっ、やっぱりひどくなってるー!」

 門扉に手をかけた大ちゃんの、タンクトップをまくりあげて背中を露わにした。陽に焼けた肌に、赤い点々が散っている。

「今日クリーム塗りに行ってあげるから。お風呂でちゃんと洗っといてね!」
「だからいらねえっつの、」

 そこで振り返った大ちゃんが、豚肉巻きにされたゴーヤを間違って食べちゃった時みたいな顔をした。その視線の先を辿ろうとした瞬間に、私は大ちゃんから引き離される。バランスの崩れた体は生温かくやわらかいものに抱きとめられて、何を思う間もなく唇が塞がれた。
 きーちゃんの、唇によって。

「ぶほっ!」

 私の後ろで、何かが盛大に噴き出される音がした。ばたばたと足音が鳴って、次いでドアが勢いよく閉ざされた気配がある。でもきーちゃんは、そんなことには頓着せずに私の唇を貪って、半ば強引に舌を挿し入れてきた。びっくりして胸を押し戻すと、きーちゃんは渋々、といったようにキスを中断した。

「ききききき、きーちゃ、」
「ねえ桃っち」

 私を固く抱きしめたまま、きーちゃんが言った。冷たく低く、切実な声音に、私の肌はそっと粟立つ。

「いい加減分かってよ」

 きーちゃんの肩に頭をうずめるような形になっている私は、今のきーちゃんの表情を確かめられない。でも、もしかしたら泣いているのかもしれない、と思った。それくらい、切ない声だった。

「オレ、もう限界」

 そう絞り出したきーちゃんはぎゅっと、さらに強く私を抱いた。痛いくらいの抱擁で、私の背中はわずかにしなる。顔が熱くて、かける言葉を必死になって探しているうちに、でも私は解放されてしまった。

「……なーんて、うそっスよ」

 私の頭を撫でたきーちゃんは、笑っていた。さっきまでの狂おしいような雰囲気はもうなくて、いつも通りの明るいきーちゃんがそこにいる。私が少し戸惑っているうちに、「帰ろっか」と言ってきーちゃんは歩き出そうとした。彼の背中の、シャツをとっさにつまんで、待ったをかける。

「きーちゃん」

 きーちゃんは振り向かない。

「私、きーちゃんが好きだよ」

 うつむいて、それでも私は、伝えた。

「――本当に、好きだよ」

 ゆっくりと、振り返ったきーちゃんは夕日に透けてしまいそうに見えた。消えてしまいそうに、目を細めていた。

「知ってる」

 知ってるよ、と繰り返したきーちゃんに、今度は私から抱き着いた。うわっ、と声をあげたきーちゃんは私を受け止めたあとで、深く深く息を吐き出す。

「ごめん、だっせえとこ見せた」
「私、本当にきーちゃんが好きだからね。好きなんだからねっ」
「ふふ。はいはい、分かったっスよー」

 ぽんぽん、と私の脳天を叩いたきーちゃんを見上げる。目が合って、笑顔を向け合ってから、私たちは手を繋いだ。

「あ。ねえねえ、今度青峰っちと三人で宿題でもしませんか?」
「えー、どうしたの急に」

 笑いながら問うと、きーちゃんはにこっと音がしそうなほどの笑みを浮かべた。あれ、なんだかいやな予感、と私の顔は引きつる。

「オレたちのラブラブっぷり、ちゃーんと教えてあげようよ」

 また何か企んでる、意地悪する気だ、って分かってるのにうなずいちゃう私は、やっぱり始めっから、きーちゃんに完敗なの。
 だからこれからもずっと、私をめろめろにしてね、きーちゃん。


up:2017.10.01