「ザンザスさんだめ、だめ」
暗く深い森の中だ。木々に色がついている筈なのに、木々は真っ黒に染まり二人を見つけ出そうと差し込む太陽の光を遮ろうと上へ上へと枝が伸びていっているようだ。きらは泣きながらザンザスの体を抱き締め、止めどなく溢れる血がこれ以上流れまいと手で押さえる。それでも血はどくどくと流れ、彼女の手を赤色に染めていった。ザンザスの顔から血の気が引いていく。血色の良さそうな唇の色が次第に薄くなり、紫がかるのも時間の問題だろう。
「だめ、ザンザスさんだめ、お願い、息をして、目を開けて」
辺りは恐ろしい程に静かで自分のすすり泣く声以外何も聞こえない。ザンザスの体はずっしりと重く、きらの膝の上に力なく横たわっている。空いた方の手で彼の手に触れるも手は随分と冷たくなってしまった。きらがどんなに声をかけてもザンザスは何も答えない。少しばかり苦しそうに息をするだけだ。がさり、と何かが動く音がし、きらは肩で頬を濡らした涙を拭う。
「だれなの?」
そう呼びかけても答えは返ってこない。もし、また、二人を襲う何かがやってくるというのなら絶対に彼を傷つけたくない、と思うもきらには何もできない。自分は無力だ、いやだ、と見えない敵を想像しては自分の力を恨めしく思い涙してしまう。
「きら」
「ザンザスさん?」
いつもの彼なら想像出来ない程に小さな声で呼ばれ、彼女は顔をザンザスの方へ寄せた。煌々と輝いていた筈の赤い瞳は今にも消えてしまいそうだ。まるで、遠く彼方で燃えていた星の命が尽きる寸前の、眩い光のようなのだ。
「・・きら」
「大丈夫、大丈夫、私どこにも行かないから、ザンザスさんも、大丈夫だから」
大きく乾燥し、冷たい手が彼女の頬を撫でる。その手に自身の手を重ね、離さないで、と言わんばかりに強く握った。ああ、どうして、どうして、どうして私の愛する人はこんな風になってしまったの。どうして、と大粒の涙が零れ、それに呼応するようにザンザスは瞳をゆっくりと閉じていく。
「だめ、ザンザスさんだめ、起きて、だめ、まだ」
赤い炎が消えてしまった。遠い彼方の暗い宇宙の夜空に飲み込まれてしまった。
「きら」
「えっ?!」
「どうした」
辺りが滲んでいる。自身の視界にうつっているのはどこも怪我をしていないザンザスだ。そう、きらは夢を見ていたのだ。全く縁起でもない悪い夢である。
任務を終えたザンザスが、彼女の部屋に忍び込みベッドにも潜ってしまおうと思った矢先の出来事であった。酷くうなされており、夢だろう、とソファーで少し腰をかけていた所、だめ、と聞こえたので彼女に声を掛けてみたのだ。
「・・・ザンザスさん、生きてる」
「はぁ?」
「良かった、夢だった」
きらは眉頭を大きく寄せ、また泣き出してしまった。珍しく彼女から両手をザンザスの方へと伸ばした。訝し気に眉を寄せながらも彼は彼女を抱き寄せながら、ベッドに潜り込んだ。
「どんな夢だった」
「・・・わかんない、なんか、暗い森にいて、ザンザスさんが攻撃されちゃって、二人っきりで、死んじゃうの」
支離滅裂だろう。けれどもきらのみた夢の内容はおおよそその通りで、詳細な情景はあっという間に薄れていってしまったが、彼が死にゆくことにショックを受けたのは間違いない。ザンザスの存在を確かめるようにきらはぎゅっと、彼に抱き着く。頭を彼の胸の中に埋めて、溢れる涙をそのままにした。
「それで泣いたのか」
「いやだもん、私、ザンザスさんが、死んじゃうの」
きらにとってみれば至極当たり前の言葉だった。けれども、ザンザスには随分とむず痒い言葉のようで、思わず眉間に皺を寄せたのに彼女は気付いていない。自分が消えゆくことで、そう思う人間がどれ程いるのだろうか、と今まで差し込まなかった場所に小さな光が漏れ出しているような感じがした。感じたことのない、小さな光である。部屋全体を照らすにはあまりにも小さすぎるが、十分彼には明るい光だ。
いつか、その光が強く自分の中で輝く事はあるのだろうか。そう思ってもザンザスにはわからなかった。自分の中でそんな光があるなんて、半ば信じがたいのだから。
それでも、今、確かに言える事は愛する女にそう言われるのは心地が良いということだった。安心感という単語を当てはめるには少し違う気もしたが、それに近しい感情かもしれない、と。
「・・・俺がそう簡単に死ぬと思うか」
「思わない、死なないで、置いて行かないで」
矢継ぎ早な言葉にザンザスは小さく笑う。笑って、自分でも驚くくらいに何故か穏やかな気持ちで、きらの額に口づけを落とした。自分よりも温かな体温に触れてきらは次第に瞼が重たくなってくる。ザンザスに抱き締められて、落ち着いてきたのだ。重い瞼に抗いながらも、涙を拭って、彼の肩越しに時計が目に入った。
「ザンザスさん」
「なんだ」
「今日、お誕生日でしょ」
「・・・そうだな」
忘れてた、と言いたげな沈黙である。彼にとってどうもよい、何の変哲もない一日である事に変わりはないがきらにとってはそうではないようだ。誤って開けてしまったクローゼットの中に彼の名前が記してある紙袋がその証拠である。
「私を一人にしないでね」
少し唇からはずれてしまったがきらはザンザスに口づけをした事が満足らしい。
「ああ」
お手本のような優しい口づけが今度はきらの唇に落とされた。彼の胸元に再び頭を埋めて彼女は目を瞑る。とくとくと逞しい獅子の心臓の音が聞こえ、きらはいよいよ瞼の重さに負けそうになった。ああ、良かった、彼が無事で。夢で。
「お誕生日、おめでとうございます」