16.青は薄い闇のこと
きらはやっぱりね、と思った。
案の定ザンザスは自分をその場で引き止めなかったのだ。

苛立つあまりに頭を掻きむしりたい衝動に駆られたが、巻き髪が取れてしまうのはなんとなく寂しい気がした。
天使が輝かんばかりの粉を撒いてくれていたのでは?と思うほどの高揚感はとっくに無い。
つかつかと化粧室まで歩いていて、賑やかな音からは離れて行ってるのに、きらの耳には酷く大きな音が残り感情を憂鬱へと揺さぶるばかりだ。

望むものは手にはいらないし、手に入りそうになったところでいつも何かが邪魔をする。
私は幸せになれない?幸せになってはいけない?ずっとずっと、このまま?幸せはない?悲しい日々が当たり前?

そんな思いがきらの中でぐるぐると駆け巡っていく。
光に照らされて床に移る自身の影が、自分を恐ろしく悲しい世界に引きずり込むのではないか。幾度なく、前を向こうとしているのにこの影が纏わり付いてくるのだ、と彼女は悲しくなる。久しぶりに現れた影は、いつだって彼女にとって酷く重く暗いものだった。

きらはザンザスの手を掴んだと思ったけれども、実際は何も掴んでおらず、ただ虚空を掠めただけである。ほんと馬鹿だね、と自身に投げやりに言って気持ちを抑えようと必死に努力する。

『体の関係があったの』

『ただの飾りでしょう』

それでもあの女の声が何度も何度もこだまし、勝ち誇った笑顔が蘇る。
ザンザスと彼女の親しさを見せつける様な態度だった。そして、思い出すたびに胸に裂傷を負った様な痛みがきらを襲う。
見なかったことにしたい、聞かなかったことにしたい。イライラする。その場で言い返せなかったからこその怒りだ。たった今さっきの事なのに記憶はどんどん修正され、怒りや苛立ちは増していく。

一方でザンザスはきらの後を追うように広間から飛び出していた。

あの女はこの間のモデルの卵か?と思ったが髪の毛と瞳の色が違う。スクアーロにはただ忘れてる昔の行きずりの女ではないかと言われた。その可能性は無い事はない。しかし、もしそうであれば、そんな行きずりの女が何故ここまでやってこれたというのだ。どこかのファミリーの差し金なのだろうか。

小さく柔らかな天使たちが急いで羽を落とさんばかりに逃げ出す音がしていたのを、ザンザスはわずかに気付いていた。そしてその羽が花瓶の水に浸るのは時間の問題であることも。

ロンディブルー、イタリアの海の色をした花瓶がきらの目に入った。化粧室近くの廊下に飾られているものだ。

いけないとはわかっていても、この燃え上がらんばかりの感情をどうしてもおさめたかった。粉々になった海の色を想像し、きらは言い様のない晴れやかさを感じて花瓶を持ち上げ床へ叩きつけてしまったのだ。重くも鋭い音が鳴り、花と花瓶が散り散りになる。
誰かに聞こえたかもしれないけど、どうでもいいやときらは無残な姿になった花と花瓶を眺めた。裸足でここを歩いたら怪我するだろうな、としか彼女は思えない。

「気が済んだか」

その音に引き寄せられたかの様に、きらの憎い婚約者がやってきた。絶対に来ないと思っていたので少しだけ彼女が驚いたのは言うまでもない。
ザンザスは床に散った花瓶と花々を見れば、彼女が衝動に任せてやったのは明白だ。それに治めるのは難しくないと考えていた。

「私が悪いんですか?」

現にザンザスは何も言えない。
花瓶を割ったことは悪いだろう、そうじゃない。あの女が何を言ったかわからないが、きっときらにとっては十分意地悪な事を話したのだろう。例えば、体の関係を持ったとか。

「忘れろ、あんな女」

「あの人の言った事は本当ですか?」

「戻るぞ」

体の関係など持ってないが、今言っても無駄なのは一目瞭然である。それに、あの女は追い出されたし、二度ときらと会う事はない。上手く慰めて、広間に戻り老いぼれに挨拶して帰れば終わりだとザンザスは考えた。何事もなく終えれる可能性が一番高い方法だ。

「触らないで!!」

腕を取ろうとしたザンザスをきらは拒絶した。
瞳はゆらゆらと揺れて、今にも泣き出しそうだ。ダンスに感動していた時の彼女はもういなかった。悲しみと怒りが混じった瞳を向けられ、暴君は珍しく動揺した。くそっ、と声に出したい気持ちになったが腫れ物になってしまった彼女には逆効果だと思いザンザスは堪える。

「どうして私の話を聞かないの?無視しないで」

何も言わずに押し黙っている事がきらの怒りを一層加速させてしまう。車のアクセルを踏み切ってどうにもならないよう感覚だった。

「じゃあ怖いかどうか聞いてきたのはなんでですか?怖いと思ってますよ、だってあの時のあなたは酷かった。
いつあなたがああやって怒るかわからないとも思っています。」

足元に広がった花ときらの言葉が、ザンザスに無残に散っていったバラを思い出させる。

「・・・それでも、私はあなたと歩み寄りたいと思っていました。助けてくれたし、穏やかな時もありました。怖い人じゃないかもしれないと思ったんです。
一緒に生きていくなら少しでも仲良しのがいいでしょう。なのに、どうしてあなたは私を置いて逃げていくんですか」

ばらばらのピースをきらなりに一生懸命当てはめてきたつもりだった。
ザンザスのいいところに目がいく様にしたつもりだった。ひょっとすると上手くいくのかもしれないと思った。一緒に歩いていけるかもしれないと、嵌りつつあったピースを誇らしげに眺めた。だが自分にとって知りもしない女に罵られたことでピースは音を立てて崩れていってしまった。まるで自分が愚か者の様で、惨めに感じてしまう自分すらも嫌になった。一体私が何をしたの、と悲しくて息ができなくなりそうだった。

「きら」

手で顔を覆って俯いている婚約者の名を呼ぶ。反応などしたくなかった。私はこれだけ傷ついているんだ、と思えば思うほど嗚咽が漏れ、力が入らなくなりきらはその場にしゃがみ込んでしまう。靴が少し花瓶の水で濡れたが、本人にとってはどうでもいい事だった。

規則正しい様な正しくない様な、大きく呼吸する音が下から聞こえる。呼吸が荒れているのは十分わかったし、肩も震えているも見て取れた。ザンザスはだ。歩み寄るなんて考えた事がなかったとぼんやり思いながらその様子を黙って見下ろしている。

女は煩わしい。自分の憶測や感情だけで物事を図り、これが事実だと勝手に決めてしまう。自分たちの言い並べている事は妄想かもしれないのに、とザンザスは過去を振り返った。泣いている女は幾度も見た。どの女も勝手にどんどん考えて、こちらの話も聞かないで、自分の感情に任せて事実を色づける。勝手に騒いで泣いて煩わしい生き物だと。

ああ、女は煩わしい。自分の話を聞きもしない、自分のことを省みようともしない。でも、ザンザスにとってこんなにも傍ら苦しいのはきらが初めてだった。
ザンザスの中には彼女の泣いている姿を見て不愉快に思う気持ちはどこにもない。
感じたことのない切なさが胸の中に広がっていく。冷たい冬の海に放り投げられた一凛の花を見ている様な気持ちがじわじわと彼の胸を締め付けていくった。

「泣くな」

きっとこの光景を見たらスクアーロ達は驚くだろう。
ザンザスがきらと視線を合わせる様に立膝をつき、その場にしゃがんだのだ。
膝に顔を突っ伏し泣いている彼女の肩にそっと触れ、優しくさする。
まるで子供が恐る恐る触れる様な手つきだが、彼なりの精一杯の優しさだった。

自分を知ろうとしてくれた婚約者の事をわざと気付かない様なふりをしていたのだろうか。彼女の事を鮮明に考えてしまった事も、わざと頭から振り払おうとしていたのだろうか。自分の中に生まれた薄ら暖かい感情を見て見ぬふりをしようとしていたのだろうか。

そして、自分のしてきた事が彼女をここまで傷つけたのかとザンザスは考えた。


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