記憶の底に眠り続けるあの少女はどこにいるのだろうか。
もう少女ではない、記憶の底、時折人を辛く涙をさせる程に苦しいくらいに眩しい水面に向かえば、記憶の底からとっくに成長していたあの少女がいた。

なまえはザンザスの突然の失踪から十数年、さまざまな経験をし立派な淑女となった。
うやむやな初恋、誰もあの瞳に炎を宿していた少年を思い出せない。ぽっかりとした気持ちを抱えたまま大学へ進学し、卒業後には父親の勧めで一般人との仕事をこなしている。そしてつい先週、彼女は恋人と別れた。何も長い付き合いではないが心を寄せた男が離れていくのは、いつだって寂しい。家族以外で自分を思いやってくれる者の存在は大きいし、異性ならではの抱擁さをなまえは感じていた。だからこそ、秋に向けて冷える空気の中、ますます心がうら寒くうら寂しいのだ。

「なまえ」

仕事の帰り道、階段を登っていると自分の名前を呼ばれた気がして振り返る。すると、まさか振り返った先で夢のような光景を目にすることになるとは彼女は思いもしなかった。

「・・・うそ、えっ、え・・・?」

気分が上がらずマスカラも塗っていないまつげを上下させる。自分の登ってきた道を後から現れたのは、忽然と消えてしまったあの少年だ。少年、なまえの記憶の中で時が止まっていたザンザスだったが立派な青年へと成長していた。当たり前のことであるのに、どうして人間は最後の記憶から人は変わらないと思い込んでしまうのだろうか。

「元気そうだな」

「いや、元気?元気でもないけど、元気だよ」

階段を登り自分と同じ段に立つザンザスを見上げる。あれ、こんなに大きかったっけ?と過去と照らし合わせるも既にそんなのは無意味だ。先の方で伝えた通り、ザンザスが消えてからは十数年も経っていたのだから。
顔に幼さは一切残っておらず、額と頬には傷がありながらも精悍な印象をなまえに与えた。ずっと行方知れずだった少年との突然の再会に彼女は混乱しており、平静さを装っていたザンザスも幾ばくか混乱している。そして、互いに混乱したまま近くのバールに入る事にした。

ザンザスの頼んだスコッチに入っている大きな氷が溶けていくよりも早く、混乱は溶けていった。
想っていた人が忽然と消えて、一切の行方を知れないのは恐ろしく悲しい。生きているか死んでいるかもわからない。たった一人、暗闇に置いてけぼりにされた気持ちになるのだ。声も聞けなければ話も流れてこない、一体誰があの少年を隠し、一体どれほどの人間があの少年を記憶の奥底に眠らせたのだろうか。なまえはそんな事を思いながら、ザンザスに他愛もない彼がいなくなった後の学生時代の話をし続けた。他人の話に関心がないのは知っていたのだが、それでもなまえはザンザスとの再会を、暗いトンネルの先に見えた蝋燭の明かりと言わんばかりの喜びが混乱を凌駕し、ついつい話をしてしまったのだ。

そして気が付けば、ただの再会を喜ぶ夜だった筈が、なまえはザンザスにまたあの日と同じように口づけをされていた。

「だめ、ザンザ」

名前を呼び終わらないうちにまた口づけをされてしまう。
女一人夜道を歩かせるわけにはいかないと、家まで送ってもらった事で事件は起きた。
鍵すら差し込まれていない扉に押し付けられ、顔を背けられないようにと頬には大きな手が添えられている。どうにかザンザスから離れようと彼の胸元を懸命に押し返すも全く意味をなさない。ああ、大人になってしまった。彼はもう大人の男なのだとなまえは少し切なくなった。
角度を変えては繰り返される、啄まれるだけの口づけだ。こんな、自分の体の奥底を知りたがっているような口づけをザンザスにされるなんて夢にも思わなかっただろう。

「ふ、あっだめ、私、まだ」

「何が嫌なんだ」

ザンザスに唇を啄まれたせいですっかり濡れてしまった唇を噛み締める。
あの日、蜂蜜漬けの月の下にいた少年はどこにもいない。目の前にいるのは立派な青年なのだ。

「私、彼氏と別れたばかりで、そんな気持ちになれない・・・」

「・・・」

瞳を伏せるなまえはすっかり大人の女になっていた。記憶の底に眠っていた、蜂蜜漬けの月の下、澄ましていた少女ではないのだ。眠っていた8年間の間、色々な事があっただろうとザンザスは考える。そしてまさか、自分がここまで彼女に恋をしていたなんて思いもしなかった。酒のせいかと思ったが、そうでもないらしい。欲を放ちたいだけならもう彼女の唇を塞いでどうにかその気にさせていただろう。少し急ぎすぎたな、とザンザスは反省した。

「ならその気にさせてやる」

「えっ?今?!だ、だめ!!」

「今じゃねぇよ」

2人を隠す蜂蜜漬けの月のヴェールはもうどこにもない。
ヴェールなどなくとも、なまえの薄化粧の肌に赤みが帯びているのは明白だった。
半ば強制的に連絡先を交換させられたなまえは動揺を隠せないが、本当にザンザスが帰ってきたのだと嬉しくなった。

「連絡する」

「もうどこにもいかない?」

「ああ、そうだな」

その言葉通り、ザンザスは後にも先にもなまえの前から姿を消すことはなかった。
そして失った時間を取り戻すかの様に2人は逢瀬を重ね、というよりもザンザスが彼女の元へ足繁く通い隙間を埋めていった。結果、なまえは彼の宣言通りに彼の物となったのである。




人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -