series | ナノ

「あ、ほんとにいたっ」

 部活のあと、三軍用の体育館で自主練していたオレのところにさっちんがやってきた。鉄扉からひょこっと顔を出したさっちんの向こう側に、体育館から漏れた明かりで紺色に光る夜がある。ステージの脇にある時計を見ると、もうすぐ八時になるところ。あーもう、なんでこんな時間までバスケなんかしなきゃいけねーんだし。

「ほんとにってなにー? さっちん」
「えーっと、青峰くんが『今日は紫原も自主練してるらしいぜ』って言ってたから、気になって覗きに来ちゃった」

 珍しいなあって思って。そう言ってさっちんは、入口の段差を乗り越えてこっちの方に歩いてきた。ゴールの前に縦に並べた七本の赤いコーンを見下ろして、首をかしげる。

「ムッくん、一人で練習してるの?」
「んーん、そのうち赤ちんが来るよ。つーか、赤ちんがやれって言ったからやってるだけだし」

 持っていたボールを、ゴールにひょいと投げる。当たり前にネットをくぐり抜けて床に落ちたそれを見て、はあーっ、と溜息が出た。

「あーあ、めんどくさー。自主練とかマジありえねえ」

「峰ちんとかミドチンとか、ほんとよくやるよねー」とかオレがつぶやいてる間、さっちんはなんでか知らないけどにこにこしていた。ゴールから一番遠いコーンの隣に立って、そのてっぺんを指でつっついている。

「でも、ムッくんもこうして練習してるじゃない」
「だからー、それは赤ちんが言ったから、」
「赤司くんの指示だからって、別に知らんぷりすることだってできちゃうでしょ? でも、ムッくんはそうしなかったんだよね」

 転がったボールを拾い上げながらオレは、鼻の奥がむずむずするような、謎の感覚にイライラしていた。なんか、あんまり楽しくないことを言われそうな気がする。

「赤司くんのこと、信頼してるんだねー」

 いたずらっぽく笑って、さっちんがオレを見上げた。やっぱり。

「信頼ってなにー? オレは赤ちんの言うことだから聞いてるの。信頼とか、そんなんじゃねーし」
「でも、赤司くんの言うこと聞くのは、赤司くんのこと信じてるからでしょ?」
「だからー、信じてるとかじゃなくて、赤ちんだからだってば」

 いくらオレが説明したところで、さっちんは「わけわかんない」って顔できょとんとしてるだけだった。つい「ヒネリつぶすよ」なんて言っちゃいそうになるけど、やめとく。さっちんは冗談だって分からないで、真に受けそうだから。
 手の中のボールを一回バウンドさせて、またキャッチした。その間に、代わりの言葉を探して。

「てゆーかさっちん、マジでオレのこと見にきただけなのー?」
「あっ、そうだった。ムッくんにね、差し入れ持ってきたの」

 さっちんは頭の後ろで一本に結んだ髪をぶらぶらさせて、スカートのポケットに手を入れた。そこでオレは初めて、さっちんのもう片方の手――左手に、飲み物の缶が握られてることに気づく。

「じゃーん! まいう棒のいかすみパスタ味!」
「わー。なに、くれんのー? ありがとー」

 さっきコンビニ行って買ってきたんだー、ムッくんこの味が一番好きだって言ってたもんね、とさっちんが手渡してくれる。オレはお礼に、さっちんの頭を撫でてあげた。さっちんは「わっ」とびっくりしたような声をあげただけで、黒ちんみたいにいやそうな顔はしなかった。

「あ、でもあとで食べてね。ミドリンとかに見つかったら怒られちゃうもん」
「んー、分かった」

 そのやりとりが終わると、さっちんは壁際によけた。まいう棒をハーフパンツのポケットにしまったオレは自主練を再開。コーンの間を、ドリブルしながらジグザグに走って最後にシュート。チョー基礎中の基礎な練習だけど、赤ちんがやれって言ったんだからしょーがない。バッカじゃねーの、めんどくさい、ただでさえ練習なんか嫌いなのに今更こんなのやる意味あんの、ラクショーだし、とか思いつつ我慢して、やる。その間さっちんは、ゴールからちょっと離れた位置で壁に寄りかかって、オレの練習を見学していた。いつものさっちんなら、その視線の先に置いているのは峰ちんと黄瀬ちんの1on1なのに、今はオレ。なんか、変な感じ。そわそわする。
 体育館には、オレが身を翻すたびに鳴るバッシュの音と、ボールの音、オレの息遣いだけが響いていた。髪の毛の中から湧き出た汗の粒が、こめかみから顎にかけて縦断して、そのまま床に落っこちる。もうすぐ六月、体育館の中はすでにもわんと暑い。何往復かしたあと両手ダンクを叩き込んで、思いっきり息を吐き出したオレに、さっちんは相変わらず笑ったままで歓声をあげた。

「やっぱりムッくんのパワーとフィジカルはすごいなあ。青峰くんだって敵わないかも」

 その一言だけで、あーさっちんは分かってるんだ、と察した。赤ちんがオレにこんな練習をさせている理由――つまり、オレに何が足りてないのか。パワーとフィジカルはあっても、スピードに少し課題があるって赤ちんは指摘した。あと、試合の後半になると動きが多少おおざっぱになる、とも。そんなことねーし、と反論したかったけど、まったく自覚がなかったわけじゃないっつーか、そこまで鈍感バカじゃないからこうして赤ちんの言う通り練習してるってわけ、渋々だけど。

「当たり前だし。つーか、オレに勝てるやつなんていんのー?」

 コーンの間をぐにゃぐにゃ動くことで、基本のドリブルに慣れてスピードを上げる。同時にそれは、体のでかいオレが細かい動きをする訓練にもなって、試合を全うできるような忍耐力もつく――とか、そんな感じ? スピードならシャトルランとかの方が効果ありそうだけど、それは部活時間にやってるからとりあえずいいのかなー? まあ、赤ちんの考えてることなんて、全部は分かんない。

「どうだろ。でもこれでもっとスピードがついたら、ムッくんはもっとすごい選手になるねー」

「って、ごめん。邪魔しちゃった!」とさっちんはオレに練習するよう促したけど、オレの頭の隅っこにはさっちんの言葉と嬉しそうな顔がこびりついて、取れなくなった。それはオレをイライラさせる類いのやつだったけど、今は「イライラ」より「理解不能」って感情の方が大きい。だってさっちんはマネージャーじゃん。所詮マネージャーなのに、選手のオレが嫌いだと思ってるバスケを、好きなの?
 そんなことを考え出したらさっきまでより全然集中できなくなって、オレは一旦ボールを抱えて、シャツの袖でおでこを拭いた。ドリンクでも飲もー、となにげなくさっちんの方を見て、瞬間、そこから目が離れなくなる。さっちんはちょっと下を向いて、唇の上で何かを動かしていた。たぶんあれは、リップ。

「ムッくん?」

 顔をあげたさっちんはオレがガン見してることに気づいたみたいで、不思議そうに首をひねった。なんとなく悪いことをしちゃった気分になって、ごまかす。

「さっちーん。それ、一口ちょうだい?」

 さっちんは左手の缶をほっぺたの横にまで持ち上げて、「これ?」と訊いてきた。

「飲みかけだし、もうぬるくなっちゃってるよ?」
「いーよ。喉乾いたの、なんでもいいから飲みたい」

 さっちんに近寄って、缶を受け取る。グレープフルーツジュースだった。口をつける前に「全部飲んじゃっていいよ」と言われる。うん、と答えた直後に「桃井?」という声が、オレの背後で聞こえた。赤ちんが来たみたいだった。

「赤司くん!」

 さっちんが赤ちんに駆け寄っていく。オレはその場にしゃがんで、壁にもたれた。ジュースを一口すすって、ん? と思う。なんかこれ、おかしくね?
 でも何がおかしいのかまでは分かんなくて、もう一口ジュースを飲んだ。そこでやっと、違和感の正体を見つける。グレープフルーツジュースなのに、なんかちょっと、桃っぽい味がするんだ、これ。
 峰ちんと黄瀬ちんがまだ1on1をやってる、今日はもう六戦目らしい、なんてことを話している赤ちんとさっちんを少し遠くに眺めながら、オレは桃味のもとがどこにあるのか探してみた。飲み口だった。なんで、と思う間に、オレはやっと答えに辿り着く。リップだ、さっちんの。照明に透かしてよくよく観察したら、飲み口の辺りに下唇の跡っぽいものがついていた。そこをそうっと、指先で拭ってみる。

「土曜日の練習試合の相手校のデータ、明日には持ってこられるようにするね」

 助かるよ、と相槌を打った赤ちんはほんのりと微笑んでいて、隣のさっちんも笑っていた。オレは缶を拭った指先を、舐めてみる。やっぱり、桃の味。
 そういえばさっちんの名字って、「桃井」だっけ。
 部活のことについてなんか楽しそうにしゃべっているさっちんに、もう一度目を向けてみた。やっぱ理解不能だし、変わってんねえ、なんて感想しか出てこない。試合に勝つたび選手より大袈裟に喜んでるのにも、全然共感できねーし。
 でも、さっちんがいつも体育館のはじっこに立って、オレたちのことをじいっと見つめているのは、まーいんじゃない、って思う。こうやってお菓子とかジュースとか、くれるわけだし。普通に優しいし。レモンの蜂蜜漬けはヤバいけど。

「紫原、やるぞ」

 ……なんてぐだぐだ考えてたら、ちょうどジュースを飲み終わったところで赤ちんに呼ばれた。さっちんは、今度はこっちと反対側の壁に佇んで、にっこりしている。もうすぐ全中予選だけど、本戦も順当に勝ち進んで二連覇したら、あんなもんじゃない、満開の笑顔で嬉しそうにするんだろうねえ――とか想像したら、めんどくさい練習に変わりはないけど、ほんのちょっと、ほんとにちょっとだけ、ご飯の粒くらいの大きさだけど、やる気が出た。
 立ち上がるとポケットの中のまいう棒が動いて、それは布地ごしに「オレはここにいるよ」って主張してるみたいだった。とりあえず明日、さっちんには何かお菓子をあげようと思う。チョコがいいかな、まいう棒をお返ししてあげようかな。もっと太っ腹に、ポテチ一袋とかいいかもしんない。うん、そうしよー。


up:2017.10.01