※ふわふわしてない紫原くん
中学校の近くにあるドーナツ屋が十二月の新作を出したって聞いて、放課後、寄ってみた。カボチャのにおいがする生地にチョコをコーティングしたっていうその新作は、普通のドーナツより甘くなかったけど、おいしかった。一緒に買ったチュロスとかベルリーナー・プファンクーヘンとか、もそもそと食べているオレはお菓子を目の前にしてるってのに、居心地が悪い。でも自分がものを食ってる姿をじっと人に見られてたら、誰だってそうなるでしょ。
オレの正面に、さっちんがいる。
「見てるだけでおなかいっぱいになりそう」
テーブルに両腕を寝かせて笑うさっちんから、逃げるようにオレは姿勢を斜め十五度くらい傾けていた。さっちんの前にはドーナツが二つとジュースだけが載ったトレーがあって、食べたいって思ったやつを片っ端から注文したオレのトレーと比べてすっきりしている。窓際の席に着いているオレたちだけど、今日は曇り空だからうっとうしい日差しもない。
いや、もっとうっとうしいものが、あるけど。
「いいから、早くどっか行ってよ」
オレが吐き捨てると、あからさまにさっちんは悲しそうな顔になった。ああ、うざい。
偶然だね。一人でドーナツを貪っていたオレに、さっちんはそうやって声をかけてきた。「ここ空いてる?」って疑問形で言ったくせに、オレの返事を聞かないうちからさっちんは勝手に座って、オレたちは相席になった。お店の中はそんなに広くないけど空席だってあったのに、そんなものさっちんの目には全く映っていないらしかった。
「またいっぱい食べてるねえ」
そう言って肩をすくめたさっちんのことを、白々しい、ってオレは思った。だってさっちんが今ここにいるのは絶対、偶然じゃない、ってオレは確信できたから。
でもさっちんは、オレが気づいてるってことに気づかないみたいで、ずっとオレの前ににこにこと居座り続けている。どんなにオレがいやそうな顔を作ってもめんどくさそうな態度を取っても、移動しようとするそぶりなんてこれっぽっちも見せない。
「そんなこと言わないでよー。誰かと一緒に食べた方がおいしいでしょ?」
むりやり笑って、さっちんがドーナツをかじった。
「オレはおいしくない」
即答したけど、今度は無視された。泣きそうな顔されるよりはマシだとはいっても、やっぱりムカつく。
力の加減を間違えたせいで、手の中のドーナツがぼろっと崩れた。舌打ちして、トレーに落っこちたかけらをつまんで口に入れる。その間さっちんは、黙ってジュースを飲んでいた。
イライラする。いつまで経っても本題に入らないで、むりやり普通に振る舞おうとしている、さっちんに。
「ねえ、オレになんか用があったんじゃないの」
だからオレは、自分から切り出した。ぴくん、と一瞬固まったさっちんが、ゆっくりとオレを見上げる。
「偶然なんてうそでしょ。オレに会いにきたんじゃねーの?」
どうしてそう思うの、なんていつまでもとぼけようとするさっちんを「いいから」の一言で制圧した。そうするとさっちんは苦笑いになって、バレちゃったか、とつぶやく。当たり前。そこまでバカじゃないし、そこまでさっちんを知らないわけでもない。
「でも、別に用事があったわけじゃないよ。最近ムッくんと会ってないなーって思ったから、今日ならここにいるかなあって思いついて来てみただけ」
そしたらやっぱりいた、と笑って、さっちんは砂糖で汚れた指を舐める。
「だから、ムッくんに会いにきただけだよ」
つまりさっちんは、オレに「部活に来い」って言いにきたわけじゃなかった。今はテスト期間で部活も停止中だけど(じゃなきゃさっちんはここにいない)、テストが終わればまた普通に再開される。でもオレはきっとほとんど行かない、来なくていいって赤ちんが言ったから。そしてさっちんもオレは来ないだろうって予想しているはずなんだ、それを望んではいないだろうけど。
だったらいっそのこと「来い」って言ってくれた方がよかったのに。そうすれば、オレだってちゃんと「やだ」って言えた。何も言ってくれないままじゃ、拒否することだってできない。
「ほんとにそれだけ?」
紙ナプキンで油を拭いながら、さっちんの方は見ないでオレは訊いた。三秒くらい間を置いたあとでさっちんは「そうだよ」と言う。顔をあげてさっちんを見たら、眉をさげたさっちんが口元だけで笑顔を作っていた。
うそつき。
「じゃあオレもう帰るねー」
「え?」
「だってオレに会いにきただけなんでしょ。だったらもういいじゃん、会ったんだから」
そう言ってコートを羽織ったオレのことを、さっちんは何も言わないでただ目を細めて眺めていた。オレが本当に立ち去っちゃおうとしてもうつむいて黙りこくったままだったから、いい加減、イライラが限界突破する。
「あのさー、言いたいことあるならはっきり言いなよ」
思いっきり険のある声が出て、あ、やば、なんて一瞬、思った。案の定さっちんはびくっと肩を震わせてから目を伏せて、しばらく沈黙したあと、絞り出した。
「……私が食べ終わるまで、待っててほしいな」
続けて、「ほら、一人だと寂しいじゃない?」とさっちんは取り繕う。それは絶対、さっちんが本当に言いたかったことじゃなかったけど、だからってわざわざ「本当」を引き出してあげるほどオレは優しくないから、とりあえずさっちんが口に出してくれたことにだけ従うことにした。
頬杖をついて、ドーナツを食べるさっちんを観察する。一口が一々ちっちゃくて、「そんなんで食べた気ィすんの?」なんてよっぽど訊こうかと思ったけど、結局オレは口をつぐんだままでただぼんやりとさっちんを待っていた。油でてかてかと光っているさっちんの唇を、睨みながら。
さっちんのそばにいるとイライラするのに、さっちんを残して帰っちゃうっていうのもなんでかできなかった。でも、もしかしたら、かわいそうだからかもしれない。そんなふうに思ったところで、じゃあ部活に行ってあげよう、なんて気にはならないけど。
「おいしかった?」
二個目のドーナツの、最後の一欠けを食べ終えたさっちんに尋ねた。うん、とさっちんは、ちっちゃくうなずいた。
「雨降ってるね」
不意に窓の向こうを見やったさっちんの、目線を辿る。いつのまに降り出したんだろう、結構激しい雨が結露した窓の、外側を濡らして、アスファルトに叩きつけられていた。お店の中で鳴っている洋楽のせいで、その音までは聞こえてこない。
「傘、持ってないなあ」
さっちんの独り言を聞いて、オレは自分の鞄を頭の中で探ってみた。黒い折りたたみ傘が一本、ある。
「帰ろっか」
立ち上がったさっちんのことを、でも、とオレは引き止めていた。
「傘持ってないんでしょ?」
「すぐ近くにコンビニあるから、買って帰るよ」
行こ、と促されて、トレーを持ってオレも立ち上がった。返却してから外に出ると、街は真っ黒に濡れそぼっていて、店の屋根からものすごい勢いで水が落っこちてきている。すぐそこにコンビニの看板は見えているけど、こんな雨の中、傘なしじゃ一歩だって動けない。さっちんもそう結論づけたみたいで、ふう、っと溜息をこぼしていた。
「ごめん、やっぱりもうちょっとお店の中で待ってることにしよっかな。ムッくんは傘、持ってるんだよね?」
出入口の取手を握ったさっちんの、肩を反射的に掴んでいた。
「それでいいの?」
きょとんとして、さっちんがオレを見上げる。
「いいっていうか……この雨じゃ、ちょっと身動き取れないし」
また舌打ちしそうになって、急いでべろを噛んだ。そ、と言い捨てて、オレはさっちんの肩を突き放す。鞄から引っ張り出した傘を広げたオレに、さっちんは「ばいばい」と控えめに笑って手を振った。
ムカつく。イライラするよ、本当に。
雨の街へと一歩踏み出したら、ローファーが水溜りにもろにはまって、びしゃっ、と音を立てた。そんなことにはお構いなしにオレはまた一歩、二歩と足を進めていく。オレの背に突き刺さっていたさっちんの気配がある一点で感じられなくなった、次の瞬間にはオレはもう引き返してさっちんの腕を引っ張っていた。お店に戻ろうとしていたさっちんの体は強引に方向転換させられて、オレの胸に飛び込んでくる。
呆然とオレを見上げているさっちんの方へ、大袈裟なくらい傘を傾けた。
「駅まででしょ」
折りたたみ傘はただでさえオレの体には小さすぎるのに、さっちんまで中に入れようとすればオレの背中はもう完全にはみ出ていた。うなじに刺す雨が冷たすぎて、でも吐き出した息は熱い。もわんと一瞬白くけぶって、すぐに霧散する。
「だ、大丈夫だよムッくんっ。私お店にいるから、」
「オレがいいって言ってんの」
遠慮の言葉はばっさりと切り捨てて、さっちんの腕を握ったままオレは歩き出した。オレの力にさっちんが敵うわけもないから(ていうか敵うやつなんかいない)、引きずられるようにしてさっちんはオレの隣を歩いていく。雨が傘を打ちつける、そのロール音がうるさくて、オレのイライラはピークに達していた。同時に、このむやみな苛立ちの原因を、オレはやっと、理解できたような気になる。
かわいそう、だからじゃない。ムカつくからなんだ、さっちんがオレにぶつかってこないことが。ぶつかってくる前に諦めていることが。
別に、怒られたいわけじゃない。綺麗事で諭されたり、説教をされたいわけでもない。ただ、言いたいことを飲み込んで勝手に悲しんだりはしないでほしい、ってだけ。
掴んでる腕にぎゅうっと力を加えたら、痛い、とさっちんが、囁くみたいに言った。オレは放さなかった。力をやわらげもしなかった。
「さっちん」
豪雨に負けないように、声を張り上げて、言う。前を向いたまま。
「さっちんにとってオレは、諦められる程度の存在だったってこと?」
強風がうなって、オレやさっちんの髪を横流しにした。雨のしぶきが頬を打って、体温を奪っていく。寒いから、だ、オレがさっちんの腕を放せないのは、きっと。
ふっと、体の左側があったかくなった。見下ろしたら、さっちんがオレにすがっていた。
「ごめんね」
消えちゃいそうなくらい、小さな声だった。でもちゃんと聞こえた。
「ごめんね、ムッくん」
オレのコートにうずまっているから、さっちんが今どんな顔をしているのかは確かめられない。でも、声の震え具合とか、服を握る手の熱っぽさとか、そういうのから判断するならたぶん、泣いてるんだろうと思った。そしたらやっとオレはさっちんの腕を放すことができて、その手をそのまま、さっちんの頭に持っていく。
泣かれるなんて、めんどくさいだけなはずなのに。オレは無意識のうちに何度も、さっちんの頭を撫でていた。励ますためとかじゃなくて、単なる行為として、だったけど。
諦めないでほしい、って思ったこと。今、頭を撫でていること。全部オレの中から生まれた衝動のはずなのに、そこにどんな意味があるのかなんてまるで分かんなかった。ただ分かるのは、いつだってなんでも知っている赤ちんに訊いても、今回限りは無駄だろうな、ってことだけ。前の赤ちんだったらまた話も違ったかもしれないけど、少なくとも今の赤ちんには、きっと必要ない類いの感情だから。
傘を差す手を持ち替えて、オレに抱き着いて泣きじゃくっているさっちんがほんの少しだって雨に当たらないように、守ってあげた。そのぶんオレが濡れるけど、そんなことはとりあえずどうでもいい。
傘くらい、入れてあげるから。涙くらい、面倒だけど受け止めてあげるから。
だから。だから早く答えを教えてよ、さっちん。
up:2017.12.02