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なまえは硬くてごわごわしたティッシュを愛おしげになぞりました。走り書きではありますが、しっかりと数字一つ一つ読み取ることができます。本当なら春に、彼と別れる時に連絡先でも交換しておけば良かったのですが、何故だかどちらともその一言が言えませんでした。

支度を進めるザンザスの側で寝転ぶベルもまた、そう思っていました。過ぎ去った春、彼は付き添いでザンザスと一緒にこの街に来ていたのです。幼い頃からザンザスのそばにいる彼です、姿は猫になってしまっても記憶はしっかりと残っていますから、猫になる前のナイフを投げては遊んでいた時のことをよく覚えています。なまえを見つめるザンザスの瞳がいつもより輝いて見えた事を。きっとスクアーロやルッスーリアでも、言うまでもなくレヴィには気付けないでしょう。マーモンならわかるかもしれません。バニラの香りがする夜空、ヘリオトロープ色の夜空に浮かぶ小さな、摘むのも精一杯なくらいに小さなスパンコールのような星が、ザンザスの瞳の底から浮き上がっているように見えたのです。

「(オレもついていきたい)」

「部屋にいろ」

そんなザンザスに餌をねだるように可愛らしく鳴くも意味はありません。朝から落ち込んだり怒ったりと忙しい猫です。

「(大人しくするからさー)」

「だめだ」

「(ねーってば、ボスー)」

なまえを迎えに行くのでしょうか、車の鍵をポケットに入れます。ベルは先ほどからザンザスの足の周りをくるくると回りますが、器用に避けられてしまいます。体を踏まれてもおかしく無いのに、勇猛果敢な猫です。ルッスーリアがいたら間違いなく今にも抱きかかえられているでしょう。優しく抱きあげられるというよりかは、少しだけ大雑把に、ザンザスは少し苛々しながら、ベルを持ち上げました。前足の脇の下に手を差し込んだところで、ベルはやったー!と思いましたがぬか喜びです。そのまま奥の使われていない寝室に置かれて、扉を少しだけ閉められてしまいました。

「(ボス!!!)」

不満げな声がホテルの廊下へと僅かに溢れます。偶然居合わせた老婦人に猫ちゃんはご機嫌斜めなのね、と言われましたがザンザスは片眉を上げるだけで、ホテルから立ち去りました。

ザンザスが出かけてまもなく、雨が窓を打ちつけ始めます。ベルは部屋から抜け出し窓の外を眺めます。連なった水滴同士が交わり合う姿をついつい目で追っては可愛らしいピンク色の肉球がついた足で触ろうとしました。これも猫のさがなのでしょうか。しばし飽きるまで、ベルは窓辺に座り溶け合う水滴を眺めました。

しかし、水滴と水滴が溶け合うようにザンザスとなまえ達は寄り添えませんでした。

「あの男の子はいないのね」

なまえのいうあの男の子、にザンザスは少し戸惑います。彼女の言う男の子は紛れもなくベルのことなのです。猫になっているよ、なんて言える筈がありません。

「他の仕事があった」

嘘も方便、適当に答えればなまえはそう、と呟きました。
降りしきる雨のせいでレストランはいつもより暗く、温かな色をした照明は雨を吸い込んだように潤んでいるように見えます。まるで、海の底にある人魚の洞窟で灯火を揺らすような温かさです。そのせいかなまえは優しげで、とても柔らかそうに見えました。

「今回はいつまでいるの?」

「月末だな」

「素敵なバカンスね」

よかった、会いたかったの、と言えたらどんなに良い事か。なまえは自身の気持ちを言葉にできない自分が嫌になりました。春先に出会った砂漠の夜を照らすような煌々と燃え続ける星の瞳をした彼です。うっかり飲んだお酒に負けて、ベンチで眠りこけて目覚めた時はとても驚きました。心臓を射抜くような、見る者の心の底を映し出すような瞳を怖い、と思いました。それでもどうしてもまた彼の瞳を見たいという気持ちがなまえの中で芽生えたのです。だから、少しでも彼がいる間にカフェで話せたのは嬉しいことでした。

じっと見つめられて、そのまま口付けをされたら、なんて考えてしまった、とは言えないでしょう。
どうにか、少しでも、また少し、またちょっと、彼と話せたらと思いながら帰宅したなまえはなんだかシャンパンの中に飛び込んだようにぼんやりとしてしまいました。

「ベル」

「(あれ、ボスもうおひらき?)」

ザンザスはベルの質問に答えずため息をつくばかりです。

「(うまくいった?なまえ、シングルだって?)」

お腹を見せていた姿勢から戻り、手を洗うザンザスの顔を見ようと洗面台に華麗にジャンプします。麗しい毛並みのベルが曇り一つない鏡に姿を見せました。それでもザンザスは何も言いません。

どうしてかって?そりゃあ、ベルがティッシュを箱から全て取り出して部屋中をティッシュまみれにしてしまったからですよ。