series | ナノ

 このオレに、奇怪なあだ名をつけた女がいた。

「もう一本っ」

 宮地先輩が相手チームのPGにスクリーンをかけたことでインサイドに侵入した高尾であったが、すぐにまた別の選手によってマークされてしまった。第四クウォーター、残り時間は二秒を切っている。高尾はそのままボールを肩口へ持っていき、視線は動かさないままで背後の選手――つまりオレに、片手でパスを出した。高尾のノールックパスからオレのスリー、ボールがネットをくぐった瞬間に、試合終了のブザーが鳴る。ダブルスコアで、この練習試合での秀徳の勝利が確定した。

「いやーなに、真ちゃん絶好調じゃん?」

 挨拶を終えたあと、高尾に肩を叩かれた。こめかみを伝う汗の粒を払って、オレは眼鏡のブリッジにふれる。

「ふん、当然なのだよ。今日のおは朝、蟹座は四位。しかしラッキーアイテムでの補正は完璧だったのだから」

 今日の練習試合は秀徳の体育館で行われた。ゆえに撤退作業こそないものの、対戦したチームの見送りはせねばならない。とりあえず汗を拭こうとベンチの方へ踵を返したところで、さっすが真ちゃん、と高尾が言った。

「でもまーよかったな。彼女にかっこいいとこ見せられてさ」
「は?」

 どういう意味だ、とオレが高尾を睨むと、高尾はぽかんとする。

「あれ、もしかして真ちゃん、気づいてなかったの?」

 そして高尾は、顔の横で人差し指を立てた。

「桃井来てんじゃん」

 高尾の指先を辿る。二階のギャラリーで柵から身を乗り出した桃井が、こちらに向かって思いきり手を振っていた。

「なっ、桃井!?」

 体育館の中心で放たれたオレの叫び声は、室内全体に反響した。隣で高尾が、下品な音を立てて噴き出す。腹を抱えながら、ばしばしとオレの背を力強くはたき出した。

「ちょっ、真ちゃんマジで気づいてなかったのかよ!」
「チッ。……お前こそ、なぜ気づいたのだよ」

 ふふん、と偉そうに鼻を鳴らした高尾が、目の下のくぼみに指を置く。

「ホークアイからは逃げらんねーかんな」

 直後、ど、と鈍い音がして、高尾がつんのめった。高尾の背骨にボールをぶつけた宮地先輩は、卒業したお兄さんに負けず劣らずの暴言でオレたちを叱り飛ばす。それでオレも高尾も、急いで片付けに戻った。横目でギャラリーを確認すると、桃井はすでにいなくなっていた。
 体育館の整備とミーティングののち、解散となった。高尾とともに正門を出たところで、待ち伏せていたらしい桃井を見つける。

「やっほーミドリン、高尾くん」
「よー桃井」

 桃井に向かって合図してみせた高尾が、ちらりとオレを見て含みのある笑みを見せた。またろくでもないことでも思いついたのではないだろうな、と視線で牽制すると、高尾はのらくらとかわしてオレたちから一歩遠のく。

「んじゃ、お邪魔虫は消えるとしますかね。せっかく真ちゃんが『桃井に会いたいのだよ〜』っつってさっさと後片付け済ませてきた意味がなくなっちまうかんな」
「そんなことは言っていない!」
「ミドリン、私に会いたくなかったの?」

 桃井が、瞳に涙の膜を張ってオレを見上げた。これはわざとだ。これまでも散々、こいつは高尾と結託してオレを振り回してきたのだ。憎々しい、もうその手には乗らないのだよ――と頭の冷静な部分では考えているのだが、結局オレはいつも、桃井から目をそらしてしまう。

「そ、そんなことも、言っていないのだよ」

 馬鹿笑いする高尾を追い払い、桃井と二人、ようやく帰路についた。電車に乗り、桃井の家の最寄りで下車する。すでに夕日も沈みかけているが、まだまだ秋口に差しかかったところ、夏の余韻は強烈で、じめじめと暑かった。

「ねえミドリン、もしかしてシュートの時のタメ、短くなった?」

 桃井が、片側二車線の道路を走る車両と張り合うように、大声で問うてきた。ふん、とオレは、普通に答える。

「やはり目的は偵察か」
「ふふ、まあね。今日うち、たまたま日曜練なかったから」

 橙を帯びた陽に照らされているはずなのに、肩にかけた鞄の柄を握る桃井の手も腕も、白い。

「で、どうなの? ミドリン」

 オレと桃井の身長差では、オレは桃井の脳天を見ることができてしまう。桃井の頭には頂点の位置につむじがあり、オレはそれをなんとなく好ましいと思うのだが、そんなことはもちろん、口にしてやらない。

「……コンマレベルで、だがな」
「きゃー! じゃあデータ更新だね!」

 桃井の悲鳴に、周囲の通行人のほとんどがオレたちに注目した。おい桃井っ、とオレが注意したところで桃井は聞いておらず、浮かれきってきゃーきゃー騒いでいる。きーちゃんのデータもこの間更新したんだよ、と笑う桃井の、表情は輝いていた。
 オレたちの進化が、そんなに嬉しいのか。

「やっぱり今日来てよかったなあ」

 つぶやいた桃井が、オレの左腕にぐっと抱き着いてきた。途端、脇の下で脂汗が滲む。

「も、桃井っ。歩きにくいのだよ!」
「えー、いいじゃない。私、ミドリンの彼女だもん」

 お互い半袖なので、じかにふれ合う肌の感触が生々しい。ねえミドリン、とオレの肩に頭を寄せた桃井は、さらに強く腕を抱いた。

「やっぱり、ミドリンはすごいね」

 満面の笑顔でオレを見つめた桃井に、オレの中の古い記憶が引っ掻かれて表に飛び出してきた。そうだ、確か桃井と初めて言葉を交わした時も、こいつは。

「お前は、かたくなに『ミドリン』だな」
「え?」

 どういうこと、と目だけで語った桃井に、オレは教えてやる。

「お前が初めてオレに声をかけてきた時から、お前はずっと『ミドリン』だ。やめろと注意しても聞かんから、結局オレが折れざるをえなかった」

 中学一年の五月、オレは部活後に居残り練をしていた。いつのまにか最後の一人になっていたことにも気づかぬままシュートを打ち続けていたオレのもとに、どこからか声が飛んできた。

 ――ミドリン!

 オレは初め、それがオレにかけられた言葉だと分からなかった。だから知らぬふりをして床に転がったボールを拾って、腰を伸ばしたら目の前に桃井が立っていた。あまりに突然の出没に動転し、唖然としてしまったオレに、桃井は笑って、食い気味に迫ってきた。

 ――ミドリンすごいね! スリーなのに、全然外れない!

 両腕を挟み込むようにして取られ、揺すぶられて、そこでやっと意識が元通りになったオレは、あっけにとられて訊いた。

 ――ミドリンとは、オレのことか?
 ――うんそうだよ。「緑間」だからミドリン。かわいいでしょ?
 ――今すぐやめるのだよ!

 当時のオレはまだ、桃井の名を知らなかった。顔と、マネージャーであることのみを認識していたオレが桃井を覚えるきっかけとなったのが、その「ミドリン騒動」だったのだ。
 あの時も桃井は飛び跳ねんばかりの笑顔で、初めて自転車を補助輪なしで乗りこなした子どものように、はしゃいでいた。今と同じく、オレのことを「ミドリン」と呼んで。

「だって、ミドリンはミドリンだもん」

 頬を掻いて、桃井は苦笑した。道はもう住宅街に突入しており、桃井の家まではあとわずかだった。

「あの時は、ほんとにびっくりしたの。私が見るバスケって言ったら大ちゃんのばっかりだったから、スリーってあんまり見たことなかったんだよね。ゼロじゃなかったけど、やっぱり大ちゃんはインサイドでのプレーが多いし。だから、こんなに危なげなくばんばんスリー決められちゃう人がいるんだなーって、興奮して」

 ぬるい風が、桃井の髪とスカートをはためかせる。やはりまだ、秋のにおいはしない。

「この子と仲良くなりたいなあって思った。だから『ミドリン』」

 そこで桃井の手が、オレの手と繋がった。

「こうやってまんまと仲良くなれちゃったあたり、作戦は大成功ーってとこかな?」

 握り合った手を振り子のようにぶんぶん振り回す桃井に、オレはなされるがままでいた。

「ミドリンにこーんなことできるのも、私だけだもんね」

 アスファルトに、桃井のローファーがかつかつと響く。まっすぐに伸びた道路で、白線の内側を並んで歩くオレたちを邪魔するものは何もない。

「動機はそれか」

 え、と桃井が首をかしげた瞬間、オレは桃井を掴む手に、悟られない程度で力を込めた。

「以前高尾が言っていたのだよ。『桃井はなんで真ちゃんなんか選んだんだろな』と」
「『なんか』って……高尾くん、ヒドイ」

 あはは、と桃井が引きつった笑いを見せる。それから「んー」とうなりながらそこらへんの塀だの電柱だの、あらぬ方向へ視線をさまよわせたのち、小さく言った。

「実はね、帝光で一緒にマネージャーやってた子たちと話したことあるんだけど、ミドリンて『なぞ』とか『理解の範疇を超えてる』とか、そういう言い方されてたんだよね」

 ぐぬ、と図らずも漏れてしまったオレのうめきを、聞き取った桃井は「ごめんごめん」と慌てて先を続けた。

「でね、そういえばミドリンってその……あんまり女の子と話してるの見たことないな、って思って。だからこそ余計に『私はもっとミドリンと仲良くなろう!』とか思ったりしたんだけど、そうしてるうちに、気づいたの」

 手を放した桃井が、一歩前に出てオレと向かい合った。後ろ手を組んで覗き込むようにオレを見上げて、微笑む。

「私ってミドリンの特別になりたかったんだなあ、って」

 桃井の方から吹きつけてきた風が、自然のものとは違う、何か甘ったるい香りをオレに届けた。七対三に分けていたはずの前髪が、その強風で崩れてしまう。桃井の髪先は、オレの目前の宙で踊っていた。

「こんなに近くで普通に会話したり、それこそミドリンなんて呼んでみたり。そんなこと他の女の子にはできないんだとしたら、つまり私って『特別』でしょ?」

 乱された髪を耳にかけて、桃井ははにかむ。

「男の子の――ミドリンの特別に、なりたかったの。女の子だもん」

 陽に背いた桃井の顔は、逆光で暗い。それでもその頬が普段以上に血色よく染まっているであろうことは、そういうことに中々疎いオレにも、なんとなく察することができた。
 伏せていたまつげをゆっくりと持ち上げて、桃井がオレを窺う。それから、わざとらしく頬を膨らませた。

「もーう。こういう時は『お前はもうとっくにオレの特別なのだよ、桃井』とか優しくてあまーい台詞、言うもんだよー?」
「なっ。そんなこと言うわけないだろう!」
「ふふ、まあそうだよね」

 でもそれも、ミドリンらしいや。
 身を翻して再び歩き出した桃井の後ろをついていきながら、ぼんやりとオレは考えた。オレの(正確には、オレたちの、だが)成長を我が事のように喜び、偵察のためとはいえ自分からオレのところへ赴いて来、オレの「特別」になりたいとまで告白した桃井に、オレはどうすればよいのか、と。返さねば、などという義務感はない。オレはオレだけの意思で、桃井に何かを渡したい、と思うのだ。
 スラックスのポケットに仕舞った今日のラッキーアイテム、市松模様の手拭いにふれる。柄にもないことを考えている。高尾に知れたら、小一時間はこれをネタに笑い転げることだろう。
 だが、だ。そもそもオレは本来、こんなふうに特定の人間一人のことについて深く頭を悩ませることはない。それをさせている時点で桃井、お前はもうとっくに、オレの。

「じゃあねミドリン。送ってくれてありがとう」

 そこで我に返る。いつのまに桃井の家の前に到着していたらしく、門扉を開けてその向こう側に立った桃井はオレに手を振った。先程の、横髪を耳にかける動作をした手だった。オレの特別になりたいと言った、桃井の手だ。

「桃井っ」

 家に入ろうとしていた桃井の手首を加減もなしに引き寄せて、その頬に唇を押しつけた。一瞬だ。何が起きたのか理解が追いつかないのか、ただ目を見開いているだけの桃井に、早口でオレは告げる。

「お前が望むなら、その『優しくて甘い』とやらを、あげてやらんこともないのだよ」

 一方的に宣言して、その場を立ち去った。今更になって体中の血液が頭に、顔に、集中していく。桃井がオレの背に叫んだのは、オレが逃げるように早足で数メートル進んだあとだった。

「ぶ、不器用すぎだよっ、ミドリン!」

 気候はまだ夏で、秋のにおいもない。それでも、オレの鼓膜を毎年震わせるあのセミの声も、もうない。いずれは秋がやってきて、冬が訪れる。遠からず、寒くなっていくことだろう。そうすればおそらくもっと自然に、自分から桃井の手を掴み、温めてやることができるようになる。そんな気がするのだ。


up:2017.11.12