なまえが寂しそうな顔をしていたのは三日前の事でした。

どうしても自分で選びたいものがあるから、と言われた時の話です。
愛車を走らせ近くの小さな街へ向かいました。小さな街と言ってもやはりナターレ故か、いつもよりか街には多くの人が買い物を楽しんでいました。街の少し外れた場所にある小さな文房具屋さんになまえは入りました。扉を押すと、上に括りつけられていたベルがなります。ベルには赤色のヴェルヴェットのリボンが結び付けられており、店の中もナターレの訪れを思わせる装飾が施されていました。

『ナニーに手紙を書きたいの』

ザンザスは、ああ、と思いました。彼女の母親よりも母親らしいあの乳母の事か、と。
なまえの育った故郷からこの街までは列車で三時間程。駅のホームまでやってきたのは、彼女の両親ではなく、乳母だったのです。真っ黒な服に身を包んだザンザスとスクアーロを見るなり、全てを理解したのでしょうか。乳母は涙を流していました。

『泣かないで、私は幸せだから』

背中の丸まった乳母に目線を合わせるように、なまえは腰を屈めてそう言いました。

『お嬢様、どうかずっとお幸せで』

乳母の緑色と水色の混じった瞳が水面のように揺れていたのをザンザスはよく覚えています。列車に乗り込み、姿が見えなくなるまでなまえはホームを見つめていました。

『あの乳母だけが、あの家で私を思い遣ってくれたの』

ぽたり、とカシミアのコートになまえの涙が沈み込みます。
その涙を誤魔化すかのように彼女は手を動かして、乳母から貰った小包を開きました。
かさかさと乾いた音がします。けれども中から姿を現したのは、朝一番に取れたミルクのように真っ白な刺繍糸で作られたヴェールでした。
なまえは慌ただしくヴェールを元の様に小包の中に仕舞い込んでしまいます。涙で濡れてしまわないように。幸せな結婚なのに、涙が止まりませんでした。

ザンザスは泣いている自身の妻に、妻になったばかりのなまえを眺めては何も言いません。列車の煙が窓を曇らせ、そのままトンネルへと入っていきました。トンネルを抜けた先は、出発した駅と同じ青空が広がっていましたが、なまえには同じ空には見えなかったでしょう。ザンザスにはなんら、変わりのない青空であったのは言うまでもありませんね。


「決めた」

ザンザスの追想を終わらせたのは、なまえの声です。
手には細い金色で縁どられたレターセットが握られていました。ナターレまでに届くかしら、という声にザンザスはどうだろな、とだけ答えます。
文房具屋を出て、車を停めた場所まで戻ります。妻の歩幅に合わせて歩くの慣れているつもりですが、どうにも時折置いて行ってしまうようです。数歩、と言ってもなまえにしてみればいくらか離れているのですが、先に進んだ所でザンザスは後ろを振り返りました。

振り返った先に、大きなモミの木がありました。天辺のすぐ下には大きなリボンが結ばれており、その上には星が鎮座しています。色とりどりのオーナメントボールには街行く人々が映っていました。誰しもが、幸福そうな笑顔を浮かべているのに、なまえだけが何かを思い出すように、ぼんやりとしていました。

腰を曲げた老婆と、まだ幼い少女を見つめながら。

「・・・なまえ」

ザンザスの声にはっとした妻は、置いて行かないで、と甘えたように駆け寄りました。
その様がわざとらしく感じたのはザンザスの考えすぎではないでしょう。





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