手紙を受け取った彼女の顔を見ることは出来ない。反応を知ることもできない。それでもザンザスは気にせずに手紙を書き続けていた。
このご時世に手書きの書類か、と鼻で笑ったが手紙を書く自分にも疑問を抱く。
『ねむる
鐘の音が聞こえても鐘の元へ行くには暗すぎる』
クロスターターを作るつもりだったらしい。雪だるまの絵が描かれたテーブルランナーの上に置かれたそれは、ザンザスの懐かしく穏やかな記憶を引き出した。
「ねむるちゃんが置いていったレシピを使ったんだけど、だめねぇ」
ルッス、とベルが小声で言ったがザンザスには聞こえていた。彼の前でねむるの事を話すのはあまり許されないのだ。あらら、とルッスーリアは首を傾げてキッチンに戻り、ベルも彼の後を追った。
まだ麗しい恋人だった頃、彼女がまだ元気であった頃、焼き菓子の香りがキッチンからよく立ち込めていた。クッキー、マフィン、パイは勿論ケーキだって。ねむるは何でも作ってはザンザスに食べさせた。彼の心の底に巣食う暗くて重いものの存在を知らない頃だ。彼女に向けた所でどうにもならないとはわかっていたのに、彼は彼女に向けずにはいられなかった。何かと理由をつけては彼女に激しく癇癪を当てることもあった。抑えきれない怒りをそのまま向けては、彼女が泣き出して、慰めれば良いものの自分を酷く責め立てられているような気にもなったのだ。
『俺のせいか』
何度そう言ってねむるを困らせただろうか。キッチンによく立ち込めていた甘い香りはすっかり地に落ちて、淋しげに銀食器が光るばかりとなった。
赤い実をなした柊が周りに敷かれている、クロスターターになる筈だったジャムパイにザンザスは手を伸ばす。どれが本当のクロスターターなのか、ジャムパイなのかザンザスにはいまいち今も昔もよくわからない。それでも確かに、自分はキッチンに立ち込める甘い香りを心地良く思っていたのを思い出した。