series | ナノ

※懐っこくない黄瀬くん



 風がうるさいから体育館に来た。
 部活が終わってからもう一時間は過ぎて、第二体育館には誰もいなかった。用具室から適当なボールを一個持ち出して、その場でドリブルする。とりあえずレイアップで近くにあったゴールネットを揺らしてみた。制服のままだと、スラックスで思うように膝が曲がんねえから動きづらい。でもそれはどうしようもないから、Yシャツとカーディガンの長袖だけ折ってまたボールを抱えた。
 ステップバックからフェイダウェイ。ロッカーモーションでマークを振り切ってぺネトレイト、プルアップジャンパー。先週の練習試合の光景を頭でなぞりながら、ボールを操る。シュートされたボールがゴールを通って床を跳ねる、ど、っていう音が耳障りな他のいろんな音を掻き消してくれる気がするけど、そんなんは錯覚で、体育館が静かになればオレはまた風の中に戻っている。
 うざい。つまんねえ。

「部活、来ればよかったのに」

 声をかけられて、振り返った。体育館の入口のところに桃っちが立って、顔を覗かせていた。眉をさげて笑ってる。

「あー、今日はちょっと用事があって」
「モデル?」
「まあそんなとこっス」

 両手でボールを突いて答えたオレの方へ、桃っちは近づいてきた。靴下のまま歩いてる桃っちの、足音はしない。

「桃っちは帰らないの?」

 何しに来たのこの子、なんて不思議に思いながら、オレは訊いた。

「帰ろうとしたらもう誰もいなくなったと思ってた体育館の電気が点いてたから、どうしたのかなーって確認に来たの」

 おばけじゃなくてよかった、と桃っちが笑う。ていうか、笑おうとする。ほんとに言いたいことを曖昧にしちゃうために。

「土曜日の練習試合のやつだね、さっきの」

 フェイダウェイも様になってた、と体の後ろで手を組んで桃っちは言った。桃っちが開けっ放しにしたままの体育館のドアの向こうは、濃い紺色に塗りつぶされている。新学年が始まったばっかの四月は、まだ少し寒い。

「やっぱ気づいてたんスね」
「ふふ。知ってますよー」

 桃っちが言った瞬間、すげえ強い風が体育館になだれ込んできた。入口の重い扉が、がん、と金属を鳴らして閉まる。わっ、と桃っちは小さく悲鳴をあげた。オレは、そんな桃っちを見下ろす。
 あんたが何を知ってんスか、とむやみにイラついた気分になった。部活に出ない日が増えて、クラスだって一緒じゃないオレと桃っちが同じ時間を過ごすことはかなり減った。それなのに桃っちは、オレのことを「知ってる」らしい。

「ねえ桃っち、ちょっといいスか?」

 ん? と首をかしげながらも桃っちはオレに従ってくれた。二人して体育館の端っこに座って、壁に寄りかかる。打ち捨てていた鞄からミュージックプレイヤーを取り出して、イヤホンの片っぽをオレの耳に、もう片っぽを桃っちの耳に入れた。桃っちの右耳に着ける直前、こういうのいやがられるかな、とちょっと心配になったけど結局構わずに入れてしまった。桃っちは別に潔癖症じゃない(はずだ)し、ちょっとくらいなら見逃してくれると思う。

「なになに、素敵な曲でもあるの?」

 音を流す前から、桃っちの目は輝いてる。「そうッスよ」とオレは答えて、音楽リストから探し出した一曲をスタートさせた。元気のない人を「頑張れ」って応援してるような歌詞の、アップテンポの曲。

「これ知ってる? オレの最近お気に入りの曲なんスけど」

 タイトルまで教えてあげると、隣で横座りしていた桃っちは、うん、とうなずいた。

「この間雑誌できーちゃんが言ってた曲だよね? 初めて聴いたけど、ノリもよくて楽しいね」

 ……知ってるんだ。
 なんか、純粋にびっくりした。桃っちがオレの載ってる雑誌をわざわざ読んでくれていたってことにも、その中にたくさんつまっている記事の一つの、インタビュー回答の、小さな小さな一項目の内容まで覚えていたってことにも。
 ふんふん、と左右にちょっと揺れながら、桃っちはリズムに乗っている。口元は半月の形になっていて、その、楽しそうな笑顔を眺めていると、つついてやりたいっていうオレの中の性格の悪い部分が刺激される。目を背けようとすればいくらでも自分をごまかせる程度の欲望だけど、オレは、それを満たしたくなってしまった。そんなことしたって意味ない、なんて分かってるけど。
 手の中のプレイヤーを操作して音楽をぶった切ったオレの横顔を、桃っちはきょとんとして見た。

「きーちゃん?」

 桃っちの耳に装着された青いイヤホンは、オレと繋がっている。だから、オレと同じものが聞こえてないといけない。

「桃っち」

 視線を合わせて、にっこりと笑いかけてみせた。

「今、何が聞こえてる?」

 目を見開いた桃っちから顔をそらして、オレは向かい側の窓を見上げた。二階にある窓の、枠の中に夜がある。がたがた、と揺らいでいる気がするのは、きっと外を吹き渡る風が強すぎるから。

「……救急車のサイレン、かな?」

 長い間を置いたあとで、桃っちはつぶやいた。それを聞いてオレは、体育座りした膝の上に腕を寝かせて、そこに顎を沈めた。
 やっぱり、知らないことだってあるじゃん。

「確かに鳴ってる。なんかあったのかもしんないスね」

 遠くの方でかすかに響いているサイレンなんかよりもずっとはっきりと存在しているはずの、轟音が桃っちには届いていないのは、オレと桃っちが違うからだ。おんなじイヤホンを耳に突っ込んでたって、オレに聞こえているものが桃っちには聞こえてない。こんなに、頭が痛くなるほどうるさく騒いでいる音なのに。
 オレの態度が変なことを察したらしい桃っちが、「きーちゃん?」ともう一度、いたわるような声色でオレを呼んだ。それには答えないでオレは、全部の神経をぎゅっと鼓膜に集中させてみる。何か別の音が聞こえるかもしれない、と思ったけど、やっぱダメだった。

「つまんねーなー……ほんとに」

 乾いたような、かすれた声が出た。はっ、と自分で自分を馬鹿にするみたいに笑ってしまう。桃っちが一瞬固まったのが気配で分かったけど、それでも桃っちは、わざとらしいくらいに明るく言った。

「じゃあ部活、来てみない? みんなとバスケしてれば楽しくなるかもしれないし」

 ね、と桃っちがオレを覗き込んできた。んー、とオレは、うなってしまう。

「おんなじっスよ、たぶん。変わんない」

 オレがずっと追いかけていた人はもう部活になんか来ないし、他のみんなだってもうオレのことなんかどうでもいいって思ってるってことは、分かっている。でもそれはオレだって同じ。オレだってもうみんなのことなんか、前に比べたら全然、興味ない。そんな状態で部活に行ったって、つまんないのは絶対変わらない。
 桃っちは、しばらく黙りこくっていた。オレは腕の中に顔をうずめて、ふうっと息を吐き出した。風がうなる。

「言わないでよ、そんなこと」

 ちょっと怒ったような声で言われて、思いがけず桃っちの方を向いてしまった。桃っちはまつげを伏せて、自分の耳からゆっくりと、イヤホンを引っこ抜いた。

「青峰くんみたいなこと、言わないで」

 青峰くん、とその名前を口にしたところで、桃っちは泣き出す寸前みたいに顔をぐしゃっと崩した。オレと反対側に首を巡らせて、洟をすするような音を立てる。どんだけオレがバカでも、そんな反応を見せつけられればいやでも分かってしまった。
 桃っちがオレを部活に誘ったのは、本当に戻ってきてほしい人のためであってオレのためじゃない。オレはその人とよく1on1をしていたから、オレがいればまたバスケをやりに来てくれるかも、なんて期待しているのかもしれない。そんなことありえないって、きっと桃っちが一番、よく知ってるはずなのに。
 ごめんね、桃っち。
 申し訳なく思う気持ちはちゃんとあるのに、同時に、それとは真逆の感情もざあっと湧いてくる。結局桃っちの一番は青峰っちで、その次が黒子っち。オレなんか眼中にない。だから、オレと同じものが聞こえない。聞いてくれない。

「ごめん、きーちゃん」

 腰を浮かしかけた桃っちの、手首を掴んで引き止めた。はずみで、オレの耳からもイヤホンが抜ける。オレの目が、桃っちの目を突き刺した。涙を溜め込んで真っ赤になった桃っちの目元は痛々しいけど、同情はない。だってそれは、オレのためのものじゃないから。

「泣かないでよ、桃っち」

 桃っちのほっぺたに手を伸ばして、とうとうあふれてしまった一粒を拭ってあげた。ごめんね、と繰り返して、おとなしく桃っちはオレに身を任せる。ぐ、と少し爪を立てたら桃っちの肌に跡が残って、でもすぐに消えた。
 桃っちに泣いてほしくない。けどそれは、優しさ、みたいなものから来るんじゃなくて、オレが気に食わないからだ、他のやつのために泣く桃っちが。オレのために泣いたり怒ったりしてくれるなら、そんな桃っちに「笑ってよ」なんて台詞、間違っても言わないと思う。
 なんか、サイテーっスね、オレ。

「……私、他の子よりはみんなのこと知ってると思うけど」

 桃っちが口を開いた。から、オレも腕をおろした。

「でも、分かんないこともあるんだよね」

 コートの方を眺めながら、桃っちはきゅっと眉を寄せた。

「青峰くんのことだって、あんなふうになっちゃった原因は分かるけど、気持ちまでは分からないもん」

 両膝を抱いて縮こまっている桃っちの、丸い背中は頼りない。ついさっき「サイテー」だって自覚したはずなのに、それを見てると、やたらとイライラが掻き立てられた。攻撃的な気持ちになる。思い知らせてやりたくなる、オレの中身を。

「分かりたいの?」

 オレは訊いた。桃っちはそのままの姿勢で、こてんとうなずいた。

「うそっスよ、そんなの」

 平らな声で吐き捨てると、桃っちが一瞬震えた、ように見えた。

「桃っちが分かりたいのは青峰っちと黒子っちだけっしょ。他のみんなとかオレのことなんかは、分かればいいなーって考えてる程度じゃないんスか?」
「そんなことないよ」

 予想外にはっきりと断言、即答された。でもオレは怯まない。

「ある。じゃなきゃ『知ってるよ』なんて簡単に言わないっスよ、普通」

 今度は、すぐに反論されなかった。桃っちは膝を抱えていた手で床にさわって、何か考え込んでいた。それから言った、オレの瞳とまっすぐ向き合って。

「ないよ。きーちゃんのことだって、私はちゃんと分かりたいって思ってる。だから、教えて」

 体育館の隅にいるオレたちに、明かりはあんまり当たらない。だから桃っちの顔もいつもより陰っているはずなのに、視線だけが怖いくらいに強くて、ぎらぎらと尖っていた。
 オレの頭の中で、スイッチが入る音がした。それは爆弾を炸裂させるためのものみたいな、絶対に押しちゃダメだ、って直感できるようなスイッチだった。

「だったら言わせてもらうけど、オレもうバスケ楽しいなんて思ってないっスよ」

 オレが吐き捨てると、桃っちは目を見張った。

「追いつけなくて張り合えるのがよかったのに今はみんな競争し合おうなんて意識ないし、他のやつらのプレーなんか見りゃ一発でできちゃうし。毎日毎日つまんねえ、うんざりなんスよもう」

 桃っちが割って入る隙なんて見せないで、一方的にオレはしゃべる。

「部活頑張るなんて、今更じゃないスか。頑張らなくても勝てんのに。ほんとつまんねえ」

 だんだんと、桃っちが体中を固くさせていく。オレが桃っちに、身を乗り出すようにして詰め寄っているからだった。

「ねえ、桃っちはほんとに知りたかったんスか? オレがこんなふうに冷めきってるんだってこと、知りたかった?」

 桃っちの横に片手をついて壁に追い込んだら、シャンプーのにおいがした。きーちゃん、とオレを呼ぶ声が細い。
 八つ当たりだって分かってた。桃っちにぶつけたってしょうがない。ここまでやっちゃうんだ、ってかろうじて冷静な部分のオレが呆れているけど、こんな状況にまでオレを追いやったこのイライラの、正体は今やっと分かった気がした。
 オレは、桃っちを甘く見ていた。他のみんなとは違う視点にいる、この子ならオレのことをどうでもいいと思わないんじゃないか。みんなを、オレを、一人一人見てくれるんじゃないかって根拠なく勝手に期待していて、でもそれは裏切られた。この子だってオレなんか見てなかった、それを突きつけられたから、どうすればいいのか迷子になってイライラするんだ。やっぱサイテーだ。
 オレじゃ、この子を動かせない。

「桃っちはオレのことなんか分からないよ。さっきだって、そうだったじゃないスか。オレが感じてるもの、桃っちには感じられないんスよ」
「きーちゃん」

 助けを求めるみたいにオレの名前をこぼした桃っちの、目尻がぴんと突っ張っている。オレの手がある方と逆側へ顔を背けた桃っちの顎を、下からぐっと掴んで、こっち側に向けた。

「分かりたいなら、目ェそらさないで」
「きーちゃ、」
「ねえ桃っち」

 鼻先同士がふれ合って、その次に唇が重なった。桃っちの肩から力が抜けたのが、感覚で分かった。
 桃っちが、今だけはオレを見ている。

「――オレと同じものを、聞いてよ」

 唇を押しつける。耳の奥で風は鳴り続けて、渦を巻く。この音は、どうしてもこの子には聞こえないんだろうか。
 初めて桃っちが、オレのために泣いていた。


up:2017.11.13