series | ナノ

「さつきかわいいのにさ、バスケばっかじゃん。ちょ〜っとくらい恋とか興味持っちゃってもいいんじゃない?」

 中学生の時、友達のやよいはそう言って私のほっぺたをつついた。

「さつきちゃんってかわいいけど、なんかちょっと変わってるよね」

 帝光バスケ部で一緒にマネージャーをやっていたみっちゃんとあっちゃんは、そう言って苦笑した。

「桃井さんのこと、かわいいなってずっと思ってたんだ」

 これまで私に告白してきてくれた男の子の何人かは、そう言って照れくさそうに額を掻いた。
「かわいい」って言われれば言われるほど、言葉の魔法で女の子はもっともっとかわいくなれる。そんな言い伝えも、あながちうそじゃないのかも。そんなふうに胸が躍るくらいには、私は「かわいい」って言ってもらえると嬉しかった。ぽかぽか陽気の春、一面に咲いた菜の花とサクラソウ畑のまんなかで、淡い小花柄のワンピースを着てくるくるスキップしているような、そんな気持ちになって、酔っぱらうくらいに「女の子」を満喫できたから。
 かわいい、って思われたい。綺麗、って見つめられたい。女の子だもん、そういう望みはいつだって、当たり前のように持ってるの。

「うっせーよ、ブス」

 ……なのにどうして、いつだって私の一番近くにいる人は、こんなことばっかり吐き捨てる大ちゃんなんだろう。

「『うっせーよ』じゃないでしょ! もうすぐお昼休み終わるのに、なんで昼寝の体勢に入ってるのよ!」

 高校の屋上の、ペントハウスの上。もはや大ちゃんの定位置となっているそこで、今も大ちゃんは溶け出したアイスみたいにどろっと寝っ転がっていた。十月の終わり、晴れていても少し肌寒いくらいなのに、大ちゃんはそんなこと全く気にしていないらしく目を閉じたままだ。

「午後イチの授業なんざ、教室にいたってどーせ寝るだけだろが。だったらここにいた方がマシだろ」
「開き直らないの!」
「あーうぜえ。いいから消えろ、ほら早く」

 しっしっ、と追い払うように片手を振った大ちゃんは、私に背中を向けた。溜息を吐いて、私は腕時計を確認する。五限が始まるまであと三分。
 今ではちゃんと……とは言いがたいけど(だって未だに遅刻癖が抜けないし)部活に参加している大ちゃんは、でも授業の方は相変わらずサボり気味だった。気まぐれに教室へ来て自分の席でふんぞり返ってたと思ったらいつのまにか姿を消していたりして、担任の先生も手をこまねいている。二年生に進級して大ちゃんと同じクラスになった私は、だからこうして気がつき次第、大ちゃんを授業に参加させようと格闘してるんだけど、勝率は二割もいかないくらいだった。
 腰に手をあてて仁王立ちした格好のまま、大ちゃんを見下ろす。左腕を枕にした大ちゃんはぴくりとも反応しない。この状態になっちゃったらもうてこでも動かないことを私はいやってほど思い知らされているから、悔しいけど諦めるしかなかった。

「じゃあ大ちゃん。私もう行くからね」
「おーおー、とっとと消えろ」
「六限はちゃんと出なきゃだめだよ!」
「気が向いたらなー」

 脱力しきった声で、大ちゃんがさらにコンクリートの上にゆるむ。身を翻して梯子に足をかけようとした私だけど、それを見たらやっぱりムカついたから大ちゃんに飛びかかった。

「このー!」
「って!」

 後ろから襲ったら、大ちゃんは見事にうつぶせに倒れて顔面を打っていた。「てめえブス!」と起き上がった大ちゃんのほっぺたを、思いっきりつねって引っ張る。余分なお肉のついていない大ちゃんの顔は締まってて、全然伸びてくれなかった。

「にゃにしゅんだへめえ!」
「なに言ってるか分かんないもんねー」

 つまんだ頬をぐりぐりと掻き混ぜるように動かしていたら、お尻の後ろで体を支えていた大ちゃんの手がいきなり宙に浮いて、そのまま私の頬を捕まえた。

「いひゃひゃひゃひゃひゃっ」
「ひゃなしぇー!」

 二人して日本語にならない日本語を喚き散らながら、睨み合う。先に負けたのは案の定私で、大ちゃんのほっぺたを解放した私の手はそのまま彼の肩に着地し、体を、今度はあおむけに押し倒した。ごつ、と背骨とコンクリートのぶつかった、硬い音がする。私の頭は、大ちゃんのおなかにのっていた。

「おいさつきィ……てめえどういうつもりだ」

 首だけを起こした大ちゃんが鋭すぎる眼光でもってすごんだけど、私はつんと澄まして、そっぽを向いた。

「だってムカついたんだもん」
「『もん』じゃねーよ! お前マジぶっころすぞ!」
「ふん。やれるもんならやってみればいいじゃない」

 と言ったら、「あーそうかよ」とうなった大ちゃんにぐいっと引き寄せられて、ブレザー越しにわきをくすぐられた。私の弱い部分と加減を知り尽くしている大ちゃんの手つきはさながらプロで、私は「あはははっ」とおなかがよじれて止まらなくなる。

「ちょ、大ちゃんだめっ、ひゃっ!」
「笑い死ねっ」
「きゃっ。ギブ、ギブアップ大ちゃん!」

 私が降参を訴えると、大ちゃんはやっと引っ込んでくれて、はっ、と勝ち誇ったように鼻を鳴らした。

「ブスが調子のるからそうなんだよ」

 大ちゃんの口から平然とこぼれた「ブス」に、私はまたむっとしてしまう。

「もー、またブスって言った!」
「あ? ブスはブスだろ?」
「女の子にブスなんて言っちゃだめなの!」
「うっせーブス」

 私が非難すればするほど、大ちゃんは「ブス」を連呼する。耳の穴をほじりながら馬鹿にしたような薄笑いを浮かべている大ちゃんに、アヒル座りをしたままで私は「大ちゃんのあほんだら!」と悪口を投げつけた。

「私のこと『かわいい』って言ってくれる子だっているんだからねっ」
「はあ? 目やにでもつまっててよく見えてねえだけじゃねーの?」

 重心を背中側へ傾けてあぐらをかいた大ちゃんは、頑として「桃井さつき=ブス」を撤回しない。別にそんなのいつものことだけど、だからって「はいそうですか」なんて受け流しちゃうのは癪だった。大ちゃんの脚の、膝頭をぺしっと叩く。

「ばかっ。私のことブス呼ばわりするの、大ちゃんくらいなんだから」

 風が吹いて、舞い上げられた私の髪が視界を塞いだ。普段よりも空に近い場所にいるせいか、耳の中でうなる風音がものすごい。わっ、と思わずうつむいて強風をやり過ごしていた私の、顎が強引に持ち上げられて、上向いた。

「大ちゃん?」

 髪の毛が元の位置に戻ると、私の目は大ちゃんのそれと合わさっていた。片方の眉だけ吊り上げて、何かを吟味するように大ちゃんは私を覗き込んでいる。掴まれた顎は右や左にぐいぐいと方向を変えられた。「大ちゃんてば」と少し慌てて追及した私を、大ちゃんはさらにくっと引き寄せる。近すぎて相手の顔の全体が見えなくなるくらいに。なんでか頬がほてった。
 なに、なんなのよ、もう!
 いよいよ大ちゃんを突き飛ばそうかと思ったところで、大ちゃんの指先はぱっと、私から離れた。

「やっぱ、どっからどう見てもブスだわ」

 そんな言葉と一緒に。
 恥ずかしさと怒りで、頭に血がのぼる。罵声を浴びせる、実力行使に出る、あからさまにすねてこの場を立ち去ってみる――大ちゃんに仕返しする方法はいくらでも思いついたけれど、そのどれも、私はできなかった。せめて、きっと真っ赤になっている顔を見つけられてしまわないように、両手で隠す。しゅるしゅると、頭のてっぺんから蒸気が抜けていくようだった。

「ほんっと、サイテー……」

 対抗するための言葉にも、覇気が出ない。でも、そんなのは当たり前なのかもしれなかった。だって一瞬でも大ちゃんにときめいちゃっていた私は、その時点でもう、負け確定だったんだから。
 ほんとずるいよ、大ちゃん。
「かわいい」だとか「素敵」だとか「おしゃれだね」とか、女の子を輝かせてくれる言葉の何一つ言ってくれない大ちゃんに、私は一番、振り回されている。

「――ねえ、大ちゃん」

 顔を覆ったまま声を絞り出したら、くぐもって濁っていた。あ? と大ちゃんが返事をする。

「私に『ブス』なんて言うの、大ちゃんだけなんだからね」
「安心しろ、思ってても言わねえだけだから他のやつらは」
「……そうかもしれないけど」

 でも、実際に直接「ブス」なんて言葉をぶつけてくるのは、大ちゃんだけだ。私の胸の底の底、ずっと深くからえんえんと積み重なっている「ブス」は全部、大ちゃんのものなんだ。たぶんその領域はとても硬い、例えば鉄とか鋼とかでコーティングされていて、他の誰の「ブス」も入ってこられないようになっている。私の体の一部を、大ちゃんのためだけの領域が貫いている。それがどれだけ私を翻弄してるのかってこと、大ちゃんは一切、いっさあああい、分かってない。だから私は、もういい加減感覚が麻痺しているはずの「ブス」にいちいち目くじらを立ててしまうんだ。自分の放つ「ブス」にどれだけの威力と意味がこめられているのか、全然意識しないままで無邪気に繰り返す大ちゃんが、私は憎たらしい。

「ほんとに、大ちゃんだけなんだよ」

 つぶやく。大ちゃんは相槌を打たない。

「ブスって言わないでほしい。それはほんとだよ。当たり前じゃない、私女の子なんだから。女の子にブスって言っちゃだめなんだから」

 でもね、と私は無意識に、続けてしまう。

「ブスって、言ってほしいの。大ちゃんしか言わないから、大ちゃんだけの『ブス』だから、言ってほしいって、思うの」

 ゆっくりと、顔をあげる。大ちゃんは真顔で私を見据えていた。まぶたの裏に熱がともって、泣きそうになる。

「私、おかしいのかなあっ――」

 瞬間、私の後頭部に片腕が回って、ぐんと突き上げられた。バランスを崩した私の顔の上に、大ちゃんの顔が降ってくる。
 あ、と思った時にはもう、私と大ちゃんの唇が、合わさっていた。
 息を止めてぎゅっと目を閉じて、どうすればいいのか迷っている間に、大ちゃんは私を放す。秋の空気に溶けるようにして、授業の開始を知らせるチャイムが響いていた。

「……妙な告り方してんじゃねーよ」

 低く、冷たく、囁かれて、反射的に「告ってないもん!」なんて抗議しようとした私の鼻先を、大ちゃんは自分の肩にぽんと伏せた。大ちゃんの制服から、ほこりと汗とおひさまのにおいがする。大ちゃんの体温がじかに、私へと流れ込んできた。熱い。
 こんなのもう、どうしようもないじゃない。

「……私、テツくんが好きなのに」
「どうせこうなるって、お前も分かってたんだろ」

 大ちゃんの手の中で、私の髪がもたつく。唇を尖らせて、私は大ちゃんの胸にグーを置いた。
 別に、全部を分かっていたわけじゃない。テツくんのことだって、私は本当に好きだった。ただ、さっき大ちゃんが言った「どうせ」みたいな、そういうのは絶対いやだって思っていたのも、確かだった。
「どうせ」なんて、ロマンチックじゃない。結局最後には大ちゃんを選ぶことになるんだとしても、私は、大ちゃんをきちんと男の子として好きになってから選びたかった。そうするしかないんだっていう「義務感」とか、そうするのが当然だっていう「単なる事実」とか、そういう作用で選択するんじゃなくて、「恋」をしたかった。
 だって女の子だもん、大好きな運命の人と、めくるめく恋をして攫われたいじゃない。

「こんなの、テツくんに幻滅されちゃうよね」
「そりゃねえだろ、テツのやつ最初っからお前のこと眼中にねーし」

 あまりにもあっさりと指摘されて、さすがにむうっとしてしまった。大ちゃんから離れて、睨み上げる。

「なにようっ! だいたい、大ちゃんこそ私のこと好きなの!? そんなそぶり見たことないんですけど!」

 べえっと舌を出してみせると、大ちゃんはこめかみをひくつかせた。「てめえ……」とドスのきいた声で私を睨み返してから、はん、と嘲るみたいに笑う。

「まあしゃーねーな、お前で我慢してやるよ。マイちゃん結婚しちまったし。ブスだけどおっぱいは育ってるみてえだからな」

 今度こそ全身の血を沸騰させた私が、噛みつく前に大ちゃんは私を腕に閉じ込めた。そのまま横になったから、私の頭は再び、大ちゃんの胸元にくっつく。

「いーから黙れ。昼寝すんだよオレは」

 大ちゃんが呼吸するたびに、鎖骨の下が浮いたり沈んだりしているのが感じられた。すぐそばにある大ちゃんの心臓はびっくりするくらいどくどくと脈打っていて、私はそこでやっと、大ちゃんの本当の気持ちに辿り着く。そうしたらつい、口元がゆるんでしまった。
 まったく、素直じゃないんだから。

「大ちゃん、私のこと好きなんだ」
「おう。お前じゃなくておっぱいがな」
「……ほんっと、減らず口」
「うっせーよブス」

 大ちゃんを見上げたらすでに目をつむっていて、眠りの準備に入っていた。彼のほっぺたの、輪郭の部分を私は人差し指でなぞる。

「またブスって言ったー」
「お前が言われたいっつったから言ってやってんだろが。感謝しろブス」
「はいはい」

 私の背中に添えられた大ちゃんの左手が、あったかい。いつだってバスケットボールを自由自在に操ることができる、おっきな手だ。私はそれを好きだから、大ちゃんの、赤々と染まっている耳たぶには見なかったふりをしてあげた。ぎゅっと、大ちゃんの中へ身を寄せる。
 これはきっと、恋になってくれるよね、大ちゃん。
 二人してサボってしまった数学の授業を思いながら、私はそっと、大ちゃんの名前をつぶやいた。


up:2017.10.27