やっぱりボスはなまえが好きなんだ、とベルは思った。
新年を目の前に降り積もった雪は溶けないが、なまえの暖かさが溶けてしまいそうな気もした。かつてはベルにとって嫌いな女であったのだが、最近ではすっかり彼女への態度は軟化しつつある。それでもまだまだベルの中では消化しきれない存在だ。
ずっとザンザスが欲しいと願い恋い焦がれたなまえ。
「睫毛が目に入らなくて良かったわ」
そんな彼女は自身の夫の目頭に張り付き、悪さをしようとしていた睫毛を取ったばかりであった。
『あら、ちょっと目を瞑って』
言い終わるや否やなまえは、椅子に腰掛けたザンザスと目線を合わせるように腰を屈めて、目元に細く柔らかな指を伸ばした。元来他人に顔を触れられるのに慣れていない、いいや、嫌いなのだがなまえに触れられた時には嫌な気がしなかった。
雪の反射が眩しい昼下がりで、談話室に差し込む日差しは柔らかくも冷気に負けてしまいそうだが暖炉のおかげでそんな事はない。ベルは絨毯の上に寝転び、ゲームに夢中のふりをしている。
「・・・ああ」
ボス、小さな子供っぽい、とベルは前髪越しにザンザスを見る。そしてなまえは気づいていない。自身の夫が彼女に睫毛を取ってもらった事に対して、なんだか恥ずかしいと感じているのを。ザンザス自身の心臓は決して凍ってなどいないのだが、近頃の異様な寒さで冷えてしまった心臓に出来た氷が剥がれた様な気がしたのである。
暖炉から薪の爆ぜる音だけが響く談話室。
ザンザスの胸元を暖めているのは暖炉か、なまえか。落ち着かなさを悟られまいと側にあった新聞を取った。
「もうすぐ今年も終わりね」
「俺すぐに任務なんだけど」
「新年のお願いにあなたの無事を追加するわ」
使用人の真似事をするな、とザンザスはなまえに話したのだが彼女はやめなかった。せめて談話室や料理、寝室をと頼んだ結果がこれである。談話室に置かれている花やブランケット、薪をくべたりしているのは彼女だった。現にいまだってクリスマスの匂いをどことなく纏った花瓶に新たなバラの茎を切ってはさしている。
「なまえにとってはさあ、今年はどんな年だったわけ?」
ベルは時々意地悪だ。
ザンザスに言わせれば、落ち着きのない花嫁はベルの前髪に隠れた瞳がどう輝いているか見えなくてもわかる気がしていた。そして、まだどこかで彼女を疑っているという事をなまえはわかっていたのだ。
「難しい一年だったわ。ずっと思い雨雲が付き纏って、足元は水分を吸い込みすぎてぐずぐずな感じだった。でも、焼ける様な激しい夏を越した後の秋は麗しいものだったわね」
彼女の言う通り、夏頃のなまえであればベルの質問に怯えて何も答えれなかっただろう。側にいるザンザスの視線にすら応えれなかっただろう。
「燃えるような激しい夏だった。あんなに泣いた事も無ければ、あんなに消えてしまいと思ったこともなかった。全て夢であればいいのにって何度も願ってた。海の中に潜り込んで消えてしまいたい、ともね。・・・母親の言葉の呪縛から逃れたいと願っていたのに、私の行動は随分だった。周囲に優しさに甘えて、自分の傷を自分で何度も舐めて、前に進むのを拒んでたわ」
全てのバラを花瓶に挿し終え、なまえは暖炉を見つめた。彼女の夏は暖炉の様に人を温める様な暖かさではないだろう。
「じゃあ今は?」
「大変だけど、道を独り占めできて嬉しい。
コーヒーを飲んだってお酒を飲んだって、疲れて立ち止まって泣いたって。とりあえず前に歩いたっていいのね」
ベルはなまえの言葉をゆっくりと咀嚼して、軽い相槌しか打たない。そのくせ、じゃあ部屋戻るわ、と言って戻ってしまったのだ。談話室に残されたのなまえはザンザスの方を見つめ肩を竦めた。
「不思議な子ね」
「昔からだ」
「・・・ザンザスにとってはどんな一年だった?」
夫の赤い瞳がなまえへと向けられる。新聞は読み進められていないのか、2面を開いたままだ。彼女の瞳を見れば先ほどの恥ずかしさがザンザスの中でわたあめの様な雲となって浮き立つ。浮き立った事もない雲に動揺しながらもなまえの質問に答えようと考えを巡らせる。眉間の皺が先ほどよりも深くなっているが。
「どうだろうな・・・」
考えた事もなかったかもしれない。どんな年だったかだなんて。
新緑の中で輝いていたなまえもいれば激しく泣き喚いた彼女もいた。何も彼女だけと過ごしていた年ではないのに、思い出されるのはなまえの事ばかりだ。テーブルに浅く腰掛けている彼女はこちらをじっと見つめたままで、ずっと恋い焦がれ手に入れたいと願ってやまなかったなまえである。
「・・・初めて願い事が叶った気持ちになった」
重くて黒い夜の袖を優しくも力強く引き裂く朝日のような、そんな瞬間を思い出させてくれるのだ。その度にザンザスは彼女が自分の側に居てくれて良かったと思っていた。
少ししか読んでいない新聞を横に置き、なまえの方を見つめた。愛する妻はまだ詳しく彼の過去を知らない。冬を迎える度にぞわぞわとする理由も、彼が10代目の座につけないのも。
ザンザスの願い事が多く叶い、彼が心より多くの祝福を受けれる事を願おう、となまえは思った。
なまえはテーブルから離れザンザスの方へと再び歩み寄り、額に口づけを落とした。
「来年も、再来年も、ずっと叶うわ」
「願い事を言うにはまだ早いだろ」
「練習したっていいでしょ」
ザンザスに手を引かれ、なまえは彼の膝の上に座る。暖炉の効いた部屋にこのセーターは厚すぎるのではないかと問いたいが、彼女はさっきまでセーターとスキニージーンズのまま庭へ出ては根菜を取りにってたのだ。
ザンザスの肩口に頭も埋めれば、彼も上から折り重なった。ずっと掴むのを拒んでいた手は互いにしっかりと握り合っている。
歩む速さこそ違うが、2人の見つめう先は同じだ。
「なまえ」
あんなに恐ろしかった彼の声が、名前の呼ぶ声がいつのまにかこんなにも愛おしくてたまらない、となまえは微笑みながら顔を少し上に向けた。煌々と暖炉の炎よりも優しく燃える赤い瞳が近づいてくる。そっと瞳を閉じれば、瞼に優しさの詰まった口づけが落とされた。
「優しいのね」
「お前にだけだ」
くすくすと笑うなまえにザンザスは彼女を抱きしめ直しながら言う。
一夏中激しく燃えていた炎は秋の紅葉を黄金に染め上げ、その紅葉に恋をした空からは雪の精が舞い降りた。その2つが逢瀬を重ねるにはあまりにも短かったが、冬の静寂がなまえとザンザスの絆をより深めたのは言うまでもない。
中々素直になれない2人が寄り添い合うにはぴったりな口実になったのだから。