※順リコ要素あり
心臓にぽっかりと穴が開いたような、という比喩表現が、今のオレには似合うのだろう。
「なあなあ、間違ってたらワリィけど、赤司ってもしかして桃井のこと好きだったりしちゃう?」
練習後の体育館、床に寝転がりながら高尾くんはそう問うてきた。先程まで1on1をしていたオレたち以外館内からは人がはけ、そのためか高尾くんの声はよく通り、反響する。開放した鉄扉からはアブラゼミの鳴く声が侵入してオレの脳を押し、汗腺をますます拡げさせるかのようだった。
「どうしてそう思うんだい?」
ボールを脇に抱えたまま、大の字に寝そべっている高尾くんを見下ろして今度はこちらから問いかけた。首のタオルで口元を押さえている高尾くんはうなり、なんとなく、とつぶやく。
「でもオレのこういうカン、結構当たんだぜ?」
桃井の「女のカン」ってやつほどじゃねーだろうけど、と肘枕をしてオレを見上げた高尾くんに、背を向けてオレは「黙秘権を行使させてくれ」と言った。ずりぃっ、と叫んだ高尾くんを置いて体育館を出、屋外に設置された水道へと向かう。空は紺に一点桃色を落としたような色合いをしていて、かすかに星が瞬いていた。
水道の前には、見慣れた人影があった。つい一分ほど前の会話の、渦中の人だった。一本の街灯に照らされて、その後ろ姿はほのかに青白く浮かび上がっている。
「桃井」
「ひゃあっ」
背後から声をかけたら、桃井は制服の背中を震わせて、心底驚いたような反応を見せた。振り返った桃井の、手には洗浄途中のドリンクボトルが握られている。
「あ、赤司くんか。びっくりしたあ」
「すまない。驚かせてしまったね」
「ううん、私が大袈裟だっただけだよ」
えへへ、と微笑んだ桃井を前に、オレは高尾くんの発言を反芻していた。赤司ってもしかして桃井のこと好きだったりしちゃう?
好き、とは何か。オレにとってまだそれは判然としないが、こうして桃井の隣にいると心臓の、空洞部分がひたひたと埋められていくような感覚がある。
「1on1は終わったの?」
「ああ。オレの勝ちだ」
「あはは、さすが赤司くん」
みんなはマジバに行ったよ、と教えてくれた桃井の、手からスポンジとボトルを取り上げた。「休んだ方がいいよ!」と勧めてきた桃井の言葉を「問題ない」の一言で封じて、オレはボトルの中に腕を突き入れる。そのうちに諦めたらしい桃井は、洗剤をのせたバスケットから別のスポンジを取り出して水に浸した。
「なんか、こうやって二人で話すの久しぶりだね」
水しぶきが、街灯に反射されて澄明な光の粒となり桃井の横顔にかかっている。桃井はわずかに、はにかんでいた。
「ああ、そうだね」
「絶対勝とうね、試合」
「心配ないさ。VORPAL SWORDSは強い」
「ふふ、赤司くんが言うと説得力あるよ」
水のにおいが、湿気を含んだ風にのって鼻腔に入る。桃井の、少し伸びたらしい髪は揺れていた。
思い出すのは、中学の部室だ。主将とマネージャーとして、桃井のデータやオレ個人で収集し研究した情報をもとにスカウティングを行なっていた。二人きりの部室にいる桃井は、普段の華やいだ雰囲気とは一変してある種の冷酷ささえ湛えた真剣な表情をしている。彼女の分析は常に的確かつ最善の策を提示してくれ、オレたち選手は幾度となくそれに助けられていた。二年の全中、決勝戦も桃井のデータが相手校攻略のきっかけとなったし、大なり小なり、帝光の勝利の裏に彼女の存在があったことは否定すべからざる事実だ。
「また、みんなでバスケするんだね」
ささめきに近い声で紡がれた言葉は、濡れていた。スポンジから視線を移すと、桃井の頬を水滴が伝っていった。
「桃井?」
動転して、声が少し裏返ってしまう。「ごめん」と口走った桃井は、オレから顔を背けて洟をすすった。
「なんか最近涙もろくってダメなんだ。もう歳かも」
あえて茶化そうとする桃井の態度を、痛々しいというよりはむしろ健気に感じた。手を伸ばそうとして、ためらう。顫動する桃井の背中を、オレはただ見つめた。
桃井ほど、オレたちを思ってくれる人間はいない。
では、桃井は? 桃井は誰に、思われているのだろうか。オレたちは桃井に、返すことができているのだろうか。
「……大丈夫だ」
方法など、一つしか思いつかない。勝つこと。
「百戦百勝を達成し続けてきたオレたちだ。負けはしない」
ゆっくりと振り向いた桃井は丸く目を見開いていて、それから破顔した。
「赤司くん、鼻に泡ついてる」
ほとびた桃井の指先がオレの鼻の頭にふれて、瞬間、オレの手からボトルが落下した。こん、とコンクリートとプラスチックが激突する音が響き、Tシャツの中で汗が滑り落ちる。とっさに鼻を覆ったオレに、桃井は驚愕の眼差しを向けてきた。
「ご、ごめん、そんなにびっくりすると思わなくて……」
頬が熱くなる。「こちらこそすまない」とまくしたて、オレはボトルを拾った。付着してしまった砂利を洗い流しながら、桃井の顔を見ることができなかった。何をこんなに、動揺する必要があるのか。
「いてててっ、いってえよ!」
その時、オレと桃井の間に横たわる微妙な空気を破るようにして、叫び声が聞こえてきた。何事かと、思わず桃井と顔を見合わせて確認に向かう。体育館の入口脇、ベンチにうつぶせた男性と、その男性の体を曲げ伸ばしする女性がいた。誠凛の日向さんと相田さんだった。顔を伏せている日向さんとこちらに背を向けている相田さんは、オレたちに気がつかない。
「ったく、もっと優しくしてくれって毎回言ってんだろが。あーいってえ」
「甘っちょろいこと言ってんじゃないわよ。控えだからって試合に出る可能性は充分あるんだからね!」
「ンなこと分かってっけどよ……」
相田さんに体の一点をマッサージされるたび、日向さんは悲鳴をあげている。
「いってー! おいリコ!」
「騒ぐ余裕があるならまだまだいけるわね」
「いけねえよ!」
「ちょっと、動いちゃダメでしょうが。まったく、少しはおとなしくしてなさいよね、順平」
オレのシャツの裾を引いて、桃井が退散を促してきた。どこか満足気に笑っている桃井に従って、水道まで引き返す。
「お二人は何か特別な関係にあるようだね」
「そうだよー。リコさんは認めてないけどぉ、絶対そう!」
桃井はそこで夢見るように手を組み、片頬につけた。
「いいなぁ……私も好きな人と一緒に過ごしてみたい!」
水を切ったボトルをカゴに収めながら、オレは苦笑した。空想に心を奪われた桃井は瞳をとろけるように滲ませて、独り言を言ったり身悶えたりしている。その、桃井の空想の世界で彼女に寄り添っているのは、一体どんな人間なのだろう。黒子? 青峰か。
心臓が、疼く。空洞部分が拡張する。吐き気に似た感覚がせり上がってきて、オレはようやく、直覚した。確信はないがおそらく、この気持ちこそが。
「桃井」
呼びかけて、手を取ったら桃井はこの場へ帰ってきてくれた。誰か他の男とともにいたかもしれない空想から、オレとともにいるこの場へ。
不意に繋がれてしまった手を見下ろして、桃井はわずかばかり、首をかしげた。
「赤司くん?」
握った手を、オレの心臓部の真上に押し当てた。わっ、と桃井が声をあげる。
「すっごい速い。赤司くんどっか悪いの? 大丈夫?」
あたふたと狼狽して桃井がオレを覗き込むものだから、オレは肩をすくめてしまった。的外れな心配ではあるが、でも完全に誤っているわけではないのかもしれない。
自覚した途端に湧いてくる、貪婪なまでの欲求と衝動。それは獣欲と紙一重で、手に入れない限り、もしくは手に入れても、永久に消失しない類いの本能なのだろう。ある種の病だ。醜悪だが、卑小な理性単独で打ち殺すにはあまりにも、強大すぎる。
頭の中の高尾くんが、「やっぱオレの言った通りだったっしょ?」としたり顔を浮かべていた。
「――桃井にふれているからだよ、これは」
途端、アブラゼミが鳴きやんで、風が凪いだ。日向さんたちの気配はもうない。静謐な、夏の夜が襲ってくる。
「桃井の力だ」
こめかみに一筋、疼痛が走った。オレは今、この上なく情けない表情をしているのではないだろうか。眉が寄り、目頭に熱がともる。
「それって、」
そこで言葉を途切らせた桃井が、うつむいた。再び顔をあげた彼女の、頬には赤みが差している。
「君に、恋しているということだよ」
告白した刹那、オレの心臓は破裂寸前まで膨張した。血液よりも遥かに熱い何かがあふれて波打ち、自分は桃井に懸想しているのだと、思い知らされる。
桃井は赤面したまま、ただオレを見つめていた。放心した様子の彼女の手をさらに強く握って、自分の胸に押しつける。
「オレは桃井の『好きな人』に、なれると思うかい?」
蝉時雨が戻り、オレは桃井の手をそっと解放した。自らが投げかけた質問の、途方もない脆弱さにほとほと呆れてしまう。「なれる」のではなく「なる」、いや「させる」くらいでなければ、きっと足りないのだ。
「突然すまなかった。忘れてくれないか」
ボトルを収めたカゴを、掴もうとしてオレの手首は先に捕まった。下を向いた桃井の、前髪は垂れて顔を隠している。
「それ、何に謝ってるの?」
低い、声音だった。少なからず怒りを孕んでいるようだった。
「……桃井を好きだと思ったこと、と言ったら?」
「怒る」
「じゃあ、告白してしまったこと」
どっちにしろ怒るよっ、とオレを睨んだ桃井はふてくされていた。顔を真っ赤にして、涙目になっていた。
「赤司くんはなんでも分かってるのかもしれないけど、でも、聞いてくれないの? 私の気持ち」
捕らわれた手首に、きゅ、と力が込められて、オレは蕩揺した。そんなことを懇願されるとは思ってもみず、半ば気圧されながらも「聞かせてくれるなら」と返事する。瞬間、手首を引っ張られて前屈みになったオレの頬に、桃井の唇がふれた。
唖然とするオレに向かって、早口で桃井は告げる。
「こ、これが私の気持ちっ」
頬骨の上に一点、やわらかい感触が残っていた。指先でそこを確かめながら、オレは呆然と、つぶやく。
「……泡?」
そんなわけないでしょっ、と桃井が目を吊り上げた。それから溜息を吐いて、言った。
「もう。赤司くんって結構臆病なんだね」
「臆病?」
「そうだよ。慣れてないのかな、感情をぶつけるってことに」
片手を腰に当てた桃井が、人差し指でオレの鼻先をつついた。
「私にくらい、ほしいものはほしいって言ったり、いやなものはいやって言ったりしたっていいんだよ」
母親みたいな説教をして胸を張る桃井がおかしく、オレは笑ってしまった。見咎めた桃井に怒られてしまう前に、彼女の上腕を引いて懐へと招く。
「じゃあ桃井がほしいな、オレは」
耳元で伝えると、先程から赤面したままの桃井が、もう、と唇を尖らせた。
「ずるいよ、赤司くん!」
「けしかけたのは桃井だよ」
「そうだけどっ」
オレの肩口に額をつけた桃井の、体温にオレは安心した。心臓にずっと開いていた、風穴のようなものが一気に塞がっていく感覚があって、こんな気持ちを「満たされる」と呼ぶのかもしれない、と思う。
「赤司くんに追いつけるような女の子になれるかな、私」
「桃井のためなら、堕ちたって構わないさ」
「ダメだよ。そんなの私がいや」
遠くの方から、黄瀬たちのにぎやかな声が迫ってきた。あいつらに見つかってしまわぬうちに、と、オレは囁く。
「これからは、同じ時間を過ごそう」
桃井が、うなずいた。桃井にとっての「男」がオレだけになる。空想の中でも、現実でも。
オレたちが、じゃない。オレが想えばいいのだ。桃井のことを、いくらでも。
とことん利己的で、時に自制すらきかなくなる煩わしいばかりのこの「感情」を、でもいとおしいとオレは思った。
up:2017.12.07