03

なまえはなんだか頬が赤く染まる気がしました。二度と会えない、と思っていた、春の夜の夢のような人に再び会えたのです。眠り続けていたお姫様が愛する王子様と出会った時の感情とはまた少し違うかもしれません、それでもなまえはなんだかあの日の、どことなくバニラの香りがしそうな夜に、ヘリオトロープ色の夜空の下にいる気持ちになったのです。

「お仕事で、またいらしたんですね」

「・・・ああ」

さっきまでうずくまっていた猫はザンザスの足元にぴったりと寄り添い、動きません。本当はここにあまり仕事などないのですが、休暇もかねて、ベルの呪いを解くべく叶うことのなかった恋を叶えにやってきたとは言えません。ましてや今自身の足元にいる猫が実は人間だなんて、言えないことですよ。

春のわずかな滞在で、なまえとザンザスは互いの連絡先を交換せずに密かに交流をしていました。その時の場所の一つがこの、湖が見えるカフェです。十分素晴らしい景観なのですが、立地柄観光客はあまり多くなく落ち着いた場所でした。人の多い場所を嫌うザンザスは父親から物理的距離をもっと取りたい、という気持ちでこの場所に辿り着いたのです。そしてまさか、ここであの、眠りこけていたなまえと出会えるとは彼も思いませんでした。

というわけで彼は滞在している間に何度もここのカフェに訪れては朝の少しの時間だけ、なまえと他愛もない話を楽しみました。

「よくいらっしゃるんですね」

「たまたまだな」

これは嘘です。意図的にこの場所を選びました。春の夜にであったあの子がいればいいのに、と半ば願うような気持ちで足を向けたのです。二人の会話は遠巻きに見える湖の湖面をただようにゆっくりです。久しぶりに会ったせいで緊張しているのでしょうか、なまえは落ち着きがなく何度も視線をカフェラテに落としたりしています。勿論ザンザスもどうすれば良いのか、と内心焦っています。時間はあまりありません。いつもなら、一ヶ月もあれば、大体の女性は彼に恋をします。彼が親しくしてみれば、女性の心は不思議と揺らぐのです。

ディナーに誘う事くらいどうってことないのですが、なんだかその一歩が踏み出せません。断られることはないだろう、と彼の中に揺るぎない自信はあります。でも、どうやって誘えば良いのか、なまえには何か立派な口実がないとダメな気がしてならないのです。

「なまえ!」

「あ、え、あれ、なんで」

カフェに入ってきた男はザンザスと年が近そうです。やけに親しげになまえに声をかけてはチークキスをしました。男はザンザスにそれとなく挨拶をして、なまえの横に腰掛け二人にしかわからないであろう会話を始めました。テーブルの上にはザンザスとなまえのカップを遮断するように、その男の腕が無造作に置かれています。

「これから商談でさ、大口の取引が決まるんだ。その後は上海から顧客がきて」

男はペラペラと仕事の話をします。さっきまで足元で落ち込んでいたベルの尻尾が揺れます。テーブル下から出てきて、なまえとその男の周りを歩きましたが、決して穏やかな挨拶ではありません。小さく歯を見せてからまた一度ザンザスのそばに寄ります。

「(こいつ嫌い)」

どことなく不機嫌そうな鳴き声がしました。男はやっとその声でベルの存在に気付きます。

「かわいい猫じゃないか!俺のこと応援してくれるのかい?」

男は突然、手を出してベルの頭を撫でようとしました。勿論この気高い猫が許すはずなく、尻尾を大きくゆっくりと左右に振り威嚇します。

「だめよ、嫌がってる」

「そんなことないさ、なあ!」

ザンザスが不愉快そうに瞬きをしながらカップの淵に口をつけた時です。ベルが男の手を引っ掻いたのです。

「やめてあげて、もう」

ベルは全身の毛を逆立てて背中を丸めたままです。男はやれやれ、と首を振って見せてから、なまえの方へ向き直しました。

「なまえ、今夜空いてるだろ?デートしよう」

ザンザスの眉間の皺が深まります。この、声がでかくお喋りで、不愉快な気持ちにさせる男となまえの仲についてはわかりかねます。それでも、デートの誘いを目の前でされるのは心地良いものではありません。

「あなたほかに好きな子いるじゃない」

「その子はもういいんだ、なまえ!」

いまにもアモーレ!と言い出しそうな素振りです。なまえは男から距離を取るように姿勢を正しました。どうにも見るのは憚られたなまえの瞳を見遣れば、じめじとした灰色の雲が瞳に浮かんでいます。

「今夜は、」

「八時だ。家の前に迎えにいく」

「は?」

男がザンザスの方を睨みつけましたが、ザンザスの瞳に勝てる者がいるでしょうか。彼の目の前で中指など立てれますか?無理な話です。さっきまで喋っていた男は途端に口が重くなります。ベルは落ち着かないように尻尾を左右に揺らしたままです。

「そうか、じゃあ、なまえ、また連絡する」

男は逃げるように、わざと距離を取っていた彼女の気持ちも考えずにお別れのハグをして何処かに行ってしまいました。

「あの、ありがとう」

「カジュアルな服にしろ」

「え?」

「空いてないのか、夜は」

さっきと打って変わって、ベルの嬉しそうな鳴き声がカフェに響きました。