ジープスウィート
「おー、ナバイア」
ねむるは最近よくデートをしている男を目の前に静かにしています。
太陽の最も黄色の薄いところ、春一番の蜜蜂が取ってくるような金髪に、焦がしたキャラメルを透かした琥珀色の瞳を持つ男です。
ナバイアという名前は彼の携帯の画面でよく見かけるものでした。名前こそ読めれど、イタリア語はからっきしなので読めず、見るたびに心に雲がかかっていました。
今も今で少しもやもやとした気持ちにはなりますが、ねむるは自分は彼の恋人ではないからと、特に聞いていません。
ディーノの好きな店だから、店員がかわるがわる二人の座るテーブルにやってきます。
「いけない男だね、こんな美人と一緒なのに電話なんかして」
いやいや、と謙遜するねむるにウィンクをしながらこの店のママがサービスにティラミスを置きます。去り際にママがディーノの顔を覗きこんで何か言いながら去っていきました。
「わりぃナバイア、彼女といるからまた後で」
ティラミスの写真を撮ろうとしていたねむるが顔をあげます。彼女?あれ?と。
「ごめんな。ずっと追っかけてた仕事でさ」
「あ、大丈夫・・・」
「ここのティラミス美味いんだよな」
そう言ってティラミスを掬うディーノですが、綺麗にフォークから滑ってしまいます。でも、そんなのも気になりません。ねむるの頭の中は先ほどの言葉とナバイアの言葉でいっぱいなのですから。
ずっと追いかけてた仕事、だから仕事仲間?いやそれよりも彼女?とねむるはぐるぐると思考を巡らせました。美味しい筈のティラミスもなんだか味がしません。
「ナバイアは同盟ファミリーの幼馴染なんだ」
ぽつり、とディーノは声のトーンを落として話し始めました。なんとなくねむるが心ここにあらずな風に見えたのでしょう。彼の察しの通り、先程まで彼女の頭の中を駆け巡っていたものはたちまち止まります。
「俺と違ってガキの頃から後を継ぐって。イタリアよりアメリカが好きらしいから、今はラスベガスにいるけど」
「・・・仲良しなの?」
「昔からお互いの事知ってるし話しやすいよ。まあ、いい仕事仲間って感じだな」
ディーノはそう言いながらやっと掬えたティラミスを頬張ります。嬉しそうに目を細める姿は可愛らしく、もやもやとしながらも乙女心にくるものがありました。
「俺はナバイアとは付き合えないよ」
「え?」
「会えばわかる。あいつが帰国する頃に会うか、俺らがアメリカに行くタイミングで紹介するよ」
ナバイアという女が帰国して会うのはともかく、ねむるは旅行?と混乱していました。電話で言っていた通り本当にカップルになったという事なのでしょうか?
「あの、ディーノ」
「ん?」
「私達って、付き合ってるの?」
エスプレッソは溢さずに飲めたようです。質問しながらも安堵しますが、今度はディーノが訝し気な表情をします。
「・・・俺はねむるの恋人だと思ってたけど」
「えっそれって」
「ねむるは俺の彼女だろ?」
ディーノはさも当然のように言いました。確かに、手は繋いだりもしましたし、彼の部下にも会いました。彼から貰うテキストメッセージでも、彼はねむるのことを愛称で呼んだりと随分甘いものでした。それだけで何の発展もない異性もいたので彼女にとってはいささか信じがたい、夢を見ている様な気持ちでした。
「じゃあキスしてもいいよな。俺はねむるの彼氏だし、ねむるは俺の彼女だ」
食事を終え、狭い石畳の階段を上っている時です。繋いでいたねむるの手を引いてディーノは彼女の瞳を覗き込みます。
小さな星々が輝く夜空の下、太陽の女神の求愛から逃げてきた星の王子様の様に見えました。たっぷりと太陽の光を吸ったはずの彼のペールグリーンのシャツも今は静かに眠っています。
「駄目って言ったら?」
「・・・頬っぺたにする」
少し困ったようにディーノは笑い、空いた方の掌を上に向けながらそう答えました。
「じゃあ、だめ」
ふふ、と今度はねむるが笑います。ディーノはなんで!と言いたげな顔をしてから、彼女の頬に本当に口づけをしました。小気味良いリップノイズが鳴り、ねむるは楽しそうに笑っては身をよじってディーノから逃げようとします。勿論、ディーノがそれを許すはずもなく、ねむるは捕まってしまいました。
キスをするかしないか、そんな二人を見守るのは古めかしい街頭しかいません。
その街頭もせっかちなのか、ディーノを急かすようにカチカチっと瞬きをします。
「俺は本当にねむるのこと好きだけど」
腰にしっかりと回された腕は力強く、簡単に逃げれそうにもありません。
彼とせめてもの距離を取ろうとしているのか、ねむるの手は胸元にあります。
「私、あんまり経験がなくて」
おずおずとねむるはディーノに自身の事を告げました。
「まだ、男の人と、そういう事もしたこともなくて」
勿論男女が肌を重ねること言っています。
彼女の胸元にあった筈の手はいつの間にか口元までに上がっており、さながら何かに祈っているようでした。なんとなく心臓が強く脈打っているのは目の前にいる男がハンサムだから、という理由ではないでしょう。
ねむるは落ち着きなさげに手をすりあわせ、顔を横に向けようとしました。
「いいよ、ねむるのタイミングで」
「えっ」
「良いって言うまで待つよ」
ディーノはねむるの両手を取り、重なり合った彼女の指の上に口づけを落とします。
「・・・ありがとう」
少し真剣な空気になり、ディーノもそう告げられた後ですから、静かに彼女の手を繋いで帰路へと足を進めます。次はどこに行くか、何をするかと話しながら歩くには帰り道はあまりにも短く、あっという間にねむるの家についてしまいました。
「じゃあ、また来週」
「うん、ありがとう」
ねむるの手を離し難そうにディーノは力をゆっくりと緩めます。ここでキスをしてもいいのか、頬にだけして帰った方が彼女への心証は良いのか、柄にもなく考えてしまっているのです。
「ディーノ」
「ん?」
「キスだったら、本当は大丈夫・・・」
ぱあ、とディーノの瞳に光が差し込みました。決してねむるの玄関の灯りのせいではないでしょうか。太陽の女神にとっては喉から手が出る程に、気が狂いそうなくらいに欲しい瞳の輝きです。きらきらと小さく可愛らしい星がいくつもディーノの瞳に輝いては、愛おしそうにねむるを見つめます。彼女を抱き寄せて、嬉しそうに微笑んでから触れるだけの可愛らしい口づけをねむるへ落としました。
それはそれは野原でけなげに胸を張る可憐な小花を、そっと摘まむような口づけだったのは言うまでもありません。
何度かそれを繰り返したあとの帰り道、夏の夜の月の匂いに包まれたディーノの胸は幸福感で胸いっぱいだったそうな。