series | ナノ

 青峰くんの放ったシュートがゴールネットを一閃した直後、試合終了のブザーが鳴った。ユニフォームで汗を拭っている青峰くんの背中を、桐皇のSGの方(確か桜井さん)が追い抜きざまにぽんと叩いていく。整列して挨拶を終えたあと、主将さんとなにやら口論を始めたらしい青峰くんを二階のギャラリーから見下ろして、ボクは少し、口元がゆるんでしまった。

「テーツくーん!」

 後片付けやミーティングが終わって、自主練習の時間が始まったらしい。部外者であるボクは体育館の外に出ておいた方がよいのだろうか、と逡巡しているうちに桃井さんがギャラリーまであがってきて、ボクに手を振った。そのままこちらまで駆け寄って来、ボクの肩に思いきりタックルする。それをどうにか受け止めて、ボクは桃井さんと向かい合った。

「こんにちは、桃井さん」
「テツくん久しぶり! って、あれ、そんなに久しぶりじゃないかな? 最後に会ったのいつだっけ?」
「ボクの誕生日です」

 まだ一ヶ月経ってなかったね、と桃井さんが頭の後ろに手を置いた。あはは、と苦笑いした桃井さんは、でも突然何かに思い当たったような表情になって、制服を着ているボクを上から下から凝視する。そうして最後に、ボクの首元に視線を固定した。

「テテテテツくんっ、そのマフラー……!」

 ああ、とボクは、体をしっかりと温めてくれているマフラーにふれた。もこもこと優しい感触のマフラー、これはボクの誕生日に桃井さんがくれた、手作りのものだ。

「とても温かくて、毎日助かってます」

 少し口元をうずめながら答えると、桃井さんは顔を真っ赤にして、めまいをこらえるようにギャラリーの柵にしがみついた。パーカーの袖で口を隠して、「死んじゃうかも……!」とつぶやいている。

「あ、そうだ。どうだった? 今日の練習試合で、何かヒント見つかったかな?」

 柵に寄りかかったまま、桃井さんがボクに問うた。
 今日、ボクは桐皇学園の練習試合の見学に赴いてきたわけだけど、目的は桃井さんの言った通り、ヒントを見つけるためだった。WC、ミスディレクション・オーバーフローで試合に勝利したはいいものの、桐皇との対戦はもちろんあれきりじゃない。今後桐皇とぶつかってもミスディレクションは通用せず、かと言って無策で試合に臨むなんてできるはずもないから、今日はこうして桃井さんにお願いして、練習試合を見学させてもらうことになったのだ。桐皇を倒すための、ある意味では偵察も兼ねているのに、桃井さんは快く同意してくださった。それは桃井さんが親切な方だから、というだけの理由ではなく、おそらく自信があるんだろうと思う、桐皇学園というチームに。WCでだって、青峰くんの実力と桃井さんのデータ、チームの皆さんのプレーにこちらが打ち勝つには、ミスディレクションを捨てるしか方法がなかったのだから。

「確実なものは、残念ながらまだ見つかっていません」

 柵に手を置いて、ボクはコートを一望した。体育館にはたくさんの部員の方々が居残って、それぞれ自主練習に取り組んでいる。

「ですが必ず、見つけます」

 桃井さんと、目を合わせて宣言した。桃井さんは少しく眉をさげて笑って、受けて立つよ、と声をはずませた。

「おい青峰ェ!」

 不意に、怒鳴り声が響いて目を向けると、ステージの脇で青峰くんと主将さんが対峙していた。スキール音やボールが床をつく音の後ろで青峰くんに何か怒っているらしい主将さんのことを、当の青峰くんは全く無視してドリンクを飲んでいる。

「あれ、大丈夫なんですか?」
「うーん、まあいつものことだから……って言ったら、若松さんに失礼だけど」

 ほんっと大ちゃんって態度がなってないの、と溜息を吐いている桃井さんの言葉は、確かに事実らしい。青峰くんたちの周りにいる部員の方々は特に二人を仲裁するでもなく、黙々と練習を続行していた。唯一間を取り持とうとしている桜井さんは、二人ともにいないものとして扱われてしまっている。

「なんだか、にぎやかですね」

 少し意外に思いながら感想を述べると、桃井さんは「そうだね」と肩をすくめた。

「あれも一応、コミュニケーションの一つだから。何も話さないよりマシかなあって」

 頬杖をついて瞳を細めている桃井さんの、唇は何かとてもいとおしいものを目の前にした時のようにカーブを描いていた。高窓からの日光が彼女の髪に落ちて、空気中に舞うほこりの粒をきらめかせている。ボクは一つまばたきをして、桃井さんの穏やかな視線の先にいるのが青峰くんであることを、強く意識した。
 桃井さんの、一番はやはり青峰くんなんだろう。
 胸の奥底が、ちりりと焦げた気がした。

「あ、こっち見た」

 桃井さんの発言を合図に再びステージの方へ目をやると、ドリンクボトルの飲み口を咥えたままの青峰くんが、こちらを見上げていた。ボトルを投げ出して、自主練習が行われている体育館のど真ん中を突っ切った青峰くんは、あっというまにボクと桃井さんのもとにまでやってくる。

「よう、テツ」
「……どうも」

 桃井さんのマフラーを着けて青峰くんの前に立っていることに、気恥ずかしさとほんの少しの優越感を覚えてしまって、そんな自分に動揺したボクはつい目をそらしてしまった。青峰くんは特に気にした様子もなく、ユニフォームから伸びた腕をほぐしている。

「で? なんか分かったのかよ」

 柵に背をもたせて、そう訊いてきた。「まだです」と正直に回答すると、青峰くんは、はっ、と笑う。

「ちゃんとまた、楽しませてくれよ?」

 はい、とボクが返事をする前に桃井さんが「もーう!」と叫んで、青峰くんを叩いた。

「なんでそんな偉そうなのよ、負けたくせに!」
「うっせえな! 一勝一敗だろが、ドローだドロー! つかオレが負けたってこたァお前も負けてんじゃねえか!」
「そうよ! だから毎日毎日必死に対策練ってるんじゃない!」

 中学時代に何度も繰り広げられていたお二人の喧嘩が、今また目の前で始まってしまった。どうするべきでしょうか、なんて頬を掻いていると、桃井さんにぐいっと腕を絡め取られてしまう。

「せっかくテツくんと二人っきりだったんだから、早くどっか行ってよ!」

 べえ、と舌を出した桃井さんを見てこめかみに一瞬青筋を立てさせた青峰くんは、だけどすぐに呆れたような顔つきになって息を吐き出した。頭を掻いて「あーそうかよ」とうなる。それからじっと、ボクを見た。ただ単に「見る」んじゃなく、何かを吟味するような意味合いのこもった目線だった。そのあとで身を翻して、言う。

「……さつきんことちゃんと送ってやれよ、テツ」

 背中越しに手を振って去っていく青峰くんを、呆然としてボクは見送っていた。「自分はいっつも先に帰っちゃうくせにっ」なんて桃井さんの抗議も、そこを最後に、ボクの意識から完全にシャットアウトされてしまう。残ったのは、たった一つの疑惑だけだった。
 見透か、された?
 その可能性に思い至ると、図らずも脱力してしまった。とっさに柵を掴んではみたものの、ボクはその場にしゃがみ込んで、下を向いてしまう。桃井さんがすぐに「大丈夫!?」と気遣ってくれたけれど、ボクはまともに返答ができなかった。

「野性のカンですか……」

 普段は全然、関心なさそうにしているくせに。桃井さんなんかまだ、これっぽっちも気づいていないのに。

「テ、テツくん? どうしたの? ほんとに大丈夫?」

 いたわるようにボクの肩にふれた桃井さんの、手首を掴んで引き寄せた。ひゃあっ、と桃井さんは声をあげて、互いの距離がほとんどゼロになる。文字通り目と鼻の先にある桃井さんを見つめながら、ボクは言った。

「ちゃんと、送りますから」

 熱を出した子どものように顔を赤らめている桃井さんは、かくかくと無言で何度もうなずいた。「あ、でも、みんなが自主練終わるまで残ってなきゃだからいつ帰れるか分かんないかも」と挙動不審に目を泳がせている彼女がかわいらしく、ボクはたった一言、「ずっと待ってますよ」と答える。「テツくぅん……!」と感嘆してボクを抱きしめた桃井さんだったけど、ボクは彼女の背に回りかけた腕をおろして、なされるがままでいた。まだだ、まだ早い。
 結局、ボクと桃井さんが帰路についたのはそれから二時間後だった。傾き始めた太陽の中、並んで歩き出す。桃井さんは間を埋めるためかそれとも無意識か、ボクにずっと話題を振ってくれていて、ボクはそれに、下手くそに応答していた。もっとうまく立ち回れたらいいのに、なんてもどかしくなりながら、「緊張」という言葉を知らなそうな火神くんの顔を思い浮かべる。
 あっというまに、桃井さんの家に到着してしまった。

「じゃあテツくん、ありがとね」

 自然に上目遣いになっている桃井さんから、反射的に目を背けてボクは、はい、と声を絞り出した。門扉に手をかけた桃井さんを、「待ってください」と引き止める。

「あの、今日は本当にありがとうございました」

 頭をさげると、桃井さんは「全然だよぉ」と笑った。独特の、甘いような声で「テツくんに会えて嬉しかったし」と平気そうに告げる。ボクが、一々心乱されていることになんか、桃井さんは一切気づいていないのだろう。
 左隣の、家を見上げた。青峰くんのお宅だというそれは、桃井さんのお宅と寄り添って立っている、ように見える。
 でもその位置を、ボクはほしい。

「……負けたくありません、ボク」

 とても小さな声で紡いだ告白は、桃井さんには届かなかったようで「どうかした?」と首をかしげられてしまった。白い息を立ちのぼらせている桃井さんを、今度はしっかりと見据えて、ボクは告げる。

「青峰くんには、負けたくないんです」

 きょとん、と目を丸くした桃井さんとボクの間を、やわい寒風が通り抜けていった。揺れた前髪の下で、桃井さんは「うちだって負けないよ」と澄まし顔を作る。

「そうじゃありません」

 思いがけず強い口調になってしまって、自分でも驚いたけれど後には引けなかった。鞄の柄を握りしめて、続ける。

「ボクは青峰くんみたいにはなれません。青峰くんほど桃井さんのことを分からないし、そばにいられるわけでもない」

 でも、そんなことで。桃井さんの一番がボクではなく青峰くんだという、ただそれだけのことで。

「――ですが、諦めるのは絶対にいやなんです」

 このマフラーの長さのぶんだけ、少なくとも桃井さんはボクを思ってくれた。その事実が、ボクを後押ししてくれる。だから、逃げたりはしない。

「ボクは、桃井さんを好きだから」

 言った、と思った。好意を伝えるという行動は自分の心の中の、最も開けっぴろげで無防備な部分を曝すことに等しいように思えて、遅れて羞恥が噴き出してくる。一度うつむいて、でも意を決して顔をあげたら、桃井さんは棒立ちになっていた。

「え? あの、えええっと、私も好きだよ? テツくんが大事な人なのは、私も同じだもん」

 困惑と驚愕、少しの照れを含んだような表情で、桃井さんは髪にふれたりスカートを引っ張ったり、落ち着きをなくした。返ってきた言葉に違和感があって、ボクは眉をひそめる。

「……あの、さっきの僕の言葉、どんなふうに解釈しましたか?」
「え、あれ? 仲間として好きってことだよね? せ、誠凛のみんなと、同じくらい」

「って、ごめん、おこがましかったかな!?」と混乱している桃井さんに、ボクは呆れるような、拍子抜けするような感覚に落とされていた。そんな解釈、一体どこから出てきたんですか。

「違いますよ」

 一歩、桃井さんに歩み寄ったら、彼女は全身を固くさせた。瞳を潤ませて、頬は相変わらず紅色をさせて。

「隣にいてほしいと言ったんです。ボクは、桃井さんに」

 体がほてる。もしかしたらボクの顔は今、桃井さんのことをとやかく言えないくらいにゆだっているのかもしれない。二月の冷えきった空気が、むしろ心地よいくらいだった。
 桃井さんは沈黙していた。実際はどうだったか分からないけれど、体感的には一分も二分も、いやもっと長く感じられて、ボクは自然こぶしを握っていた。もどかしい、ふれたい。でも桃井さんには、やはり青峰くんなんだろうか……と絶望に似た落胆が胸に生まれた直後、桃井さんがボクに飛び込んできた。その勢いで、発生したばかりの失望がはじける。

「ほんと?」

 ボクの腰にしっかりと腕を回して桃井さんが言った、声は震えていた。ボクの胸に顔をうずめる桃井さんの、頭に怖々、手を乗せてみる。

「こんなうそをつけるほど、勇気なんてありません」

 桃井さんの香りとか、体温とか、中学時代と何も変わっていない。ボクにだって分かる桃井さんがいる、それはとてつもなく心強いことだった。その上、今この瞬間の桃井さんのことはたった一人、ボクしか知らない。それだけあればきっと、青峰くんにも立ち向かっていける。

「――私も」

 ボクを射抜いた桃井さんの、目尻にぽっと涙が湧いた。玉になって頬を濡らして、顎先まで滑り落ちていく。

「私も、テツくんが好き。ずっと前から、ずっと好きっ」

 思いきり抱きしめたら、桃井さんも返してくれた。ちょっと苦しい、と涙声で笑った桃井さんを、でもボクは放さない。だってボクは影が薄いから、全身全霊でもって刻みつけないと、見失われてしまう。

「夢みたい……」
「こんなに痛くしてるのに、信じられないんですか?」
「……ううん、信じる」

 視線を絡ませて、笑ったら桃井さんが「み、見ないで!」と顔を背けた。洟をすすっていて、そんな些細なことに恥じらう桃井さんを、かわいい、と思う。

「大ちゃんに言ったら、きっとびっくりするね」

 えへへ、とはにかんだ桃井さんに、ボクはほんの少しだけむっとしてしまった。せめて今日が終わるまでは、ボクだけのことを考えていてほしい。こんなわがままを抱いてしまうのも、桃井さんが好きだからなんだろう。

「桃井さん。このことは、しばらく誰にも言わないでおきませんか?」

 不思議そうにした桃井さんに、ボクはお願いする。

「二人だけの秘密がほしいんです」

 ダメですか?
 桃井さんはきっと断らない。そんな確信とともにずるい問いを投げかけて、案の定桃井さんはぶんぶんとかぶりを振った。ボクはそっと、小指を差し出す。

「約束です」

 桃井さんの細い指先がボクのものと、きゅ、と結ばれて、そのあっけなさと熱さとやわらかさを、壊したくない、とボクは思った。


up:2017.12.06