story | ナノ

 青峰くんと最後にケンカしたのがいつだったか思い出せないことに気付いたのは、昼休みの廊下でぼんやりと立っている彼を見つけた時だった。
 窓枠の外に両腕をぶらぶら投げ出して、だるそうに目を細めている。全開にされた窓からはもう完全に夏の、もわんと重たい風が入り込んできて、青峰くんの短い前髪をさわさわと弄んでいた。水飲み場で歯を磨こうと歩いていた私は、その場で足を止める。青峰くんの視線を辿っても、四階からの景色のどれを――ところどころ雲の散った薄青の空なのか、中庭に構える楡の木の緑なのか、その向こうにある北校舎なのか、何を見ているのか分からなかった。
 一秒後に自分が青峰くんに突進していく姿を、想像してみる。何してるのっ、と青峰くんの横っ腹に歯ブラシケースを食い込ませる私、うえ、とちょっとうめいたあと、でも全然ダメージなんか受けてなさそうに「うぜーのが来た」とぼやく青峰くん。なんもしてねーよー、と頭の後ろで手を組んでどっか行っちゃおうとする青峰くんを、待ってよう! と私は追いかける――すごく、すごく自然に描けたその光景は、でも現実にはならなかった。ふっと目をスライドさせて私を発見した青峰くんが、なんにも言わないまま、ふらふらと教室に戻っていってしまったから。
 そこで私は自分の足元を見下ろすしかなくなる。
 もう昼休みも終わりが近くて、これから移動教室だろう女の子たちのおしゃべりとか、各教室から漂ういろんなお弁当が混ざったなんとも言えないにおいとか、校庭から帰ってきた男の子たちが連れてくる砂埃とかで廊下は溢れていた。これから授業だけど賑やかで楽しい時間はまだちょっとだけ残ってる、そんな湧き立った空気の中で、私は別に一人じゃない。
 のに、胸の真ん中がぽっかりと寒いのは、私の意識が授業を飛び越して放課後に向かっているからなんだろう。放課後、部活。三回目の全中の、予選の真っ只中にいるのに、青峰くんはきっと今日も練習に来ない。来ないのはまだいい、そんなの私が無理矢理引っ張ってくればいいんだから。そう思いはするのに、一昨日も昨日も、私はそれをできなかった。たぶん、今日も。
 なんか、怖いよ。
 青峰くんのいた窓から入ってきた風が半袖の袖口を揺らして、汗ばんでいる背中をすうと冷やした。


 強くなりすぎて行き詰ってしまった。
 白いベッドの中で、体を起こした白金監督はそう言った。監督が大きな病院に移る直前、私が一人でお見舞いに行った時に聞いた言葉。
「開花した才能の行き場がどこにもないのだ。今は、まだ」
 周りを圧倒するほどの大きすぎる力。ライバルを失ったことで冷めていこうとしているバスケへの情熱。青峰くんを祝福してくれるはずの「才能」が、逆に青峰くんを悩ませ、青峰くんをバスケに駆り立てていた「何か」を奪おうとしている。白金監督の話は理解できるけど、なんだか信じられなかった。だって私は、「バスケバカ」の青峰くんしか知らない。
「孤独」。
 監督の使ったその言葉は、彫刻刀で刻みつけられたみたいにして、強烈に私の中に残った。
「どうすればいいんですか?」
 ベッドの脇のパイプ椅子に座って、ほとんどすがるみたいにして訊いた。とにかくなんとかしなきゃと焦った。監督は少し咳き込んだあとで、言った。
「青峰を見ていてやってほしい」


 白金監督は、私が「バスケ部のマネージャー」である以上に「青峰くんの幼なじみ」であることを踏まえてそう言ったのかもしれない。分からないけど、私はその時、監督の言葉に曖昧にしか頷けなかった。それって、私にできることは何もないってことですか?
 でも、あれからもうすぐ一年が経とうとする今、私はその「見ている」ことすらできていない。
 青峰くんの一重の目は、私をつかまえても、すぐにさっとどこかへ行ってしまう。私はそれに、拒まれてる、と思う。真っ暗で穴みたいな瞳にも、眉間にきゅっと寄ったしわにも。
 ――最近はもう一緒にいる時はほとんどないかも。
 テツくんにそう話した時から二ヶ月以上が過ぎた。私と青峰くんの関係は、何も変わらないままで。


 やっぱり青峰くんは練習に来なかった。青峰くんだけじゃなく、ムッくんも。赤司くん、ミドリン、テツくんは、いつも通り淡々とメニューをこなしていて、いない人を気にかけたりはしない(少なくとも、表向きは)。きーちゃんは、基礎練が終わる頃に遅刻してきた。第一体育館は熱気と掛け声と汗のにおいに満たされているけれど、活気、のようなものにはいまいち乏しい。
 部活が終わって、私は今後の対戦校を分析したデータを、部室の赤司くんのもとに届けた。赤司くんは折りたたみ式の机について、みっちゃんが書き込んだ部誌にチャックを入れていた。
「赤司くん。これ持ってきたよ」
 一瞬顔を上げた赤司くんは、でもすぐに視線を戻してしまう。
「そこに置いてくれ」
 言われた通り机の上に資料を置いてそのまま出ていこうとした私は、昨日見た対戦校のビデオ映像が頭をよぎると、もう一度赤司くんに声をかけてしまった。
「ねえ、赤司くん」
「なんだ」
 赤司くんは私を見ないままで答える。
「……みんながいれば、負けないよね?」
 扇風機の弱々しい稼働音だけがする部室に、私の小さな問いかけが落ちた。赤司くんは部誌を閉じて、立ち上がる。それから私の目をじっと見て、少しの間のあと、言った。
「当然だ。負けるなどありえない」
 そこで赤司くんはふっと口をゆるめる。
「もちろん、桃井のこれにも目を通させてもらうよ」
 そう言って私の資料に指先を置いた赤司くんはたぶん、私の考えてることを見抜いていた。ポニーテールにして露わになった首の後ろが、火照ってべたつく。
「勝つためにできることは全てやるんだ」
 みんなの「才能」があれば、私のデータがなくても勝てるんじゃないかな?
 赤司くんの答えは、私のデータも「必要」だ、というものだった。でもそれは、私の考えている「必要」とはちょっと違う意味だったような気がする、なんとなく、だけれど。


 アイシング用の氷嚢を買い足したい、と赤司くんが言ったので、帰るついでだからと私がおつかいを買って出た。ドラックストアで買い物を済ませて外に出て、そういえばこのへんってテツくんの帰り道かも、と思い当たる。そう、確か、この近くに。
 火ノ丸公園内のバスケコートは、あの日と同じようにそこにあった。あの日――赤司くんから「黒子と下校しろ」と依頼されたあの日は、もう一年以上前のこと。
 フェンスの向こうのコートでは、高校生らしき人たちがゆるくボールを回していた。ここでテツくんが私のために大変な勝負に挑もうとしてくれて、そこにきーちゃん、ミドリン、それから青峰くんが来て、みんながバスケするのを見守っていたことを思い出す。あの時の嬉しい気持ちとか、誇らしい気持ちとか、全部まるまるよみがえって私の体を爪の先まであったかくしてくれたけど、でもその記憶の「遠さ」に気付くと急速にいろんなものがしぼんでしまった。
 近くにあったベンチに座って、スケジュール帳の間からプリクラを取り出す。赤司くんはいないけど、あの日みんなで撮ったプリクラ。思いきってテツくんに抱き着いて映ってしまって、今眺めてもちょっと照れちゃう。
 プリクラの中できーちゃんを押しこくってる、青峰くんの左手をぼうっと見つめていたら、昨日の夜中、リビングで体育座りをしながら見た対戦校の映像が、さっきまでの、赤司くんといた時と同じようにして浮かんできた。すばやいパス回しで一気にインサイドに侵入する戦法、オフェンスリバウンドに強いゴール下、切り返しが上手く、足の速いエース。ボールがネットをくぐるたび交わされたハイタッチは、だんだんと青峰くんとテツくんが合わせていた拳と重なって、私は電気を消したリビングで一人、ちょっとだけ泣いてしまった。青峰くんにもみんなにも何もできないでいるのにずるい、と思って、急いで引っ込めた。
 別に今のみんなのやり方が悪いとか、間違ってるとか、そういうことを言いたいんじゃない。ただまた、楽しそうに試合したり勝って嬉しそうだったりするみんなを見られたらいいのに、って、思ったの。
「おれも入れて!」
 突然響いた子どもらしい声に、顔を上げた。3 on 3に興じていた高校生たちの中に一際背の低い影が混じる。小学二年生くらいのその子は、ボールを抱えた高校生の足元に駆け寄り、身振り手振りで何か伝えていた。たぶん「バスケを教えて」という趣旨のものだったらしいそれを聞いて、高校生たちは顔を見合わせて戸惑った様子だったけれど、結局は男の子を輪に入れた。高校生の、シュートのお手本に盛大な拍手をした男の子は、自分の番になるととっても嬉しそうにして(表情が見えなくても全身がそんなふうに叫んでたので、分かる)、ぽんと高くシュートを放った。ボールはリングにぶつかってコートに落ちる。
「あーもー!」
 絶叫。思わず笑ってしまったけど、その間に男の子は何度もシュートを打って、でもそれはどうしてもネットをくぐらなかった。ボールに激突されてきちきち揺れるリングは、陽の落ち始めた公園を照らす街灯の光を反射して目にまぶしい。まばたきをした一瞬、私は閃く。
 これ、なんか見たことある、かも?
 もう一度コートを見やる。リングを睨む男の子の目は真剣で、同時に柔らかくて、その周りの高校生も笑っていた。高校生のシュートフォームを見上げる男の子の、体いっぱいから溢れ出るきらきらが私の心臓を強く、強く押す。
 私は、何もできないかもしれない。どころか、「何かできる」と考えることすらおこがましいのかもしれない。……でも、それでも。
 捨てたくない。諦めたくない。また、ずっと、あれが欲しいの。
 立ち上がって踵を返した、その目線の軌跡の中で男の子のシュートが決まった。歓声が、走り出した私の背中で聞こえる。


「え、いらないの!?」
 小学生になったばっかりくらいのちっちゃい私が、「なんで!?」と叫ぶ。青峰くんの部屋で、青峰くんがずっと集めていたセミの抜け殻が押し込められた容器(元々は味付け海苔が入ってた、プラスチックの保存ケース)を、直視しないようにしつつも目の前にしていた。私にしてみれば「気持ち悪い!」以外の何物でもなかったそのコレクションも、青峰くんがせっせと大切そうにしてたのは知っていたから、それをあっさり「いらねえ」と言い捨てたその時の青峰くんに、びっくりしてしまったんだった。
「なんでなんで、どして?」
 と「なんで攻撃」を繰り返す私を、ちっちゃな青峰くんは「うっせーなー」でほっぽり出して(なんだか今とあんまり変わらない気がする)、バスケットボールをいじり始めてしまった。カーペットに転がった青峰くんの傍らに、お尻をつけて「なんでようう」とわめく私に、青峰くんは構わない。
 なんで? だってとっても大事な、宝物じゃなかったの?
 そのうち、いい加減うっとうしくなったらしい青峰くんが「だー! さつきはしゃべるの禁止!」と勢いよく私の口を両手でふさいだ。青峰くんの手の中でもごもごする私に、はーっ、と息を吐き出した青峰くんは言う。
「抜け殻より、本物捕ったりバスケしてる方が楽しんだよ」
 ジョーシキだろっ、と何故か得意気な青峰くんは、私を放してまたボールとじゃれ始めた。そのうちに「やっぱオレコート行く!」と宣言し、学習机の上のキャップを被って部屋を飛び出していこうとする。直前、ドアの手前で立ち止まった青峰くんは、マーメイド座りで脚の前に手をついた変な格好の私に、振り返ってにっと笑った。
「だから、もういらねえの」


 青峰くんちのインターホンを押しても、反応はなかった。押したり引いたりして開閉するタイプの門もぴっちり閉じられているけど、向かって右側から覗いた二階の窓、青峰くんの部屋の電気は点いている。たぶんおばさんは買い物にでも出かけたんだな、と判断した私は、居留守常習犯のもとへ突撃を決行した。幸い、門にも玄関にも鍵はかかっていなかった。
 ローファーを揃えて家に上がり、目の前の階段は駆け上がる。何ヶ月ぶりかの青峰くんち訪問だったけど迷いなんてない。階段を上がりきって、手前から二番目の部屋の扉を、蹴破る勢いで開け放った。
「青峰くん!」
 てっきり「うるせーよ」なんて悪態が返ってくると予想していたのに、なんの反応もなくて拍子抜け……する隙もなく、私はここまでふりしぼってきた勇気やら決意やらが早くもしゅるしゅるほどけていくのを感じた。錯覚かと思って目をこすっても、見えてる景色はそのまんまだ。
 汚部屋、という単語が頭の中で瞬く。月バスとか教科書とかエッチな雑誌とかかがぐちゃぐちゃに広げられた学習机の上、ローテーブルには飲みかけのペットボトルやお菓子のパッケージが乗っかったまま放置されていて、それらの一部は紺色のカーペットの上にまで展開している。その他、床にはゲーム機、脱いだ服、ビニール袋、鞄などなど散らかっていた。一瞬、めまい。
 そうだった、青峰くんは「ベンキョー」の次に「ソージ」ができないんだった。
 とはいえここで負けるわけにはいかないから、意を決して部屋に一歩踏み入る。瞬間、靴下の裏で、ぐに、とも、ぶち、ともつかない、とてつもなく変で恐ろしい感触がして、私は悲鳴をあげながら靴下を脱ぎ捨てた。床を凝視しつつ慎重に歩を進めて、ガングロクロスケがこっちに背を向けて横たわる部屋の一番奥――ベッドに辿り着く。
「青峰くん」
 返事なし。こうなったら強硬手段に出るほか道がないことは、私の脳に蓄積されたデータが知っている。ので、その体の上にダイブした。
「ぐぇぇ」
 謎のうめき声と一緒に、青峰くんが目を覚ます。視界に私を捉えた青峰くんは、焦点を合わせるように二回くらいまばたきをした。
「なんでいんだよ」
 あからさまに目をそらして呟いた、その態度と言い草にカチンときた私は叫ぶ。
「訊きたいのはこっち! 今日も練習サボったでしょ、なんで来ないの!?」
 迫ると、今度はちゃんと私を見た青峰くんがはんと鼻を鳴らした。「必要ねーからだろ」とこともなげに言う。
「必要ないって……!」
「つーか、勝ちゃ来なくていいっつったんは赤司と監督だろ? なんでオレが責められんだよ」
 うぜーうぜー、とこぼしながらベッドを這い出た青峰くんはジャージのズボンの裾を引きずりながら部屋を出ていって、戻ってくると右手に棒アイスを持っていた。またベッドによじ登ると、そこらへんに転がっていたマンガを片手にアイスをしゃりしゃりと食べ始める。
「……でも、ミドリンとか怒ってたのに」
「試合に勝ち続ける限り練習に参加しなくても構わない」という方針になってからしばらく、ミドリンはずっとイライラしているみたいだった。それは方針自体への文句ではなく、本当に来なくなってしまった青峰くんやムッくんに対する不満が原因だったみたいだけれど、次第に、そんなイライラも見せなくなっていった。青峰くんたちが練習に来ない、という報告を聞いてもミドリンが怒らなくなったその時、私は、わびしさ、のようなもので胸を潰された。もうミドリンの中で青峰くんたちは「どうでもいい」存在になってしまったのかもしれない、と思えて悲しかったからだけど、それはあんまり自分勝手で無責任な感情すぎて、何も言えなかった。
「緑間がキレるとオレが練習出なきゃいけねえのかよ」
 アイスを四口で食べ終えた青峰くんは、マンガに飽きたのか今度はグラビア誌を手に取った。アイスの棒は青峰くんの唇に挟まったまま、ぶらぶらと垂れ下がっている。
「でも、」
 なんて言えばいいか分からない。ベッドの縁に指を引っかけて床に座り込んだまま、下を向いてしまう。と、思い出すことがあった。白金監督の言葉。
「――青峰くんは強いけど、さみしいんでしょ?」
 青峰くんのまとう空気が、ぴんと張りつめた。「あ?」と、一際低い声ですごまれたけれど、気にしないようにして先を続ける。
「白金監督が言ってたの。青峰くんはライバルがいなくなって独りぼっちになっちゃって、だからいろんなことに悩んでるんだろうって」
「…………」
「才能がありすぎてつまんなくなるなんて私、それ聞くまで考えもしなかった」
 ベッドフレームの上のコップにアイスの棒を放り込んだ青峰くんは、私が来た時と同じように、こっち側に背中を向けて横になってしまった。
「ねえ青峰くん、どうすれば昔の青峰くんに戻れるのかな」
「…………」
「一緒に考えようよ。きっと見つかるよ」
 身じろぎ一つしない青峰くん。肩が規則的に上下していて、このままだとまた寝に入ってしまうかもしれない。
「ねえ、青峰くん」
 呼びかけてみる。でも、無視される。
「青峰くんてば」
 無視。
「あーおーみーねーくーん」
 これも無視されてしまうと、ばん、というけたたましい音を聞いた。私の内部で何かが破裂したような音。
「なんでそうなるの!」
 青峰くんの肩をぐいっと引き倒して仰向けにさせると、私はそのお腹の上にまたがって彼の両肩に手をかけた。力任せにがくがく揺さぶる。
「なんで何も言わないの? 言ったって無駄だって思ってるの? それじゃなに考えてるのか全然分かんないじゃない!」
 青峰くんは私の下で驚くでもなく突き放すでもなく、ただちょっと眉をひそめて見上げている。それでますます、いろんなものが湧き上がってくる。
「一人でふてくされてないでよ! 思ってること、言ってよ」
 見下ろした、青峰くんのほっぺたに何かがぽっと落ちた。それが私の目からこぼれたものだと認識できた時には、もうそれは青峰くんの耳の方へ伝い落ちている。私は青峰くんの首元に顔を伏せて、これ以上涙を見つけられないようにした。
 教えてよ。だって、もう、「拒まれてる」なんて、思いたくないもん。
「……青峰くんが『孤独』だって思うなら、私が、みんなが、青峰くんの、」
 心臓をぎゅうっと握り潰して最後の一滴まで血を絞り出すみたいに言葉を吐き出していたら、起き上がった青峰くんに肩を掴まれた。世界が反転して、今度は私の上に青峰くんがいる。
「黙ってろ!」
 思いがけず怒鳴られて、全身すくんでしまった。普段、ケンカはしても大声をあげられることなんてめったにないから、びっくりする。
「ぴーぴーうっせんだよ。『孤独』だ? 『独りぼっち』だ? てめえオレを『可哀想なやつ』とでも思ってんのか、舐めてんじゃねーよ」
 眉をつりあげて怒る青峰くんの目は、ついさっきまでの「真っ暗な穴」じゃない。
「戻るとか戻らねえとか知んねえよ。オレはオレだ! ブス!」
 私を睨みすぎてぎらぎらと尖った顔が、すぐ近くにある。逆光で薄い影が差したほっぺたは引きつって、肩は、怒鳴り散らした反動でふうふう上下していた。私の目尻に溜まっていた涙が、ころんと一粒転がり落ちる感覚がある。私の耳の横にある青峰くんの手が、グーを作った。
 なにその言い草、とふくれたくなる気持ちもあったけど、それ以上に私は青峰くんに「ごめん」と言いたい気持ちになっていた。私が、無意識のうちに青峰くんを「憐れんで」いたこと、青峰くんはそれを敏感に感じ取って怒っていたこと。拒まれていたのは「青峰くんをそんなふうに思う私」だということも、全部全部、その瞬間、分かってしまえた。
 ごめんなさい、青峰くん。
 ……ごめんね。ごめんね、大ちゃん。
「じゃあ、じゃあどうすればいいのようう」
 わああん、と両手で顔を覆って泣き出した私に怯んだのか、大ちゃんは「はあ!?」とうろたえた声を上げた。構わずわんわん泣いていると、大ちゃんが私から退いた気配がある。
「大ちゃんも、テツくんも、きーちゃんもミドリンもムッくんも赤司くんも、みんな、みんなっ――」
 みんな、の先が出てこない。変わっちゃった? 笑ってほしい? 楽しいって思ってほしい? 喜んでほしい?
 そのどれもが本心だけれど、大ちゃんに「オレはオレ」と言われてしまったあとでそんなことを口にしても、なんだか薄っぺらくて、偽善的で、どうしようもなく頼りない言葉にしかなりそうになくて、言えなかった。
 ぼうぼう湧いてくる涙や洟を、大ちゃんの枕を巻いていたタオルで拭った。顔をうずめて嗚咽と一緒に吸い込むと、男の子のにおい。垢くささ&獣くささみたいな独特のにおいの向こうに、ほんのりとシャンプーが香る。きっと大ちゃんのよだれとか汗とかいろんな成分が染み込んでるんだろうなあ、とちょっと呆れながら、それで思いっきり洟をかんだ。このタオル、何日洗ってないんだろ。
「あ〜……」
 ダミ声と、ばりばり髪を掻く音が思ったよりずっと近くにあった。ベッドを下りた大ちゃんは、私の頭のすぐそばにいるらしい。
 困ってるのかな。そうなんだろうな。だって大ちゃん、私が泣くといつもおろおろするもんね。
 でも私だって、ずっと途方に暮れてたもん。だから、簡単に泣きやんでなんてあげないもん。
「さつき、パンツ見えてんぞ」
 ……と決めて大ちゃんとの我慢比べに挑もうとしていた私に、大ちゃんはデリカシーゼロ発言を直球ストレートでぶつけてきた。そういえば制服のまま大ちゃんちに来た私は、スカートをはいている。
「さいってー!」
 顔を隠していたタオルを、ほんとにすぐそこに座っていた大ちゃんに放り投げる。後ろを向いてた大ちゃんが、「きたねーな!」と腰をひねって投げ返してくる。
「なによ、もとは大ちゃんのでしょお!?」
「もうお前の鼻水がついてんだろ、こっち寄越すんじゃねえ!」
 しばらく「バカ!」「ブス!」とわめきながらタオルをぽんぽん往復させていた私たちだったけど、先に折れたのは私だった。はね返されてきたタオルを、握りしめる。
「……もう、無視しない?」
 珍しく私の視線より下にある大ちゃんのつむじを眺めて言った。大ちゃんは黙って私を見上げる。
「せめて、これ以上変わんないで。無視しないで」
 大ちゃんのために、みんなのために、何もできないでいるのが歯痒かった。でもそれは、「みんなのため」であるのと同時に「私のため」でもあったんだって、今、気付いちゃった気がする。
 私は、みんなを繋ぎ止めるための「何か」を探していた。私の力でもう一度みんなを繋いで、それで、思ってほしかった。私のデータが、私が、このチームに必要なんだ、って。
 ――だから、もういらねえの。
 無邪気なあれが、いつか私に向くんじゃないか。それが、怖かった。
 離れていかないで。それは大ちゃんのためで、みんなのためで、私のための、願い。
 ずるい。ずるいよね、こんなの。
「……だから、変わってねえっつの」
 またえんえんと泣き出した私に、大ちゃんは一言だけコメントして腰を上げた。何をするのかと思ったら、さっき自分がしゃぶっていたアイスの棒を、私の口に挿し入れる。
「オレがいねえとてんでダメだな、オメーはよ」
 行くぞ、と身をひるがえす大ちゃんに、私は慌てた。
「行くって、どこに?」
「コンビニ」
 ん、と私を指差す大ちゃんにつられて、自分の手元に注目する。アイスの棒には、「当たり」の文字。
 自分の脱ぎ散らかした服やらゴミやら本やらを蹴飛ばしながらお尻を掻く大ちゃんに、私は、笑うしかない。
 ムカつく、という念を込めて屈んだ大ちゃんの背中に棒を投げた。鞄を漁っている大ちゃんはまったく気付かず、棒はいろんな物の山に沈んでいく。
 いっそ憎たらしい、っていうこの感情は、ずっと前から私の中にあったもの。だって大ちゃんてば、せっかく私が色々気にして「青峰くん」なんて呼んでるのにあっけらかんとして「さつき」呼びをやめないし、最初っから私がノート貸すこと前提で授業は聞いてないし、「いらねえ」なんて言っても結局受け取ってはくれちゃうから私はお弁当作りやめられないし。
 今日だって、「捨てたくない」と思った私がまっさきに来たのは、主将の赤司くんのところでも、大好きなテツくんのところでもなく、大ちゃんのところだった。憎たらしい、ずるい。
「大ちゃん、それ以上動くとアイスの棒、どっかいっちゃうよ」
「はあ?」
「投げたから。そっちの方に、棒」
 余計なことしてんじゃねえよ! と吠える大ちゃんが床を掻き分けるのを見物しながら、なんだか少し嬉しくなる。掃除役の私がちょっと来ないだけでこんな惨状を作り出しちゃうことや、「憐れむな」と思うくらいには大ちゃんの中で私がちゃんと存在してることなんかが、私と大ちゃんがまだ「離れてない」証拠になる、ような気がして。
 しかめっつらで棒を捜索する大ちゃんのところに飛んでいって、そのほっぺたをむにゅうと引っ張った。それでもまだぶすくれた表情を保つ大ちゃんは「おいコラ」とすごむ。それで私は楽しくなっちゃう、しゃがんだ足元がゴミだらけでも。
 ――オレがいねえとてんでダメだな、オメーはよ。
 それは、こっちの台詞だもん。
「っつかお前、『青峰くん』と『大ちゃん』、どっちかにしろよめんどくせえ」
「えー。じゃあ、今日だけ『大ちゃん』。明日からまた『青峰くん』ね」
 なんだソレ、と溜息を吐く大ちゃんを解放して私がアイスの棒を探そうとした、その前に大ちゃんが私の顔を掴んだ。仕返しみたいに、大ちゃんが私の頬をむにむにする。そして、かはっと噴き出して一言。
「泣いたせいで余計ブスになってんぞ」
 最低な悪口を、今日一番の楽しそうな笑顔で言うんだから私の負けだった。ただ「じゃあもう『余計ブス』にしないでよ」と思うだけで、口をつぐむ。
 久しぶりにしたケンカで久しぶりに聞く「ブス」だから、実はちょっと嬉しくなっちゃってたりして、と思い立って二秒考えてみたけれど、やっぱり全然嬉しくなかった。


 ボールを追いかける大ちゃんがいる。部活の試合で、体育の授業で、大人に混じって、自作のゴール下で――場面が切り替わるたび、大ちゃんは幼くなっていく。
 大学生と一緒にプレイしていた大ちゃんが、なんの思いつきか見学していた私を輪に入れた。元々それほど運動が得意じゃない私はすぐに追いつけなくなって、尻もちをついてしまう。駆け寄ってきた大ちゃんが、だいじょぶか、と私を覗いた。うん、と差し出された手を取って引っ張り上げられる瞬間に、大ちゃんのつるんとしたおでこからこぼれた汗の粒が私の唇の間に染みた。しょっぱい。
 結局見学に戻った私は、楽しそうな大ちゃんを見つめながらわくわくする。ゴールが決まって、私にぐっとピースしてみせる大ちゃんに、私もにいっとしてピースを返す。その時の私の心を埋めているのは、おっきな誇らしさ。
 その時だけじゃない。バスケをする大ちゃんをじっと見守りながら私が思うのは、いつも、いつも同じこと。
 ねえ見て。大ちゃんはこんなにすごいの。かっこいいの。


「おはよっ」
 翌朝、家から出てきた青峰くんの背中にタックルすると、青峰くんは二歩くらいつんのめった。
「ってーな、さつきてめえ」
「青峰くん、今日は部活出てね」
 私が釘を刺すと、青峰くんは「さあな」と言ってさっさと住宅街を歩き出してしまう。追いかけて、隣に並んだ。数ヶ月ぶりの、一緒の登校。
「来なかったら私が呼びにいくからね!」
 頭一つぶん以上上にいる青峰くんは返事もしないで、ただ大きなあくびをかました。
「練習なんかするだけムダだろ」
 目をしょぼしょぼさせた青峰くんの言葉に、私は思わず足を止める。その間にも青峰くんは、一人ですたすた行ってしまう。
 まだ残ってる予選も、全中の本番も、待っているのは変わらない光景と無力感だけかもしれない。私がまた青峰くんと話せるようになったところで、きっとそうだ。
 でも、それを、見据えることからは、逃げない。悩む前に、私はできることを本気でやる。私のデータなんか必要ないって言われたって押しつける勢いで、やってやるんだから。
 ……っていうことを私は昨日決めたんだからね、青峰くん。
 握りこぶしを二つ作って、ぎゅっと力を込めた。
「それでも、行くからねっ」
 叫んで、私は、少し先にある青峰くんの背中を追いかける。


up:2017.08.31