story | ナノ

 体育館の鉄扉を開けた瞬間に、向かって右側にあるゴールネットをボールがくぐり抜けた。ど、と重量のある音とともに、床を震わせる。
「赤司」
 センターラインに立っていた緑間がオレに気づき、シャツの襟口で汗を拭った。彼のもとに歩み寄りながら、オレは「随分安定して入るようになったんだね」と声をかける。ボールカゴに腕を入れた緑間は「そんなことはないのだよ」とつぶやき、乱れた息を整えた。
「まだ完全とは言いがたいからな。四十本に一本はリングをかすめてしまう」
「だが外しはしていないだろう。そのこだわりは、さすがの一言だな」
「人事を尽くすとは、そういうことだ」
 緑間がボールを構え、放つ。部活が終了してから一時間半、オレと緑間以外誰もいなくなった第一体育館の照明の中にボールは一瞬消え、まばたきをしている間にもうネットを通過していた。緑間は平然とした表情のまま、再び別のボールを取る。センターラインからのシュートを全く外さないという、己の力についてはすでに当然と捉えている様子だった。
 緑間だけではない。青峰も、紫原も、全中終了後一挙に才能の開花が始まった。それまでとはほとんど別人とも言える力を使いこなす三人を見ていると、頼もしい、そう思う反面、得体の知れないもやがオレの胸中を覆う。
 それは、「不安」と呼ぶべきものなのだろうか。
「二人ともお疲れさまー!」
 声がして、先程オレが入ってきた扉から桃井が顔を覗かせていた。彼女の背後に、黒く塗り潰された夜がある。
「差し入れ持ってきたよ!」
 まだまだ暑いねー、とぼやいた桃井は、緑間におしるこ、オレにスポーツドリンクを手渡した。礼を言うと、「全然全然」と笑ってポニーテールを揺らす。
「もうすぐ十月かあ。あっというまだね」
「つめた〜いが売れなくなる、とはいえあったか〜いは時期尚早。おしるこには疎ましい季節がやってくるのだよ」
「……なんかミドリン、大変そう」
「なんだその間は」
 二人の少々コミカルなやりとりに脱力しながらも、オレは足元に視線を落とした。バッシュを鳴らし、自分が今体育館の、コートに立っていることを、強く意識する。


 投げやりな、だが他を圧倒する青峰のプレー。元来の力と体格に速さの加わった、紫原の動き。より長距離からでも安定して百発百中な、緑間のシュート。
 三人の活躍によって、帝光中は全中以前よりも確実に、しかも易々と勝利を掴むことが可能となってきた。対戦チームは皆、彼らの活躍ぶりに呆然とし、恐怖し、絶望すらしていた。周囲との才能の差は一目瞭然だった。
 しかし、その強大な才能に戦慄したのは敵側だけではなかった。味方側――黒子も桃井も、同じ渦に飲み込まれ、だがどうすることもできずに現在もただ溺れ続けている。――そして、オレも。
 ミニゲームの最中、オレのパスを取った青峰はあからさまに苛立ち、けれどもプレーそのものはやはり完璧だった。加入したばかりとはいえ一軍である部員たちのディフェンスを、小さな水溜りを避けるかのように軽々と千切り、シュートする。放った直後、もう興味などない、といった風情で身を翻した彼の瞳に、以前のような光輝は宿っていなかった。遅れて、ボールがネットを揺らす。ブザー音、ゲーム終了だ。
「青峰」
 壁際に腰をおろしてドリンクを飲み始めた青峰の、前に立った。訝しげにオレを見上げた青峰は、なんだよ、と吐き捨てる。オレはかけるべき言葉を探し、だがそれを見つける前に青峰に目をそらされてしまった。
「大丈夫か」
 結局、出てきたのは空虚な問いかけだけだった。大丈夫なはずがない。そうして青峰が、大丈夫でない、と言うはずもない。
「なにがだよ」
 案の定、青峰はけだるそうに首をかしげただけだった。いや、とオレはその場を濁し、振り返る。ステージのそばで立ち尽くしている黒子と目があった。黒子は眉をさげて、表情を曇らせていた。
 相棒である彼も、青峰にかけるべき言葉を持っていないのだ。幼なじみである桃井も同様だろう。ならば、二人ほど青峰と近しくないオレが、所持しているはずもない。
 それでいいのだろうか。オレは主将で、このチームを統率するべき人間だというのに。
 桃井からドリンクを受け取って、そのまま彼女の隣に並んだ。ちょうど対角線上に位置する形となった青峰は、相変わらずうろんな眼差しで、次のミニゲームを眺めていた。


 副主将や主将の仕事等で、例えば部活後、あいつらと行動を異にすることも多かったが、それでもオレはあいつらに馴染んでいた、と思う。
 理科室、窓からはぬるく陽だまりが降り、砂糖の甘い香りが部屋中を満たしていた。オレと緑間で作った「ねればねるほど色が変わってつけて食べるとうまい」菓子を紫原が絶賛し、それを聞きつけた黄瀬と青峰が「オレたちにも食べさせろ」と騒いだので、昼休み、バスケ部のメンバーで集合していた。オレと緑間が「実験」の工程を踏んでいる間、黄瀬と青峰ははじめこそ関心を寄せていたが、やがて飽きたらしくじゃれ合い始めた。黒子と桃井の制止も聞かず、室内を徘徊したり備品にふれたり、やりたい放題に振る舞う。
「ぎゃー!」
 黄瀬が悲鳴をあげたのは、あとわずかで菓子も完成するだろう、という頃合いだった。見ると、窓に面した水道の、蛇口を全開にした黄瀬が頭から水を被っていた。隣では青峰が腹を抱えて笑っている。
「おい黄瀬っ、ンなすぐに洗っちまったら色落ちしてんのか分かんねえだろ」
「自分の髪でやれようーっ!」
 青峰の右手には、オキシドールが握られていた。大方、あれを黄瀬の髪の毛に垂らし、脱色を試みたのだろう。陽光の中で喚く黄瀬の、金髪からは水滴が飛び、波頭の粒のようにまたたいていた。
 水が勢いよくシンクを叩く音、「もう、青峰くん!」と叱る桃井の声、青峰の笑い声、黄瀬の、泣きべそにも似た声。いつもの光景だった。
「うるっさいのだよ、お前ら!」
 しびれを切らした緑間が怒鳴るのを、少しく微笑ましいような心地で見守っていると、オレの目の前がひらひらと陰った。机に伏している正面の紫原が、手を振っていた。
「なににやにやしてんの、赤ちん」
 まいう棒をかじりながら、そう言う。
「にやにや?」
「うん、にやにや。ねー、黒ちん」
「はい」
「うわっ」
 いつのまに来たのか、すぐそばに黒子が立っていた。思いがけずあとずさってしまったオレを見て、すみません、と困ったように謝罪する。
「えー、赤ちんが黒ちんに気づかないなんて珍しいねー。てか初めてじゃない?」
「そうですね。ボクも驚きました」
「すまない。少しぼんやりしていたみたいだ」
 赤司くんがですか、と首をひねる黒子とオレを一緒に見上げながら、紫原は木製の椅子を軋ませた。それから何を思ったか、頬をほころばせる。
「そういうのも、まー、いいんじゃない?」
 赤ちんぽくないけど、たまにはね。そう続けた紫原に急かされ、オレは作業に戻った。隣では、黒子がしげしげとオレの手元を観察している。他の四人は未だ騒々しい。胸の底から、おかしさが込み上げてきた。
 他愛なく、くだらない。だが、切り捨てようとは思わない。
 記憶だった。ほんの数ヶ月前のその出来事を、オレは鮮明に思い出せる。思い出せるが、遠かった。
 当たり前のようにそこにあったはずのにぎやかさ、やかましさが、今はもう記憶の中にしかない。そのことがなにより、オレの肌を粟立たせるのだった。


「紫原、どうしてブロックに動かないんだ」
 ミニゲームの終盤で、迫りくるオフェンスに対しゴール下の紫原はただ棒立ちになり、あっさりと得点を許していた。悪びれた様子もなくあくびをする紫原に注意すると、紫原は寝ぼけ眼で頭を掻く。
「ごめーん。でもいいじゃん、オレが動いたら止めちゃうし」
「止めるんだ。そのためのお前だろう」
「どうせ練習なんだから、ちょっとくらい休んだってよくね?」
「練習だからこそだ。休憩は休憩時間にしろ」
 そこで紫原は、長い溜息を吐いた。眉間にしわを寄せ、首裏をさする。
「てゆーかさ〜〜」
 乱暴な低音でうなった紫原の、瞳がたたえているのは嘲りだった。軽蔑と慢侮だった。その目で、紫原はオレを見下す。
 見下ろす、のではない。紫原ははっきりと、オレを見下していた。
 全身に熱がともる。一気に沸騰し、はじける。こぶしを固く握り、握りすぎて、爪が皮膚に食い込んだ。歯を噛みしめる。
 お前は、「僕」に、逆らうのか?
「赤司!」
 唐突に強く肩を掴まれ、我に返った。せっぱつまったように顔を歪めた緑間が、オレを覗き込んでいた。
「どうしたのだよ、ぼうっとして」
 見回すと、紫原はすでにコート内を移動していた。覇気は感じられないが、練習を続行する意思はあるらしい。
「……いや、なんでもないよ」
 すまない、と緑間の手をおろし、一度深呼吸をした。緑間はまだ怪訝そうに唇を結んでいたが、やがて練習に引き返していく。
 右手を開くと、手のひらには点々と血液が滲んでいた。


 部活が終わり、自主練習に励んでいた部員もオレを除いて全員が帰宅した。ステージ脇の時計の、短針の振れる音さえ聞こえてきそうなほど静寂に沈んだ体育館で、オレはボールを構える。放たれたボールはどれも、一定の軌道に沿ってゴールに吸い込まれていった。
 額から噴き出した汗が目に入ったが、頓着しなかった。ボールカゴに積まれた全てを、ただひたすらにシュートしていく。暑さに頭が白み始め、ボールがバウンドした床の、振動すら足に響いてこなくなった時、オレの意識に浮かび上がってきたのは紫原だった。先程の紫原の、冷徹な瞳だった。抉り取られた手のひらの、肉が痛み、激情とともに発熱する。
 オレがあいつらに、負けるわけにはいかない。
 最後の一球、オレはスリーポイントラインから走り出していた。ドリブルでボールを運び、脳裏に青峰を描く。紫原を描く。何度も、繰り返し目の当たりにしてきたあいつらのシュートフォーム――ダンク。
 飛び上がったオレの、右手に貼りついていたボールはリングに阻まれた。オレの総身は勢いよく床に打ちつけられ、一拍遅れてボールが落下し、静かに転がっていく。
 尻もちをついた状態のまま、呆然と、呼吸さえおぼつかなかった。オレは、あいつらのようにはできないのか。
 オレは、あいつらより、弱いのか?
 こぶしに激痛が走り、自分が床を殴っていたことを悟った。ただ一人きりの体育館、辿り着くべき答えが見えない。
 オレはあいつらを、どうまとめればいい。
 オレのバスケは、どこにある。


 自宅の、庭園の隅に設置されたバスケットゴールの下に母が佇んでいる。
 春で、晴天だった。日傘をさした母に誇示するように、まだ幼いオレはボールをついている。シュートを打ち、ネットが揺れると、母は手を叩いて喜んだ。それが嬉しくて、オレは何度でもボールを拾っていた。シュートが決まる、母がまた喜ぶ。
 オレは、笑っている。
 古い映写機のように場面が切り替わり、次にオレが立っていたのはコートの中だった。ミニバス時代の仲間が、オレとともに走っている。パスを出すと、それを受け取った選手が軽やかにゴールを決めた。同時に試合が終了し、盛大な歓声が、会場中にあふれる。
 振り仰いだ先、二階席に母が座っていた。隣には珍しく父の姿もあり、母は、父に微笑みかけている。父は笑ってこそいなかったが、口元がほんのわずかにやわらいでいることが、遠目にも分かった。コートに視線を戻したオレは、胸の奥底から、なにか熱の塊のようなものが湧き上がってくるのを感じている。興奮しているのだ。勝利と、それによって得ることのできるものに。
 コートの中央に整列し、ありがとうございました、とオレは誰より誇らしく頭をさげていた。顔をあげたオレの目はまたすぐに、父と母を探している。


「あ、起きた?」
 左側に不自然なぬくもりがあって、耳元には聞き慣れた声と呼気が降り注いでいた。身じろぎをすると、目前に桃井の顔が現れ、反射的にオレは距離を取る。
「桃井?」
 横座りをした、制服姿の桃井がそこにいた。ステージに凭れかかるようにして座っている桃井は、「その反応ひどくない?」と頬を膨らませる。
「体育館覗いたら赤司くんが居眠りしてるんだもん、びっくりしちゃったよー」
「居眠り……」
「うん。よっぽど疲れてたんだね」
 指摘されてみると、確かに寝起き特有の頭痛がし、体も重かった。桃井との間に人一人ぶんの距離を置いたまま、オレは首のタオルで鼻から下を覆う。相当密着していたようだが、汗のにおいがきつくはなかったか、と少々心配になった。
「起こしてくれて構わなかったのに」
「そうしようと思ったんだけど、体育座りで器用に寝てるなーって眺めてたら急に体がかたむいたんだもん。焦ってとっさに隣に座ったら、なんか起こしづらくなっちゃった」
 えへへ、と桃井が笑った。
「倒れちゃいそうだったから、肩貸してあげてたんだよ」
 桃井に接触していたであろう箇所を、手で押さえる。そうか、とつぶやいた声は存外弱々しく、オレは桃井と目を合わせられずにいた。自分が他人に支えられていた、という事実に、少しく狼狽する。
「帰ろっか」
 立ち上がった桃井に差し伸べられた手を取り、腰をあげた。オレが四方八方に放置していたはずのボールはすでに片づけられている。ありがとう、と礼を述べると、桃井は「いいんだよ」とはにかんだ。
 着替えを済ませてから校門で桃井と落ち合い、並んで帰路を辿った。セミの声はとうになく、街路を吹き渡る風は少々、秋の気配をふくみ始めている。店々や街灯の明かりによって、横を歩く桃井は照らされたり沈んだりした。
「赤司くんと二人で帰るなんて新鮮だよねえ」
「そうだな」
「みんなで帰るって時も、赤司くんには仕事があって帰れないってことも多かったもんね」
 発言したあとで、桃井は頬に影を落とした。みんな、の部分に引っかかっているのだろう。もう随分、あいつらが連れ立って下校する後ろ姿を見ていない。
「青峰は、なにか言っていたか?」
 桃井が必要以上に気にやまぬよう、注意を払いながら尋ねると、桃井はゆるやかにかぶりを振った。
「ううん、特になにも。テツくんとも話してないみたいだし」
「……そうか」
 沈黙を、すぐ横の道路を走行する車のエンジン音が埋めていく。次々と出現しては消失していくヘッドライトの、残像が視界の端に尾を引いた。
 うつむいていた桃井が、ふと、毅然として前を向いた。
「でも青峰くん、すねてるだけだから」
 オレをまっすぐに射抜いて、告げた。
「きっと、大丈夫。すぐに戻るよ」
 それはおそらく、桃井の願望だったのだろう。桃井は自らに言い聞かせるように「大丈夫」とつぶやき、複数回うなずいていた。確信ではなく、それは桃井が信じたい事柄であるに過ぎなかった。だがそれを、無意味だ、と一蹴することなどできない。
 気づいていた。自分が、「信じること」を諦めかけていたことに。
「そうだっ。青峰くんの機嫌が直ったらみんなで遊ぼうよ! 買い食いするのでもなんでもいいけど、なんかしよ、絶対!」
 どうかな、とオレの反応を待った桃井に、オレは「構わないよ」とだけ答えた。やったあ、と大声をあげた桃井に驚かされたのか、すれ違った人々がこちらを振り返る。
「約束ね」
 差し出された小指に、自分のそれをそっと絡めた。桃井が、頬を紅潮させた。
 その後で、テツくんが、きーちゃんが、ミドリンが、ムッくんが、と名前を列挙してあいつらのことを語り出した桃井は頬骨のあたりを盛り上げ、心底慕っている、といった声音で笑っていた。それを微笑ましく思いながらも、一方では、後ろ暗い感情が肥大化していく。
「桃井は、オレをどう思っているんだい?」
 振り払うように問いかけると、桃井は「え!?」と叫び、オレを見た。
「きゅ、急にどうしたの!? どういうこと!?」
「いや、桃井はあいつらに独特な渾名をつけているだろう。きーちゃんだの、ミドリンだの。だがオレには何もないから、不思議に思っただけだ」
 間を置いたのちに「あ、青峰くんだって」と言い訳した桃井に、「本来は違うだろう」と指摘してやると、口をつぐまれてしまった。「言いたくないのなら無理しなくてもいい」と逃げ道を作ってやる。
「ただ桃井もオレに距離を感じているのかと、気になっただけだからね」
 オレが、裏で「赤司様」などと呼ばれていると知った時は、さすがに動揺した。なにか周囲にそう感じさせるだけの威圧感でも発しているのだろうか、と。とはいえ桃井はオレに対し一歩引いたような態度を取ることもなかったから、どうなのだろう、と真意が気にかかっていたのだ。
 桃井は頬を掻き、唇を尖らせて「うー」とうなった。
「考えなかったわけじゃないよ? ただね、どれも赤司くんぽくなかったっていうか……なんか違うなー、って」
 そこで桃井は、オレにぐっと顔を寄せてきた。
「そうだよ! 赤司くんは「赤司くん」なの。えっとそれで、みんなにつけてる渾名を赤司くんにはつけてないから、それってつまり逆に特別じゃない? っていうか……」
 語尾を濁らせた桃井は、オレを窺うように上目遣いになっていた。ふ、と思わず、口がゆるむ。
「そういうことにしておこうか」
 うん、そういうことにしておいて、と溌剌として笑う桃井を眺めているうちに、追いやったはずの感情が、もやのようになってもう一度オレを満たした。
 桃井は一心に、オレをふくめたあいつらのことだけを考え、あいつらのためだけに心を砕いている。だがオレは、と、そこまで思考したところで手のひらの傷が疼いた。桃井の抱える「不安」はオレも抱えているが、その種類は、明瞭に異なっていた。
 オレは、決定的に自分本位だった。自分の感情ばかりを優先させていた。あいつらに負けたくない、置き去りにされるわけにはいかない、あいつらを統率せねばならない、という、自分の都合ばかりを――自分を、優先させているのだ。


 ボールがネットをくぐり、床に打撃を与える。脳内でディフェンスを想定してそれをかわし、よりスムーズなボール運びを意識した。コート内にチームメイトのイメージを立て、パスの方法やタイミングを確認する。
 連日、何時間も自主練習に取り組むオレに、緑間ははじめなにか言いたげであったが、結局はそれを飲み込んだようだった。たった一人居残った体育館で、オレはただ、バスケにふれる。
 焦燥が、オレを急き立てた。オレには、青峰や紫原や緑間のようなプレーは、不可能だ。それでもオレは、あいつらの前に立っていなければならない。
 シュートが決まる。それに喜びを、興奮を見出すことは、もうなかった。ボールはただ冷たく、だがそれを手放すことは、できない。
 勝ちたい、という願いが、絶対に勝つ、という決意が、「勝たなければならない」という義務に変わる。「百戦百勝」は今のオレたちには容易に達せられる理念であるのに、まるで枷のように、あまりにも重い。
 それでもオレは、逃げるつもりなどない。逃げることなど、できないのだ。


「オレより弱い人の言うこと、聞くのはやだなぁ」
 明確なきっかけがあったわけではなかった。蓄積されてきた鬱屈が臨界点を突破してしまった、おそらく、ただそれだけのことだった。
 深い湖に張った薄氷のように脆弱な足場に直立していた、オレたちだった。その中で、青峰と紫原の足場が同時に崩壊した。青峰は体育館を飛び出していき、紫原は先日と同様オレを見下して、そう言い放った。
「少しお灸をすえてやる」
 勝てる、と信じていた。勝たなければならなかった。オレはここ最近、痰に血が絡むまで自主練習に没頭していた。オレは、紫原のプレーも性格もくせも、完全に理解していた。
 オレは、敗北を知らない。
 想定外の事態だった。五本勝負の1on1、オレは一本も取れないまま、紫原に四本目を先取されていた。
「やっぱこの程度の人の言うこと聞くのは、ムリかな〜〜」
 失望を声色に滲ませて、紫原は言った。
 瞬間、あの感覚が襲ってきた。自分の中に存在するもう一人の自分、それがオレの意思に反して動き出す、あの感覚。
 ――僕でないとダメだ。お前は弱い。お前は、甘い。
 ――違う。オレはオレのままで勝利しなければならない。お前はオレの「弱さ」が生んだ、そんな存在にすがるわけにはいかない。
 ――正義も意志も、敗北すれば全てが無に帰すだけだろう。
 ――ダメだ。使命を、記憶を、約束を、持っているのはお前じゃない。
 自分を憐れに思うことだけは、絶対に許せなかった。オレは自分の境遇を嘆き、被害者のように捉えてしまいたくなかった。己に課せられたものすべてを背負い、義務感などではなく自らの意思で、完璧であろうとしてきた、つもりだった。だが目の前の「僕」はその決意とは明らかに矛盾し、だが確かに存在してオレに、オレの「弱さ」を突きつける。
 敗北は許されない、と不敵に笑んだ「僕」は、オレに言いきった。
 ――勝利こそが全てだ。お前も、知っているだろう?
「すべてに勝つ僕は、すべて正しい」
 突如として紫原のボールをカットした「僕」を、黄瀬や緑間や桃井や、紫原も唖然として見ていた。苛立ちと恐怖に突き動かされ、「僕」の独断専行に抗いきれなかった「オレ」は、ただ理解する。
 最も脆弱な足場に立っていたのは他の誰でもなく、オレだったのだ、と。
 桃井との約束を、守ることはもうできない。


up:2017.12.20