series | ナノ

 大ちゃん以上のバスケ馬鹿なんて、私は知らない。

「おはようございます」
「うわあっ!」

 朝練前の、まだ誰もいない体育館の用具室で練習の準備をしていたら突然背後から声をかけられて、思いっきりびくついてしまった。ボールの入ったカゴの、ふちにふれていた指先がずるっと滑る。慌てて振り返ると、一軍選手としては少し頼りない体つきをした男の子がそこに立っていた。

「く、黒子くんか、びっくりした……ていうかなにその頭!?」

 相変わらず、挨拶されるまで全く気配を感じ取らせなかった黒子くんだけど、彼の頭を見て私はびっくりした。髪の毛が四方八方に、好き放題はねている。「そんな髪型だったっけ?」と私が問うと、黒子くんは前髪をちょんと引っ張りながら「いえ、寝癖です」と答えた。

「ね、寝癖……」
「しゃー! やるぞー!」

 体育館の入口から青峰くんが飛び込んできて、全開に声を響かせた。私と向かい合っていた黒子くんも「おはようございます」と言って青峰くんに寄っていく。

「おう。なんだ、テツももう来てたのか」
「はい、桃井さんの次に」
「赤司たちもさっき着替えてたから、もうすぐ来るぜ。おっしテツ、それまで1on1でもやるか!」

 朝練前にですか、と若干げんなりした様子の黒子くんに構わず、青峰くんは私が体育館に出したボールカゴから一個持ち出していって、ドリブルで近くのゴールまで運んだ。そのまま流れるようにまずは一つ、レイアップを決める。

「おら、テツも来いよ!」

 三月になったばかりの体育館は、吐いた息が白く染まるほどに寒い。それでも青峰くんと黒子くんは、たいした準備運動もしないままでボールを追いかけ始めた。こうなっちゃったらもう私が何を言ったところで聞かないから、私はそのまま、溜息を吐いて自分の仕事に戻る。
 青峰くんはお得意のクロスオーバーで黒子くんのマークをかわすと、ジャンプシュートを繰り出した。危なげなくゴールネットが揺れる。ぜえぜえとすでに息のあがっている黒子くんに対して、青峰くんは絶好調で、全然疲れてなさそうだった。バスケをしている時にしか見せない類いの、無邪気できらきらとした笑顔で、「これで四本! リーチだぜ!」と叫んでいる。
 まったく、ほんとにバスケ馬鹿なんだから。
 呆れるけど、あんなに楽しそうにされるとこっちまで体の内側に火がつく気がする。思いっきり飛んで、跳ねて、躍動したいような気持ちにさせられるんだから不思議だった。青峰くんのプレーを見ていると、私までもっともっと、バスケが好きになってくる。
 でも。

 ――バスケ大好きなやつ見つけてよ。もしかしたらオレよりかもってぐらいの。

 青峰くんに肩を組まれた黒子くんは、げっそりとしながらも口元がちょっとゆるんでいた。窓から射し込む朝日が二人に落ちて、彼らのいる部分を一際輝かせている。バスケ馬鹿と、そのバスケ馬鹿に「オレ以上かも」と言わせた子の、二人。
 正直、青峰くんが言うほどに黒子くんが何かとてつもなくすごい人だとは、私には思えない。練習ではすぐへとへとになって寝転んでいる姿しか見たことがないっていうのもあるけど、なにより黒子くんに関する情報が少なすぎるんだ。つい数ヶ月前に一軍入りしたばかりの黒子くんのことを、私はまだ、ほとんど知らない。
 知らないなら、知れば分かるのかな。あの青峰くんにあそこまで言わせた黒子くんの、秘密が。それはちょっと、いや、かなり興味あるかも。
 虹村先輩や赤司くんたちがやってきて、朝練も始まった。選手のサポートやスタッツを取りながら、私は決める。
 よおし、今日は黒子くんの秘密を、探り出しちゃおう!

 ――……なんて意気込んだのが、朝の話だった。それからあっというまに時間は過ぎてもう昼休みだけれど、黒子くんについて、結局まだ何一つ知れていない。
 そもそも、まず近づくことができなかった。黒子くんと私は別のクラスで、だったらすれちがいを狙うしかないよね、と休み時間のたびに廊下に出てうろうろしたり彼の教室を覗いたりしてみたんだけど、これが全然、もう全く見つけられない。最近は黒子くんの影の薄さにもだいぶ慣れて、不意をつかれなければ驚かない程度にはなっていたはずなのに、やっぱり自分から探すとなると上手くいかないみたいだった。姿を捉えることもできないまま、時間だけが過ぎてしまう。

「はあー……」
「おい、さつき!」

 お弁当を忘れて食堂を一人うろついていた私を、遠くから呼ぶ声があった。教室四個ぶんはありそうな広い食堂をたくさんの生徒が満たしているから、すぐには出どころが分からずきょろきょろしてしまう。でも中央のテーブルの一角に青峰くんがふんぞり返ってこっちに手を振っているのを発見して、駆け寄った。

「お前ぼっちかよ。友達いねーのか、かわいそー」
「むう。ぼっちじゃないもん! 今日はみんなお弁当だったの!」
「へいへい」
「あー、信じてないでしょー!」

 青峰くんの隣に、オムライスをのせたトレーを置く。青峰くんの前には日替わり定食が置かれていた。今日のメインは、どうやら鯖の味噌煮みたい。

「ていうか青峰くんだって一人じゃなーい。人のこと言えないくせして」
「一人じゃねーよ、テツがいる」
「朝練ぶりです、桃井さん」
「うひゃあ!」

 青峰くんの正面に黒子くんが座っていて、わかめうどんを食べていた。青峰くんに教えられるまで全然気づけなかった私の心臓は、変に軋む。朝練前に爆発していた黒子くんの頭は、もうすっかり元通りになっていた。

「も、もう! 驚かせないでよ黒子くんっ」
「驚かせたつもりはないんですが……」

 ぽりぽりと頬を掻く黒子くんに、青峰くんはにやにやして「そうだよなーテツ、さつきが鈍感なだけだよなー」と便乗した。

「な、なによ! 青峰くんだってびっくりしてる時あるじゃない!」
「今はびっくりしてねーだろ」
「当たり前でしょ、最初から黒子くんと一緒にいたんだから!」
「あの二人とも、食べないとお昼休み終わってしまいますよ」

 私と青峰くんがいつもみたいな喧嘩を始めかけたところを、黒子くんが遮ってくれた。それで一旦お互いに引いて、食事に戻る。

「んでさっきの続きだけどよ、ちゃんとゴールを見て、ひょいって投げればいけるだろ! 理屈じゃねー、感覚だ感覚」
「いつも、ちゃんとゴールを見て、ひょいって投げてるつもりなんですけど……」

「なんの話?」と青峰くんに訊くと、「テツがレイアップのコツを教えてくれって言うから教えてやってんだよ」と威張りくさって腕を組んだ。威張れるような教え方、まるでしてないのに。

「具体性ゼロじゃない。黒子くん、そういうのは赤司くんとかに訊いた方がいいよー? 青峰くんなんか絶対参考になんないから」
「てめっ、さつき!」
「赤司くん、教えてくれるでしょうか。彼には『試合ではパスに専念しろ』と指示されているので……」

 そうつぶやいて黒子くんは、箸のお尻を顎に添えた。その姿に私は、あ、と思う。バスケをしていない時でもバスケのことを考えている、この感じは、青峰くんに似てるかも。

「あいつがダメなら、やっぱオレが教えてやるよ。シュートできるのに越したこたァねーだろ。ま、テツはその前にもっと体力つけなきゃだけどな」
「返す言葉もありません」

 食事量の少ない黒子くんに、青峰くんは無理やり鯖のかけらを食べさせようとしていた。青い顔をした黒子くんはそれを拒絶する。そんな二人のやりとりを横目に見ながら、でもやっぱり「オレ以上」っていうのはよく分かんないかも、と思った。
 それから午後の授業も終わって、部活の時間になっても黒子くん観察は続いていた。と言ってもマネージャーのお仕事もあるからそんなにじっくりとはいかない。たまに一軍の体育館を覗いてはみるものの、やっぱり黒子くんのことだから、フットワークやスリーメンをしているみんなの中から彼を見つけ出すことはできなかった。唯一見かけた時、黒子くんは床に突っ伏してぐったりとしていて、ああまた、なんて私は苦笑してしまう。
 部活が終わって、あとは自主練の時間だった。当たり前のことだけれど、第一体育館が一番、部活後も活気がある。自分のやるべきことを済ませた私は、第四体育館に顔を出した。そこでは青峰くんと黒子くんが自主練に励んでいる。黒子くんが一軍にあがってくる以前、二人はここで毎日居残りをしていたみたいで、今も黒子くんがよっぽど疲れていなければここに来ているらしい。

「青峰くーん、あとどれくらいまで残ってるの?」

 体育館の入口から呼びかけて、そこでやっと青峰くんたちは私に気づいた。

「おうさつき。あと一時間は残っけど」
「一時間!? 施錠時間ぎりぎりじゃない」
「用があんなら先帰ってもいいぜ」

 そう言って青峰くんは、黒子くんにボールをチェストパスした。

「おっし、今度はテツが先攻な」

 ゴール下で構える青峰くん。黒子くんは私の方をちらっと見やって「大丈夫ですか?」と青峰くんに問いかけていたけど、青峰くんの頭にはもう、バスケしかなくなっていた。「帰っていい」と言われると意地でも帰りたくなくなっちゃうから、私はぶすくれたくなりつつも、壁際に腰をおろす。
 朝練前にやっていたのと同じ形式の、1on1だった。青峰くんのディフェンスを抜こうとした黒子くんの、右手からボールが離れる。それをさせた青峰くんはボールを拾い上げたあと、ゴールまで一直線に走ってシュートした。「っしゃー!」とガッツポーズする。

「青峰くん、強すぎです」

 Tシャツの袖でおでこを拭いながら、黒子くんが口を尖らせた。

「テツ、もっとガッと来いよガッと」
「ガッと行ってます」

 私は黒子くんが青峰くんに勝ったところを見たことがないけど、だからって「もうやめます」とねをあげた姿も見たことがない。もう一回、もう一回、と勝負に挑んでいくその姿勢から、黒子くんが相当な負けず嫌いであることが窺えた。それでもやっぱり、毎回毎回、あっけなく負けちゃうんだけど。
 バッシュを鳴らして、二人占めしたコートの中を青峰くんと黒子くんが走り回る。黒子くんがパスしたボールを青峰くんが受け取って、ゴールに送り込んだ。やったぜ、と二人がこぶしを合わせた瞬間に、私は初めて、それを見る。
 黒子くんが、笑ってる?

「だあー!」

 絶叫した青峰くんが、床に転がった。「さすがに疲れたー」と喚いている。あれじゃ服が汚れちゃう、と思って注意しようと立ち上がった直後、

「桃井さん」
「きゃああっ」

 いきなり目の前に現れた黒子くんに、悲鳴をあげてしまった。黒子くんが眉をさげる。

「すみません、また驚かせてしまいました」
「う、ううん、それはいいんだけど……どうしたの?」

 そこで黒子くんは振り返って、ごろごろとトドみたいに転がっている青峰くんに視線をやった。瞬間、ふわっと水っぽいような汗のにおいが香る。それからもう一度、私に向き直った。

「何か、早く帰らないといけない用事とかありましたか? ボクのせいで青峰くんを引き止めてしまって、すみません」

 外ももう暗いですし、帰った方がいいですよね。申し訳なさそうに身を縮めている黒子くんは、つまり私を気遣ってくれたみたいだった。こうやって人の心配をしてくれるところ、青峰くんとは大違いだな、と私はくすくすしてしまう。

「いいよ。用事もないし、バスケ見てるのも楽しいから」

 そうですか、と安心したようにつぶやいた黒子くんは、次いでじいっと、私を見つめた。

「桃井さんて部活の時だけ変えてますよね、髪型」

 突然何を言い出すんだろ、なんて少し怯みながらも、私はうなずく。

「動くのに邪魔だから結んでるの。よく気づいたね」
「見てたんです。結ぶだけで随分印象が変わるなあって」

 見てた、という言葉に一瞬、ものすごくどきっとした。男の子にそんなふうに言われたのは初めてで、顔が少し、熱くなる。ごまかすように「黒子くんも朝、全然印象違ったよ」とまくしたてると、黒子くんは「でもあれは寝癖ですから……」と上目遣いで自分の髪を見た。
 そこで、いきなり起き上がった青峰くんが、ぐるぐると腰の周りでボールをドリブルし始めた。メリーゴーランドみたいにスムーズに回るボールは、もう青峰くんの体の一部のようにも見える。

「すごいですね」

 黒子くんが、ほうっと息を吐いた。バスケ馬鹿だから、と私は笑って答える。

「でもそのバスケ馬鹿に付き合える黒子くんも、結構バスケ馬鹿だよね」

 私が言うと、黒子くんはまた一瞬、顔をやわらかくさせた。

「バスケは好きです」

 でもすぐにむうっと、少し不満そうな表情を作る。

「……ですが、馬鹿は青峰くんだけです」

 あ、もしかして見かけによらず、結構毒舌?
 黒子くんが戻ると、青峰くんは途端に顔を輝かせて「もっかいやろうぜ!」とボールをはずませた。はい、と黒子くんがうなずくと、また、1on1が始まる。
 黒子くんを知れた、とはまだ断言しがたいけれど、今日でだいぶ、黒子くんを見ることはできた気がする。存在感なくて、不思議で、掴みどころのない人。でも確かなのは、今、青峰くんを笑わせているのは紛れもなくあの人だ、ってこと。
 そしてなにより、青峰くんに負けないくらいにバスケを楽しんでいるその姿が、黒子くんがどんな人なのかをはっきりと私に語りかけてくれているようだった。
 だって青峰くんが言うには、バスケ好きなやつに悪いやつはいねえ、だもんね。


up:2017.11.10