series | ナノ

 制汗剤の、すうっとしたにおいがした。春休み合宿の帰りの、バスの中だった。

「ミドリン?」

 びゅんびゅんと移り変わっていく窓の外の景色を眺めていたら、ふっと、右の肩に何か重みを感じて、目を向けたらミドリンが私にもたれていた。首筋にミドリンの髪先がこすれて、痒くなる。そうっと覗き込んだらミドリンは目を閉じていて、長いまつげがほっぺたに影を作っていた。どうやら、眠っちゃったみたい。
 なんとなく視線を感じて顔をあげたら、通路を挟んで向こう側に座っている赤司くんと目が合った。口元にグーを添えて、くす、と微笑む。私はちょっと苦笑気味に、微笑み返した。
 三泊四日の高原合宿の帰り道だっていうのに、一軍のバスの中は修学旅行初日の、目的地へ向かう途中みたいににぎやかだった。運転席のすぐ後ろには監督やコーチが座っていて、その後ろの列に虹村先輩や赤司くん、ミドリンと私が並んで座っている。後ろに行けば行くほど騒がしいメンバーが集まっている、その最後部の座席では、青峰くんがげらげらと笑っていた。たぶんまた黒子くんと何か話してるんだろうけど、内容までは聞こえてこない。ムッくんは虹村先輩の後ろで、半分寝ながらもお菓子を食べていた。

「おいオメーら、少し静かにしろ」

 主将の一喝も、一時的には効果があるけれど、またすぐにやかましさが戻ってきてしまって事態は変わらなかった。今ではもう虹村先輩も諦めてしまって、腕組みをして窓に頭をくっつけている。疲れているのに眠れなくてイライラしているのか、眉間にものすごく深いしわが寄っていた。
 自分の肩に置かれている頭へ、私は視線を戻した。寝息すら立てずに熟睡しているミドリンは、誰よりも神経質そうに見えて実は図太いのかもしれない。それか、よっぽど疲れちゃったのか。そういえばミドリンはラッキーアイテム探しだって言って、朝から一番にロードワークに出かけていた気がする(ちなみに今日のラッキーアイテムは「乳白色の石ころ」だったらしい)。居眠りに落ちちゃってもラッキーアイテムはかたくなに握ったままでいるミドリンが、ちょっと面白かった。

「なんだ緑間、寝てんのか」
「ひゃあっ」

 ほっこりしながらミドリンの寝顔を見つめていた私の、頭上から声が降ってきてびっくりした。ジャージの上着を腰にくくりつけた青峰くんが、でけえ声出すな、と耳の穴に指を突っ込む。

「ちょっ、青峰くん危ないよ! ちゃんと座ってシートベルトして!」
「ンなの平気平気」
「平気じゃない!」

 能天気でおバカな青峰くんを叱り飛ばしていたら、ついつい今自分の肩の上に乗っかっている重さのことを忘れてしまっていた。慌てて確認したけれど、ミドリンはまだぐっすりで、私はほっと息を吐く。
 腕を組んだ青峰くんは、腰を折り曲げてミドリンの顔を左右から観察していた。

「へー、緑間の寝顔ってマヌケづらだな」
「マヌケづらって……青峰くんにだけは言われたくないと思うんだけど」
「ンだとコラ!」
「ほんとのこと言っただけだもーん」

「ていうかもう何回も合宿してるのに寝顔見たの初めてなの?」と訊いたら、ミドリンはいつも掛布団を頭から被って寝るらしい、青峰くんがうるさすぎて。呆れた。

「そうだ、落書きしてやろーぜ落書き。うおーいテツ、お前サインペンかなんか持ってねえ?」

 とんでもないことを提案して黒子くんの方へ声を張り上げた青峰くんから、守るように私はミドリンの頭を抱き寄せた。

「絶対ダメ! 青峰くんの好きなようにはさせないんだからっ」
「はあ? いいだろ別に。こいついっつもしかめっつらしててつまんねーんだよ」
「青峰くんがそういう顔させてるんでしょ!」

 しばらく「落書きさせろ」「やだ」の攻防を繰り広げていた私たちを、仲裁してくれたのは赤司くんだった。さっさと席に戻れ、というその一言だけで、青峰くんは渋々だけど引きさがっていく。こういうのを「鶴の一声」って言うのかもしれない、なんて思いながら、私は会釈だけで赤司くんにお礼した。
 バスは山道を抜けて、やがて高速道路に入った。さっきまでの上下するような揺れがなくなって、私はミドリンの寝顔をじっと観察する。眼鏡や鼻の部分が夕日に照らされて、顔に陰影をつけていた。橙色に染められて、なのに肌は透き通るように白い。唇まで、ちょっと白い。かすかな寝息が、バスの走行音の下から聞こえてくる。
 綺麗、なんだなあ。
 ちょっぴり、どきどきする。そういえばこんなに近くにミドリンがいるなんて初めてかも、なんて気がついた一瞬のあと、ん、とミドリンがうなった。ゆっくりとまぶたが持ち上がる。

「おはよ、ミドリン」

 声をかけたら、ミドリンは何回かぱちぱちとまばたきをして、そこでやっと自分の状況を把握したらしく、頭を起こした。

「寝ていたのか」

 眼鏡を取って眉間をつまんでいるミドリンがおかしくて、私は噴き出した。ミドリンはちょっと不服そうに唇を歪めたけれど、すぐに目をそらして「迷惑をかけたな」と早口でつぶやいた。

「全然気にしてないよぉ」

 眼鏡をかけ直したミドリンに、「いい夢見れた?」なんて訊いてみた。ミドリンは少し考え込むようなそぶりを見せたあとで、口を開いた。

「自分の夢、を見たのだよ」
「自分の夢?」
「オレはスリーが百発百中なのだ、どこからでも」

 私が首をかしげると、ミドリンは説明してくれた。

「つまり、自陣のゴール下から打ったスリーでも、相手チームのゴールにシュートを決められる、ということなのだよ」

 ええ!? と思わず身を乗り出してしまった私に、ミドリンはちょっとびくついてから「耳元で叫ぶな!」と叱った。

「ででででも、確かコートって……」
「二十八メートルだな。ゴール同士はもう少し近くなるが」

 淡々と答えたミドリンは前を向いたまま、ふう、と息を吐き出した。

「まあ、夢の話なのだよ」

 そう言ったミドリンは、夢は夢、と割りきっているように見えて、でもどことなく未練を残しているような感じもした。夢の中の自分に、憧れ……なんてそんな華やかで甘やかなものじゃないかもしれないけど、でもそれに近い感情を、抱いているような感じがした。ミドリンはいつだってなんにだって努力をかかさないけれど、同時に目の前の現実にもきちんと向き合っている人だから、こんなふうに純粋に何かに焦がれている姿を見せるのは、初めてのことかもしれない。
 なんだか今日は初めてづくしだなあ、なんて思いながら、私は言った。

「できちゃうかも、ミドリンなら」

 ほんの少し目を見開いたミドリンが、私に横目を向ける。

「えっと、なんだっけ、『キセキの世代』だっけ? そう呼ばれてるよねみんな。ミドリンも」

 今年の全中のあと、月バスを読んだらそんなふうな見出しがついていて、びっくりしたことを覚えている。だって私の目の前で笑ったり遊んだり部活したりしている子たちが、「キセキ」なんて呼ばれてるんだもん。

「ミドリンはそれだけすごいんだよ。だから他のみんなができないようなことだって、きっとできるんじゃないかな」

 言っちゃったあとで、あ、無責任な台詞だったかも、って焦って頬を掻いていたら、隣のミドリンが鼻を鳴らした。

「オレは人事を怠らない。結果はいずれ、ついてくるのだよ」

 そう言ったミドリンの横顔がちょっと得意気で、私はまた噴き出しちゃいそうになったんだけど、寸前でこらえた。ミドリンに怒られちゃうからね。
 小難しそうなようでいて、分かりやすい。クールなようでいて、感情の波打ち方が結構激しい。そんなところがなんとなく「等身大」って感じがするから、かわいい、なんて思っちゃう。
 ミドリンって綺麗。ミドリンってかわいい。
 もっといろんなミドリンが、ミドリンの中にはいるのかな。

「ミードリンっ」

 私の方を見たミドリンに、苺チョコのコーティングされたプレッツェルを食べさせてあげた。突然口の中へと挿入されてしまったお菓子に、ミドリンがびくっと反応する。

「なっ、なにをするのだよっ」
「ふふー、一緒にお菓子食べようと思って」

 ミドリンによって一口ぶんだけ欠けたプレッチェルを、今度は私が食べた。金輪際やめろ、餌づけされている気分なのだよ、と喚いているミドリンなんか知らんぷりして、私はプレッチェルを食べ続ける。苺のにおいを嗅ぎつけてきたらしいムッくんに「オレも食べたーい」と目をこすりながらお願いされて、だからおすそわけしてあげた。その作業を仲介してくれた赤司くんが、瞳だけで「緑間をあまりからかわないでやってくれ」と私に語りかけてきたけれど、ごめんね、だってミドリンかわいいんだもん。

「えー、でもミドリンって甘いもの好きでしょ? よくおしるこ飲んでるし」
「それとこれとは話が別なのだよ!」
「細かいなあ」
「細かくない!」

 がみがみがみがみ、と続くミドリンのお小言は聞き流す。ミドリンはよくこうやって怒っているけれど、それでも周りの人たちを完全に拒んだりはしない。だから私も、なんにも恐れないでミドリンにアタックできる。

「しょうがないなあ。分かった、もうやらないよ」
「ぐ……鼻につく言い方だが仕方がない。許してやるのだよ」
「その代わり」

 とん、とミドリンの肩にもたれかかる。ついさっきまでミドリンが私に、そうしていたように。
 目を閉じたら、制汗剤の香りが濃くなった。

「私が起きるまで、動いちゃダメだからね」

 まぶたの裏に、夕日の熱が差す。ミドリンがあからさまに体を固めたのがくっついた頭越しに伝わってきて、ふふ、と自然に笑みがこぼれた。

「なっ。桃井、急に何をっ、」
「先にやったのはミドリンだもん。お返しくらいしてね」

 律儀なミドリンは、それだけで抵抗するのをやめてしまった。いい気分になった私はさらに一歩進んで、ミドリンの左手に私の右手を重ね合わせる。ぎゅっと手を組んでも、ミドリンは文句を言わなかった。

「おやすみ、ミドリン」

 ミドリンの手のひらがだんだんと、汗ばんで湿っぽくなっていく。緊張してくれているのかもしれない。さっきは私がどきっとさせられたんだから、これでおあいこだね。

「……ああ」

 うなるような、ミドリンの返事があった。理由は分からないけれど心地よくなって、私は本当に眠たくなる。
 二年生になっても、三年生になっても、こんなふうにミドリンと接していられたらいいのになあ、なんて望みが、ぽっと湧いてきた。そうしたらきっといつか、ミドリンの夢に出てきた「すごいスリーポイントを打つミドリン」を、見ることができると思うから。


up:2017.12.05