いつだっただろうか、多分、きっと始めの方だ。きらに近づいたかと思えば離れていく、と悲しげに言われたのは。けれども今はきらの方が逃げていくではないか。ザンザスは逃げる彼女を追いかけようと走っているのに、どう急いでも、どう手を伸ばしてもきらは逃げていくばかりだ。彼女は自分より足が速いはずが無い、なのにどうして追いつけないのだという焦燥感と彼女に一体何が起きたというのだと不安に駆られた。
「きら」
何度後ろから名前を呼んでも彼女は見向きもしない。十分に見知った筈の屋敷なのに、屋敷の壁は恐ろしく高く廊下は恐ろしい程に長い。自分の知らない場所なのだろうか、いいや、そんなことはない、とザンザスは幾度も冷静さを保とうとした。
「きら、きら!」
彼女は振り向かない。息が次第に上がる。こんなのおかしい、一体どうしてだ、どうして彼女は逃げていくんだ。次第にザンザスの体に怒りの感情が回り始めた。きらには向けまい、としている彼女にはあまりにも強すぎる怒りである。約束を違えることになるだろうか?いいや、確かにこの感情は彼女に対する怒りだとザンザスは瞳に力が篭っていくのを感じた。きらの腕を引けば自分はすぐに壁に押し付けて怒鳴ってしまうだろう。きっと彼女は何も言えなくなって唇を噛み締めるだろう。
「きら、いつまでふざけるつもりだ」
返事はない。彼が一体何をしたというのだろうか。きら、ああ、ザンザスの心を乱して惹きつけてやまないきら。
「きら!!」
彼女の手を掴んだ筈が世界は一瞬にして真っ暗に崩れ落ちた。見知った屋敷はどこにもない。真っ暗の部屋に、寝室の扉の下からは白い光が入り込んでいる。そう、ザンザスは夢を見ていたのだ。
「・・・きら」
なんだ夢か、と笑えれば良いもののザンザスは嫌な鼓動を感じれずにはいられなかった。隣で寝ている彼女はいないし、これは夢ではないのか?と寝室を飛び出した。
「きら!」
「わっ!」
やはり夢である。目の前にいるきらは驚き肩を竦めたままだ。
「ど、どうしたの」
「何してた」
「え?」
「どこに行ってた」
「トイレです・・・」
「トイレなんか行ってんじゃねぇ」
ザンザスはきらの腕が掠めてしまいそうな気がした。それでも腕を引けば確かに彼女はいる。ああ、夢だ。確かに夢だった。
事態が飲み込めないまま彼女はザンザスにベッドに引き込まれ、向かい合うように抱きしめられたままだ。
「・・・私が漏らしたらどうするの」
「漏らすな」
足と足を強く絡まれる。暴虐武人な言葉、と思いつつも何だか心配せずにはいられなかった。きらはザンザスの顔を覗くも彼の瞳は既に閉じられている。彼はきっと彼女には言わないだろう、ザンザスにとってどんなに恐ろしい夢を見たかだなんて。
「ザンザスさん」
「なんだ」
「ううん、呼んだだけ」
きらはそう言って、ただ、ザンザスの胸元に顔を寄せることにした。