series | ナノ

「オレ、さっちんのこと好きー」

 病院のピロティに設置されたベンチに腰掛けてイチゴメロンパンを食べていたら、隣で同じくチョコチップメロンパンを食べていたムッくんにそう告げられた。突然のことに、飲み込む一歩手前だったパンのかけらが気管の方に入って、むせてしまう。長い脚を持て余すように前へと伸ばしているムッくんは、「やっぱおいしいー。東京に来たら絶対このメロンパン食べようって、決めてたんだよねー」と、相変わらずの間延びした声で独り言を言っていた。

「ムムムム、ムッくん!? 急にどうしたの!?」

 咳き込みが落ち着いてから、でも気持ちは全然落ち着かなくて尋ねると、ムッくんは小首をかしげた。

「どうって、どうもしないよ。好きって思ったから、そう言っただけじゃん?」

 当たり前でしょ、って顔で答えたムッくんは、右手に持つメロンパンを大きな口であっさりとたいらげて、二個目に取りかかろうとパン屋さんの袋をあさった。今度はオーソドックスな、プレーンのメロンパン。骨折のせいで左手の使えないムッくんは、右手だけでパンを取り出して、右手だけでまた食べ始める。
 アメリカのストリートバスケのチーム、Jabberwockとの試合が決着してすぐ、私とムッくんはこの病院を訪れた。試合中に左手を負傷してしまったムッくんの、付き添いとして私は来たわけだけど、病院の待合室に通されたムッくんが飄々としてまず言ったのが「オレの診察の間、さっちんはメロンパン買ってきてくれない?」だった。

「えー!」

 なんでそうなるの、という思いのこもった叫び声をあげると、「ちょ、うるさいんだけどー」とすごくいやそうな表情でムッくんが右耳に指を突っ込んだ。他の患者さんたちからも注目を浴びてしまった私は慌てて、ムッくんの隣に腰をおろす。今度はひそめた声で言った。

「私ムッくんの付き添いで来てるんだよ? それなのに治療の終わってないムッくん置いてメロンパン買いにいくなんて、できないよ」
「えー、なんでー? いいじゃん別に」
「よくないってば!」
「つーかさー、怪我人のお願いくらい聞いてよねー。とにかく食べたいの、食べなきゃオレは秋田に戻れないの。この骨折も治らないの」

 とかなんとか適当なことを並べ立てながら、ムッくんはハーフパンツのポケットから引っ張り出した携帯の画面を、私に見せた。「ここのお店のメロンパン、超おいしいんだってー。お金は後で払うからさ、買ってきてよ」と私に携帯を託す。でも、なんて渋っていた私を、最終的にムッくんは「いいから行って、早く」と手で追い払ったんだった。
 それで今私は、診察の終わったムッくんと一緒にメロンパンを食べている。治療が済み次第連絡をくれ、とカゲトラさんには指示されていたけれど、お知らせはまだしていない。

「こうやってさ、一緒にいるだけで楽しいの、さっちんだと。別にメロンパン食べてるだけなのにね」

 口の周りにメロンパンの砂糖をくっつけたまま、ムッくんが言う。左手をギブスで固定されたムッくんの、向こう側に見える病院の出入口から、おばあさんが吐き出されてきた。真夏の夕方、ピロティには直射日光が当たらないぶん少しはマシだけれど、それでもやっぱり暑い。甘いものを食べているせいか余計に喉が渇いて、病院の自販機で買ったミネラルウォーターのかさが、あっというまに減っていってしまう。

「好きだから楽しいって思うのか、楽しいから好きって思うのか、分かんないけど。でも、好きっていうのは本物だよ」

 ピロティを出たところにある駐車場から車のエンジン音が聞こえてきて、でもすぐに消えてしまった。ムッくんもそこで黙っちゃったから、自然、沈黙が広がる。ちょうどメロンパンを食べきってしまった私は手持ち無沙汰になって、間を、必要以上に意識してしまった。

「ム、ムッくん、何か飲む? 買ってきてあげよっか。さっきのジュース、もう飲み終わっちゃったでしょ?」

 何か言った方がいいのかな、と少し焦った私の口からこぼれたのは、そんな発言だった。「いらなーい」とムッくんは、私の提案を却下する。

「でも、喉渇かない? 試合終わってすぐ来たから今特に水分足りてないと思うし、飲んでおいた方がいいと思うよ」
「いらないってばー」
「で、でもさムッくん。ただでさえ骨折してるのに、そのうえ熱中症にもなっちゃったら大変だよ! やっぱりスポドリか何か飲んどいた方がいいって、」

 なんとなくムキになっちゃって水分補給を勧めていた私の言葉を、ムッくんは、はあーっという大きな溜息で断ち切った。

「さっちん、いちいち大袈裟すぎ。自分の体のことくらい、オレも分かってるし」

「ここに来る間も『大丈夫? 大丈夫?』ってずっとうるさかったしさー」と眉間にしわを寄せたムッくんが、メロンパンの包み紙を握りつぶす。

「とにかく、いらないから」

 そこで、ムッくんが私を見た。試合中とまるっきり同じ、ではないけれど、それに近いくらいのはっきりとした目つきだったから、私はつい、目をそらしてしまう。ほっぺたにじわじわと熱がともっていくのが、自分で感じられた。

「わ、私、カゲトラさんにお迎えの連絡してくるねっ」

 立ち上がった私の左手首を、ムッくんは掴んだ。

「逃げないでよ」

 ムッくんの大きな手に、私の手首はあっけなく包み込まれる。ベンチに座ったままのムッくんはさすがに私を見上げる形となっていて、その視線は、とても跳ね返せるような代物じゃなかった。数秒間固まった私は、おとなしく腰掛け直す。ムッくんは三つ目のメロンパンに取りかかり始めた。

「――その『好き』って、どういう意味?」

 逃げるな、と言われてしまった私は、核心を突くしかなかった。ムッくんは真正面を向いたまま、口の中のものを普段よりもゆっくりと咀嚼して、ゆっくりと飲み下してから、答えた。

「さっちんにオレのこと、ずっと考えててほしいって意味」

 耳の中をずっと満たしていたセミの声が一瞬途切れて、すぐにまた鳴き出した。私の左側にいるムッくんは表情を変えずにメロンパンを食べ続けていて、その横顔にかかっていた髪がだらりと動いた瞬間に、私は手のひらで顔を覆って、腿に突っ伏してしまった。全身が、内側から熱い。

「それって告白じゃない……」
「最初っから告白してたじゃーん。気づいてなかったのー?」

 あっけらかんとしたムッくんのコメントが上から降ってくる。恥ずかしさと照れくささと、いろんな感情がごちゃごちゃになってあふれて、あんまり熱っぽいから泣きそうにすらなっていた。腿の裏の、スカートの丈が及んでいない部分が、汗でべたつく。木目のベンチにぺったりと貼りついてしまう。ああ、もう。
 告白されてる側の方がいたたまれなくなってるなんて、ずるいよ。

「わ、私のことどのくらい好きなのっ? ほんとに好きなのっ?」

 ヤケになりながら勢いよく顔をあげて訊くと、ムッくんは眉をひそめた。

「どのくらいとか、そんなの分かんねーし」
「じゃ、じゃあ、私のためにそのメロンパン投げ出せるっ?」

 ムッくんは、意味分かんない、って顔をしながらも手元のパンを眺めた。そして言った。

「うん。まー、いけるかなー」
「じゃあ、ジュースは? ムッくんがさっき飲んでた、グレープジュース!」
「らくしょー」
「じゃあじゃあっ、お菓子は? まいう棒とかポテチとか、チョコとか」

 たちまち、ムッくんは難しそうに考え込んでしまった。うーん、とうなっている。その反応だけで私はお菓子に負けちゃう(少なくとも勝てはしない)ことが分かっちゃったけど、あまりにも素直な反応を見せてくれたムッくんに、私はなんだかおかしくて、嬉しくなってしまっていた。ふふ、と笑いが漏れる。

「あ、今のって『できるに決まってんじゃん』って即答しなきゃダメだったところじゃね?」
「あはは、もういいよムッくん。変なこと訊いてごめんね」

 座板のふちを掴みながらムッくんを覗き込むと、「そう?」とムッくんは口元をやわらかくした。それから、続ける。

「オレさー、なんで好きとか、いつから好きとか、そういうの訊かれても困るけど。でもちゃんと、さっちんが好きだよ」

 そこだけは信じてよね、さっちん。ムッくんの台詞が、私の胸の深くてやわい箇所にそっと、舞い落ちた。心臓がぐんと、ムッくんの方へと引っ張られる。苦しくて痛いけれど、甘いような衝撃。
 今度は私が、告白する番だった。

「……私ね、ムッくんのこと、実はちょっと苦手だなーって思ってたの」
「うん、知ってる」
「え、知ってたの!?」
「ちょっとー、なんでそんなに驚くのー? そこまで鈍感じゃないんだけどー」

 さっちんってたまに失礼だよねー、とふてくされたムッくんを、ごめんね、と苦笑してなだめた。

「でもムッくん、そんなそぶり全然なかったから」
「当たり前じゃん。わざわざ気ィ遣うのとか、めんどくさいし」

 ムッくんらしい言い分に、しゅるしゅると、一気に拍子抜けしてしまった。あはは、と声に出して笑った私を、ムッくんはちょっと引いたような目で見て「え、なに、怖いんだけど」とストレートなコメントをくれる。その、げええ、って視線ですら今の私には笑いを誘う要因になって、目尻に涙を浮かぶほどだった。雫を指で拭いながら、私もまだまだ足りなかったんだなあ、なんてことを思う。ムッくんのこと、もっともっと、知ろうとすればよかった。
 でもそれは、きっと今からでも遅くないよね、ムッくん。

「あのねムッくん。ムッくんの考えてること、私にはいまいちよく分からないの。だからムッくんのこと、ちゃんといつも教えてほしいな」

 私が言うと、ムッくんはきょとんとした顔になって、それから自分の食べかけのメロンパンを私の唇にキスさせた。パン生地のふわふわが、私の口と優しく接触する。

「今はね、さっちんとこうやって甘いものとかお菓子とか、一緒に食べられたら楽しいだろうなーって、思ってる」

 前髪が揺れて、ムッくんが微笑んだ。甘くてきらきらして、大好きなお菓子を目の前にした時の表情と、少し似ている。横から見てるぶんにはこのきらめきに気づけなかったけど、自分をほしいって思ってくれていることがこんなにもダイレクトに伝わってくる瞳で見つめられていたお菓子たちは、食べられてしまうことがきっとすっごく嬉しかったんじゃないかな、と思った。たぶんそれは、ムッくんがお菓子を食べることによって得る幸せな気持ちよりも強い感情だったんじゃないかな、とも。
 だって目と目を合わせているだけで、こんなにも心地いいんだから。
 でもそれはバニラエッセンスのような完全に甘ったるいものではなくて、シナモンのようなぴりりとした辛さもまとっている。そこがなんだか、「自分は今から食べられてしまうんだ」って危険を忘れさせてくれなくて、背中に淡く鳥肌が立つ。
 こんな目ができるんだから、ムッくんってすごく、男の子だ。

「えいっ」

 差し出されたメロンパンを一口噛みちぎると、少しアーモンドの香りのする生地とメロンの風味が鼻を通り抜けた。さっきまで食べていたイチゴ味とはまた違ったおいしさに、もう一口、と欲が出た私から、でもパンは遠ざけられてしまう。

「全部食べちゃダメ」

 ムッくんが頭の上にまで、パンを持っていった。えー、と私はむくれる。

「おいしいものは会えない間、大切に大切にとっておくの」

 そうすれば寂しくないでしょ、めんどいけどオレ秋田戻らなきゃだし、とムッくんは言った。

「その代わり次に会った時は、いっぱいいっぱいあげるから」

 好き、っていう想いと一緒にムッくんにふれたかったけど、次の時にいっぱいいっぱいほしいから、「うん」とうなずくだけにして、我慢した。おとなしく唇についた砂糖を舌で舐め取っていると、ふっと、ムッくんが近づいてくる。え、と思った瞬間に、唇が重なっていた。

「あー、もうイチゴの味しないじゃん。オレも食べたかったのにー」

 両手で口を覆ってわなわなと震えている私に、ムッくんは涼しげな、どこか余裕のある笑顔で、言った。

「ごめん、オレが我慢できなかった」


up:2017.11.09