その手を守るクリームのように
ディーノとねむるが手を繋いだのは付き合う前のことだった。
彼女もきっと自分のことが好きだ、と彼は確信を得つつもどうにかもう一段階上に行けないか考えていた頃の事である。
彼がよく親しんだ街の一つ、大聖堂がそびえる港町を彼女に案内しつつも、その機会は恵まれなかった。ただの良いデート相手で終わったら嫌だが、かといって性急に事を進めて彼女に避けられるのも嫌なのだ。
そんな彼の杞憂も知らずにねむるは真っ青な海を望む、乳白色の大聖堂の写真を撮っている。
「ディーノ、こっち向いて」
彼女の方を見れば、最近買ったばかりだという薄紫色のケースをつけたスマートフォンが向けられていた。少しだけ首をかしげてみせれば、シャッター音が波打つ音に混ざりながら聞こえる。ねむるの掌にはペールグリーンのシャツに身を包んだ優し気なディーノが写っている。その瞳はカメラではなく、ねむるを見つめていた事を彼女は気付かないだろう。
「二人でも撮ろうぜ」
「二人で?」
タトゥーの入った方の腕でねむるを抱き寄せ、スマートフォンを彼女から奪った。
自分がいつも使うよりも高い位置に掲げられ、ねむるは慌てて髪の毛を整える。十分可愛いって、と言われたせいか、撮れた写真は彼女だけが困ったような照れたような表情をしていた。この流れのまま、手を握れば良いのにどうにも出来ない。
「あとで送ってくれ」
こういう事は問題なく出来るのに。
別にそういうのに照れる年齢でもないし、それより先の事などとっくに経験しているのにこんなにも躊躇してしまうのはいつぶりだろうか。ロマーリオが居れば自身の上司の青さに思わず笑うだろう。アドリア海は澄み渡るように青いが、彼の穏やかなキャラメル色の瞳は僅かな濁りを見せていた。
けれども、麗しい跳ね馬ディーノを可愛らしいと思っていたアドリア海の女神が彼に幸運の微笑みを投げかける。
その幸運は夕暮れに程なく近い頃、入ったカフェでディーノが手洗いに立った時に起きた。
「お嬢さん、ワンピースが良く似合ってるね」
「ありがとう」
「どこから来たの?」
ねむるは他愛もない会話に付き合っているつもりだっただろう。
勿論手洗いから戻ってくるディーノもそうであれば別に良かった。でも、彼は見てしまったのだ。ねむるに話しかけている男が自身の唇を何かに堪えるように噛んでいる様を。
ただのお喋り好きな男ではない、ナンパである。その仕草の意味を知らないのか、ねむるは気にせずお喋りを続けている。
「ねむる、行こう」
テーブルの上に置かれていた彼女の手の上にタトゥーの入った手が重ねられた。
はっとするや否や、ディーノはそのままねむるの手を握って店から彼女を連れ去ったのだ。お会計を退店すがらに済ませ、つり銭をそのままチップとして置いていく。
「変な事されなかったか?」
「・・・何もされてないよ」
「電話番号とかは?」
電話番号、と言われてもしかしてあれはナンパだったのか?とねむるは振り返る。けれども彼女はそれよりももっと気になる事があった。
「ディーノ、手が痛い・・・」
「わりぃ!」
遠慮がちに言われ、ディーノははっとした。自分のものだと伝われば良かったつもりだったが、暫く手を繋いでしまったらしい。それも、随分と力強く。まだ正式に付き合ってはいないとは言え、好きな女を口説かれる事は不愉快なものだ。繋いだ手を離すのは名残惜しいが、ねむるが嫌がっているかもしれないと、ディーノは手を離そうと力を緩める。
「これくらいなら痛くない」
彼の胸がチョコレートのように溶けだしたのは、アドリア海の女神が満悦そうに微笑んだからではないだろう。
好きな女に手を繋がれていても構わない、と言われたのだから。
恋人になる前のねむるを口説かれた事は嫌だったが、それよりもディーノは彼女と手を繋げた方が何よりも嬉しかった。
その晩、彼女から貰った写真を見ては頬を緩ませていたのを知るのは、窓から見えた満月だけである。