story | ナノ

※諏佐内野アンソロジー様に寄稿させていただいたものです


「うちに来るで、青峰大輝」
 水飲み場の蛇口を上向けて顔を洗っていた諏佐の、背後に立って今吉はそう告げた。
 十一月ももう終わりに差しかかって、体育館の外は肌寒い。それでも諏佐は練習着の長袖を豪快に捲り上げ、何も言わずに水を浴びていた。今吉は、自分より幾分広い諏佐の背中をただ見据えて、続ける。
「せやから諏佐には――副主将には色々迷惑かけるやろうけど、まあ頼むわ」
 水栓をひねり、緩慢に振り返った諏佐の顔の輪郭には、水滴が幾筋もとろとろ伝っていた。前髪は湿って、額にぺったりと貼りついている。
「お前にしては、殊勝な物言いだな」
 そう言った諏佐の口元は、普段とは違ったふうに歪んでいた。自分を守るために笑顔を取り繕おうとしているのだけど、隠匿しきれない卑屈さが一点、風呂場の頑固なカビ汚れみたいにこびりついてしまっている。
「分かった」
 風が吹いて、体育館の方へと戻っていく諏佐の後ろ姿を眺めていた今吉の視界を、黄葉した銀杏の葉が木から振り落とされて、横切っていった。何枚も何枚も、薄い水色の空に吸い込まれるように飛んでいき、太陽に透けたり逆光になったりする。
 顔面に向かって飛んできた一枚を捕まえた今吉は、それを手の中で一思いに握りつぶした。
 つまらん。
 ぐちゃぐちゃに破れた葉を地面に投げ捨てて、今吉はそれを勢いよく足で踏みにじる。

 インターハイ、都予選で敗退した桐皇学園男子バスケットボール部は、今吉を主将とした新体制に移行し、厳しい練習を重ねていた。副主将に就任した諏佐とともに部員を先導する今吉は、自らの采配に揺るぎない自信を持っていたが、同時にたった一つ、不満も抱えていた。それは本当に些末な事柄で、なぜこんなものに捉われているのだろう、と疑問に思わないでもないのだけれど、とにかく気に入らないものは気に入らない。
 諏佐だ。
 副主将になってから、諏佐は変わった。それ以前は他の部員と同じように、つらい練習に他愛ない愚痴をこぼしてみたり、休憩中にふざけてどつき合ってみたり、たいして面白くもない会話におなかを抱えて笑ってみたり、と忙しかったのに、副主将を任されるようになってからはそういったことをほとんど一切行わなくなった。真面目な顔、というよりは仏頂面といった方が正しい表情で、自分の中身を、感情を、表にすることなく「強豪バスケ部副主将」としての役割を、ただ黙々と果たしている。笑って怒って悩んで疲れて喜んで、と分かりやすかった「諏佐佳典」は、「副主将」という肩書によって、降り積もった分厚い雪のかたまりに覆い隠されてしまったかのように、見えなくなっていた。
 ワシがほしいのは、そないにつまらんもんやないのに。
「わっ」
「げっ」
 唐突に今吉が大声をあげてみせると、彼の前髪にふれていた諏佐の指先はずるっと滑った。黒く細かい髪の残骸が、砂鉄みたいにばらばらとこぼれ落ちていく。
「ちょお諏佐、今絶対失敗したやろ」
「お前が変な声出すからだろ!」
 プリントの上に散らばった毛を弄びつつ今吉が唇を尖らせると、諏佐は、もう知らねえ、とでも言いたげに鋏を放り投げた。ローテーブルの天板とぶつかって、ごん、とにぶい音が鳴る。そのままカーペットに寝転がってしまった諏佐は、どうやらもう今吉に構う気はないらしい。
「やって諏佐が変顔してワシを笑かすから」
 と、言いながら今吉は木枠のスタンドミラーを覗く。案の定、前髪の一部が、そこだけ不自然に短くなりすぎていた。「笑かしてねえよ」という諏佐の突っ込みをまるごと無視して、今吉はぶうたれる。
「あーあー、最悪やんこれ。どう落とし前つけてくれるんよ」
「オレのせいにすんな。つうか毎回毎っ回オレに前髪切らせてんじゃねえよっ」
「そう言うたってなあ。めんどくさいんやもん」
 床に脱力したまま、諏佐はへの字口で今吉を見上げた。はあー、とあからさまに大きな溜息を吐いて、テーブルの下で胡坐をかいていた今吉の、膝頭にでこぴんを喰らわせる。
 実際、「面倒だ」というのも今吉の本心ではあった。でも本当はそれより、散髪しようとすると目の前に接近する諏佐の顔が作り出す、変幻自在の表情を眺めているのが楽しいから、というのが本音なのだけれど、そんなことを暴露しようものならもう二度とカットなどしてくれなくなるだろうことは明白なので、秘密にしておく。
 変に突き出された下唇とか、眉間にぎゅっと寄ったしわとか、観察してるとなーんかおもろいんよなあ……なんて考えてにやにやと口元を崩していた今吉を、ゴミを食い漁るカラスでも見るような目で諏佐は一瞥した。そんな視線、今更痛くもかゆくもない今吉だけど、なんとなく気に入らなかったので諏佐の特徴的な鼻の先っぽをつまむ。その、今吉の手を邪険に追い払って諏佐は起き上がり、学習机と向かい合ってしまった。お前の顔見てると気が散るから、なんて失礼極まりない宣告を一方的にかました諏佐は、部屋で受験勉強をする時には必ず今吉をローテーブルに追いやって、自分は学習机で悠々と数学やら古典やらに取り組んでいるのだった。
 傍らのラジオを点けて参考書と格闘し始めた諏佐の背を、頬杖をつきながら今吉は見つめる。
 机とラジオとバスケの雑誌くらいしかない諏佐の部屋に今日今吉が訪れたのは、勉強をするためでも、ましてや前髪を切ってもらうためでもなかった。でも諏佐があまりにもいつも通りすぎて、本題を切り出せない。
 ……いや、ちゃうな。
 今吉の眼光が鋭くなる。常時閉じられているみたいに細い、切れ長の瞳が、かすかに見開かれる。
「いつも通り」なんやない。いつも通りを装おうと、無理矢理感情を押し込めているだけや。
「コンバートの件、聞いたか?」
 襟首の部分が伸びかけているTシャツの後ろ姿に、率直な質問を投げかけた。諏佐は一瞬だけ肩を跳ねさせて、でも今吉の方を振り返ることはしないで答えた。彼特有の、若干高く、鼻にかかった声で。
「聞いたけど」
「諏佐はそれでええの」
 間があった。換気のため半分開放された窓から、網戸越しに晩秋の冷たい風がなだれ込んでくる。諏佐の裸足に、ぐ、と力が加えられ、回転椅子が回った。
「何が言いてえんだよ」
 それ以上踏み込んでくるな、とでも撥ねつけるように諏佐は今吉を睨み下ろしていた。はは、と小さく笑って、今吉はひらひらと片手を振る。
「そないに怖い顔すんなや」
 にらめっこをするみたいに、しばらく二人はお互いから目を背けなかった。先に根負けした諏佐は、何事もなかったかのようにまた机に向き直る。なんやの、と今吉は、両肩を上げた。
 抑え込んどるつもりなんやろうけどなぁ、自分の反応、構ってって言っとるんとおんなじやで、諏佐。

 監督から、青峰の加入に伴うポジションの変更を提案されたその翌日以降、諏佐はもうPFではなくSFとしての練習を開始していた。元々オールラウンダーで器用な諏佐であったから、特に大きな混乱を招くこともなく、コンバートは健康体の血液循環みたいにスムーズに行われた。諏佐は瞬く間にポジションに順応してみせ、元来SFであった部員でさえ彼のセンスと技術については、認めざるを得なくなっていった。
 この桐皇にあってレギュラーで、スコアラーとしても活躍してきた諏佐である。彼の能力について侮っていたり、過小評価していたりする者などいなかったが、諏佐はそんな彼らの想像をはるかに上回る実力を、見せつけた形となったわけだ。
 部員たちが、すごい、と感嘆するたび、さすがだ、と舌を巻くたび、「当たり前だろう」と今吉は思った。ポジションの変更などで埋もれてしまうようなバスケを、諏佐はしてきていないのだ。
 たとえそれが、青峰という絶対的な才能の前ではくすみ、霞みきってしまう程度のものであったとしても。
 諏佐が放ったボールを彼の目の前でスティールしてみせた瞬間に、今吉の鼻腔には諏佐の汗のにおいが届いた、ような気がした。そのまま今吉はターンオーバーしシュートを決め、西日射すコートに突っ立っている諏佐を振り返った。スキール音が脳を押す。
 今吉と視線を合わせた諏佐は、今にも舌打ちし出しそうに唇を噛んで、でもすぐに普段の無表情に戻ってしまった。「まだまだやな」とひやかした今吉の発言などまるっきり取り合わず、ミニゲームのチームメイトに向かって「わりぃ」と軽く頭を下げる。そのまま配置に戻っていこうとする諏佐を見て、珍しく今吉は、顔をしかめていた。
 そうじゃない。心臓の底から突き上げられるように、思う。
 それはお前じゃない。「諏佐佳典」では、ない。

 たかだか中学生が当然のように、つまらなそうにこの試合二十本目のダンクを叩き込んだ直後、インターバル突入を知らせるブザーが鳴り響いた。
 部室の、小さな液晶テレビで漫然と観戦していただけであるにもかかわらず、青峰のプレーは今吉と諏佐を沈黙させるには充分すぎるほど圧倒的だった。凡人が積み重ねた血反吐吐くほどの努力を、蟻を踏みつぶすかのように簡単にねじ伏せる彼の才能は、嫉妬の対象であり恐怖の対象であり、憤怒と羨望の対象でもあった。今吉は強張っていた総身をやわらげ、パイプ椅子に凭れかかる。
 つい先日帝光に赴き、青峰本人に指摘してやったように、彼には敗北を望むという危うさがある。だが帝光の――キセキの世代の試合を研究にするたびに、思うのだ。この天才たちの中にあってエースの座を掴んでいた男が、はたして敗北することなど可能なのだろうか、と。
「やっぱ化けもんやなぁ。これで中坊とか、反則やろ」
 ジャージの上着の袖を引っ張って、今吉は首裏を掻いた。諏佐は固くこぶしを握って、ただビデオの映像を追っていた。部活が終了し、若松ら部員を全員帰宅させたあとで始まった二人きりの鑑賞会は、張ったばかりの薄氷の上を歩くような緊張感を伴っている。
 蛍光灯に照らされて、諏佐の頬は青白く光っていた。底冷えするような部室の中で、隣の諏佐から伝わってくる体温だけが、今吉をほてらせる。
 諏佐の、垂れた目尻のきわに焦点を合わせながら、彼の横顔に刻まれている感情の正体を今吉は探ろうとしていた。――屈辱と怒り。それも、青峰に対してではなく、自分に対しての。
「でも、これが味方になるんなら頼もしい限りやわ」
 大袈裟に声を張り上げて、今吉は発言してみせた。テレビの中では、青峰が、尋常でないスピードと敏捷性を駆使したクロスオーバーを披露している。
「諏佐もそう思うやろ?」
 覗き込むようにして今吉が問うた瞬間に、諏佐はリモコンを引っ掴んで映像を停止させた。無音が降る。
「……そうだな」
 もういいだろ、とつぶやいて諏佐は腰を上げた。部室を出ていく直前、ドア口で立ち止まり、首を少し上に傾けて振り返る。
「青峰には敵わねえよ」

 ご飯茶碗にこんもりと盛られたぎんなんと相対している男の存在は、食べ盛りの高校生がぎゅうぎゅう詰めになった寮の食堂の中でも明らかに異様で、今吉の注意は引きつけられた。
 その日の夕食はぎんなんと栗の炊き込みご飯で、男はつやつやと輝くぎんなんを前に(なぜか栗の姿が一切見当たらない)、顔全体をゆるませて一心不乱に箸を動かしていた。男の背後を通り過ぎた生徒が自分の茶碗から男の茶碗へとぎんなんを投げ込んでいるのを見て、あんなふうにして富士山が出来上がったのか、と今吉は妙に納得してしまう。男は振り向き、ぎんなんを移動させた人間の脇腹に、ふざけて手刀を差し込んだ。
「サンキュ」
 うわ、幸せなやっちゃなあ。
 男の、それはもう嬉しそうな、初めてテストで満点を取った小学生みたいな無邪気な笑顔を目撃して、今吉がまず抱いたのはそんな感想だった。たった一粒のぎんなん(それはきっと男の好物なんだろうが)でこれほど純粋に喜べるのだ、男の人生は総じて楽しく、能天気なものなのだろうと、少々小馬鹿にするような気持ちもふくませつつそう思った。
 食事の時間が始まったばかりの食堂は混雑して、人のにおいと油のにおいが入り混じっていた。ふらふらと席を探していた今吉は、男のちょうど正面が空席であることに気づき、そこにお盆を置いた。男が顔を上げる。目が合った。
「自分、ぎんなん好きなん?」
 男は、わずかに戸惑うような様子を見せたのち、まあ、と浅くうなずいた。ふわふわと立ち上る湯気が、彼の顎に当たって今吉との境界をくもらせている。
「せやったら、やるわ」
 今吉が茶碗を差し出すと、男はぽかんとして今吉を見返した。それから、おそるおそる、でも期待に満ちあふれたように箸を伸ばしてくる。
「やっぱやめた」
 男の箸先が米粒に沈んだぎんなんにふれる寸前、今吉は茶碗を引っ込めた。そのままご飯をかっ込む。標的を突然失った箸先は、夕日にあたためられる迷子みたいにぼんやりと、途方に暮れていた。
 男と今吉の視線が、もう一度重なる。
「美味いなぁ、これ」
 途端、男は憮然とした表情になった。今吉を一睨みしてから、猛然と食事を再開する。
 それが、今吉と諏佐の最初の会話だった。高校一年の秋、銀杏の葉が木枯らしにさらわれる季節のことだった。

 この部の同級生で自分と同程度の実力を備えている人間は諏佐だけだと、早いうちから今吉は知っていた。それでも長い間接点を持たなかったのは、諏佐という人間の性質が、今吉のそれとはあまりにもかけ離れていたからだ。
 部室で、仲間とくだらないことで爆笑する。四限終了のチャイムと同時に教室を飛び出し、購買ダッシュをする。クラスの女子や芸能人の名前を挙げながら、どんな女性がタイプかといった談義に盛り上がる。そういう、世にごまんといる男子高校生と同じように振る舞う諏佐は、今吉にとっては遠い存在だったのだ。これまで諏佐のようなタイプの人間と付き合った経験もなければ、二人を近しい関係にするための、はじめの一歩は中々踏み出されなかった。
 でも、炊き込みご飯の一件から状況は変わっていった。ことあるごとに声をかけてくるようになった今吉に、諏佐ははじめこそ訝しげに、警戒心を露わにしていたが、やがて慣れたのかあしらうなどといった対応を取るようになった。
 諏佐のことを、今吉は理解しがたい。彼は好きなラジオ番組をせっせと聴いては投書したりなどしないし、イベントごとに頭を空っぽにしてはしゃいだりもしないし、授業中にうっかり舟をこぐといった他人に隙を見せるような真似も、絶対にしない。だが、理解できないけど、理解できないからこそ、面白いとも思った。一見凡庸でとるにたらない存在に感じられる諏佐も、ひとたびバスケットボールを携えればこの桐皇で十二分に活躍できる資質を、見せつける。おまけに頭もよく、そんな諏佐の内部に入り込んでいくにつれ、今吉は確信するようになったのだ。
 ワシを退屈させないのは、ここでは諏佐だけや。

 だから、自分ん中にある「諏佐佳典」をワシは殺してほしくないんよ、諏佐。

 高窓から降る陽光の上で、諏佐の手からボールが離れた。ネットをくぐり抜けたボールはワックスに光る床を跳ね、体育館にバウンドの残響を漂わせる。
「やっとるな」
 出入口に寄りかかって今吉が声を飛ばすと、こちらに背を向けていた諏佐が振り返った。制服姿に靴だけを履き替えていた諏佐は、露骨に迷惑そうな顔になる。
「なんだよ」
「つれへんなあ。昼飯も食わんと教室飛び出してった誰かさんが心配やったから、わざわざ様子見に来てやったっちゅうのに」
「別にいらねえっつの」
 ステージ下に転がっていたボールを拾って、再び諏佐は今吉に背いた。冬になりかけの外気はからっと澄んでいて、陽だまりの体育館には後ろ暗い部分なんて微塵もない。
 ふわふわと舞うほこりの断片たちが、陽に照らされて一瞬浮かび上がり、でもすぐに諏佐の影の中に呑み込まれていった。その、淡く暗い諏佐の分身を見つめながら、今吉は口を開く。
 諏佐がシュートを打った。
「そこまでしてコートに立ってたいんか?」
 ボールは支柱を軋ませながらゴールリングを一周、二周して、ネットを揺らすことなく落下する。
「PFとして今までずっとやってきたやんか。それを天才が来るからってあっさり譲って。プライドないんかいな」
 諏佐は身じろぎ一つしない。静寂が横たわると、頬を刺す空気の冷たさがより濃く、鋭くなったように感じられた。
「なあ諏佐、」
「うるせえよ」
 ゆっくりと今吉の方を見た諏佐の目が、今吉の双眸を射抜く。
「青峰に、勝てるわけねえだろ」
 不機嫌さを隠すことなく言い放った諏佐に、今吉はわざとらしく眉根を寄せてみせた。
「やる前から諦めるん?」
「そういう問題じゃない」
「じゃあなんや。ポジションもエースもスコアラーも、これからはみんな青峰のもんになるんやで。ムカつくやろ、ムカつかないはずないやろ。もっと足掻いたらええやん。抗えばええやん」
 行き止まりへと追いつめるように口撃しているうちに、ああワシが本当に言いたかったのはこれや、とほとんど恍惚として今吉は確信した。諏佐の全身を巡っているはずの、底の底に息づいているはずの、「諏佐佳典」を暴くための言葉。手段なんてどうでもいい、ぐちゃぐちゃに傷つけてでもどろどろに責めてでも、今吉はそれを引っ張り出してやりたかった。
 だって、そこにあるもんこそが本物の諏佐やろ?
「お前」
 諏佐は、今吉との間に置かれていた、ちょうどハーフコートぶんの距離を一気に詰めた。今吉の目の前に立ちふさがって、高圧的に彼を見下ろす。
「分かってて言ってるだろ」
 開け放されたままのスチール扉から風が吹きつけて、諏佐の前髪を揺らした。切迫したような雰囲気が息苦しいのか、諏佐がネクタイのノットを邪険そうにゆるめる。その、手の甲に隆起した骨と筋に軽く視線をやりつつ、今吉は肩をすくめた。
「なんの話や」
「とぼけんな。何がしたいんだよ」
 どうやら今日の諏佐は、ごまかしたりはぐらかしたりといった態度には流されてくれなそうだ。とぼけんな、と言われてしまったため、仕方なく今吉は直球で告げる。
「怒らせたい」
 悲しませたい泣き顔を見たい傷つけたい、でも、笑わせたい。
 諏佐を埋もれさす深雪など掻き分けて取り除いて溶かしきって、胸倉を鷲掴んで白日のもとに引きずり出してやりたい。
 あっさりと口にするには相当不気味で頭のおかしいような告白に、諏佐は数瞬、硬直した。でも今吉が、相変わらずの狐目に薄笑いを添えてただじっと見上げていると、呆れたように鼻から息を吐き出した。またか、とうんざりしたふうに首裏を揉む。
「そんなに興味あるかよ、オレに」
「やって」
 今吉は人差し指をぴんと張り、諏佐の左胸、心臓の辺りをつついた。
「諏佐が一番、おもろいやん」
 諏佐は白昼堂々野糞をしている人間でも発見したみたいな顔で今吉の手を叩き落とし、「光栄だよ」と言った。
 諏佐は、青峰や中学時代の後輩の花宮のように、天才タイプではない。上手くいって秀才になれるだろうかという、凡人側の人間だ。それなのに、それでも。
 自分にないものを持つ「あちら側」の存在に、今吉はずっと関心を注いできた。逆に言えば、「あちら側」の人間にしか関心がなかった。それが、明らかに「こちら側」の存在である諏佐に、時として「あちら側」より興味をそそられているのだから、今吉にとって諏佐はやっぱりイレギュラーだ。
 こんな言葉選びはまったくもって今吉の柄ではないのだが、特別、としか例えようがない。
 二人きりの体育館にもチャイムは鳴る。諏佐は踵を返して、放置されていたボールを回収した。用具室のそばに立っている今吉へパスをする。少し考えてから、今吉は歩いてきた諏佐に顎で指示を出した。
「シュートや」
 諏佐は目を丸くする。でも今吉にリターンされたボールをキャッチすると、それはもうお手本のようなドリブルとレイアップで、流れるようにシュートを決めた。
「せっかくゴールの方に投げてやったのに、なんでアリウープせえへんねん」
「この格好じゃできねえだろ」
「ユニでもやってるとこ滅多に見ィひんけどな」
「うるせ」
 屈んで拾い上げたボールを両手で抱えた諏佐は、なぜだか笑っていた。今吉が目をすがめて見ていると、バッシュを響かせながら戻ってきて、言う。
「青峰がいても」
 そこで言葉を区切った諏佐は、高慢とも挑戦的とも表現できる笑みを浮かべて、横目に今吉を見た。
「オレがいなきゃ勝てねえな」
 カッターシャツの白が外光を反射して、諏佐の顔をどこまでも明るく見せていた。ちょっとくさすぎたか、と自分の発言に対して気まずそうに唇をふにゃふにゃと噛み込んだ、その反応までひっくるめて今吉は、ああ諏佐や、と思う。表に出ることが少なくなったとしても、それは死んだわけでは決してない。
 だから早く「副主将」が、「諏佐佳典」の一部として馴染むように。自分を抑え込まなくても部をまとめ、導くことができるような、「桐皇男子バスケ部副主将・諏佐佳典」に、なれるように。
「今吉翔一」という主将の隣には、「諏佐佳典」という副主将がどうしたって必要だ。
「よう言うわ」
 笑って、今吉は諏佐の肩を小突いた。いて、と後ろに軽くよろめいた諏佐が、窓の形にくり抜かれた日なたの中に足を踏み入れる。瞬間、諏佐の毛先に一点、太陽の粒がくっついた。粒は次々にあふれては移動を繰り返し、諏佐の髪の毛をちかちかときらめかせる。それは今吉の網膜を強く強く焼いて、彼は自然、まぶしさに目を細めた。
 茶色がかった諏佐の髪は、澄明な陽光に透かされるときれいな金色に光る。まるで、太陽を一身に浴びながらそよぐ、黄葉した銀杏みたいに。
 今吉は諏佐の腕に守られているボールへと手を伸ばした。諏佐にボールを送って、諏佐にボールを送られて、そのつながりが途切れない限りきっと桐皇は勝てる。


up:2019.09.18