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「ベル」

夏の終わりを思わせる様な寒い雨の朝でした。
つい一昨日、激しく怒った後に疲れたのか深く寝入ってたベル、ザンザスもそうだと思っていましたが、実際は違うようです。机の上に置いた筈のささみは一口も食べられていません。水も飲んでいないのか、減っているようにも見えませんでした。
昨日ならまだしも、食事もしないで三日も経っています。

「ベル、聞こえるのか」

ザンザスの呼びこえに、ベルの小さな耳がぴくり、と動きますが力強さはありません。


「どうした」

指の背でベルの瞳をみようと、伸びた彼の前髪をかき分けます。ベル、と声を掛ければうっすらと目を開けました。でもその瞳はすぐに閉じられてしまいます。いつもの快活な様とは大違いです。ぐったり、という言葉がふさわしいでしょう。

ごろごろと空が鳴き始めますが、本当に雷なのかザンザスは疑問でした。
あの魔女が、本当は生きているのではないかと。恐れも何も知らない彼がここまで肝を冷やすのは珍しい事です。半ばあの魔女の言っていた事、呪いは嘘だと思っていたのですが、そうではないようです。魔女は本気でした。遠い空で雷が鳴り始めます。
魔女がこちらへやってくる為に、分厚い雲の上で支度をしているのでしょうか。
魔女が箒だけでやってくるとは限りませんから。

ベルが死んでしまうかもしれない、そうザンザスは思いました。

病院に連れていくべきか、でもベルは猫です。じゃあ動物病院か、と調べますが小さな観光街です。生憎病院もバカンスのようでやっていません。ザンザスは落ち着かなく手で顔を拭い、暫く座り込みました。ルッスーリアを呼んだところで、車で片道四時間もかかります。じゃあ、このまま、と思いましたがこの呪いが本当なら、とザンザスは恋人のなまえに連絡をしました。

「まあ、ベル」

なまえは部屋に着くなり、ベルが眠っているクッションの方へとしゃがみ込みました。
ベルの顔をみようと声をかけるも、ベルは力なく尻尾を一度だけ揺らしただけです。

「今日だけは許してね」

そう言ってベルの長くなった前髪を優しく分けて、彼の瞳を見ました。透き通った美しい惑星のような瞳でしたが、まるでその惑星が無くなってしまいそうになまえには思えました。ベルもなまえがやってきたことも、彼女に瞳を見られている事もわかっていましたが、尻尾を振る元気もなければ声をあげて鳴く元気もありません。ぼんやり、と彼女を眺めるばかりです。それでも、やけになまえの顔が悲し気に見えたのは間違いないでしょう。

「明日にはお医者さんも戻ってくるから。お父さんにお願いして電話してもらったから大丈夫、腕の良い獣医なのよ。ベルはラッキーだわ」

ザンザス以上になまえが取り乱していますが、なまえは自身を落ち着かせる様にザンザスに説明しました。うっすらと彼女の瞳が涙ぐんでいるのを彼は見逃しませんでしたが、なんと声を掛ければ良いかわからず、見なかった事にしました。
それからなまえは近所のおばあさんに借りたの、と言ってスポイトやら哺乳瓶やらを取り出します。ザンザスがメッセージで水も飲んでいない、と連絡していたからです。

「お願い、お水だけでも飲んで」

なまえは口を開けようとしないベルの口を無理矢理に開けて、グラスに入れた水をスポイトで吸い上げて飲ませます。そのグラスじゃないとベルは水を飲まない事をなまえは知っていました。力なくほんの少しだけ飲んだ事に安堵し、微笑み、ザンザスに声を掛けようとしますが、なまえは口を結んでしまいます。

ザンザスがいつもよりも不安げに見えたからです。
そもそもいつも、感情の揺れ動きがわかりませんし、彼がどれ程その猫を愛していたのかも知らなかったのです。愛していた、というべきか、大事な戦力というべきか。深淵はザンザスにしかわかりませんが、なまえには飼い猫を案ずる心優しい飼い主に思えました。

だから、彼に安心してもらおうと大丈夫よ、と声を掛けました。

「ああ」

なまえの目を見ずにザンザスは相槌だけ打ちます。頬杖をついたまま、扉をあけ放たれたベルの部屋を見つめたままです。その瞳の中にはなまえの存在などありません。
ベルが居なくなったあとの事を思案しているのでしょうか、それ以上の感情がザンザスには渦巻いていましたが彼は何も言いません。

「・・・心配ね」

トートバッグからブランケットを出しながらなまえは言いました。取り出しているブランケットはベルが大好きな彼女の家のブランケットです。
こちらの方に視線を向けてくれないかもしれない、と思っていた彼女ですが、ザンザスはゆっくりと彼女の方に目線を合わせます。空に掛かっている分厚い雷雲と分厚いくらいにザンザスの瞳の赤い星雲は分厚く瞳を曇らせていました。

「大丈夫よ、ベルだもの。明日診てもらって、元気になるわ。またすぐに私達の邪魔をするわ。洗い立てのあなたのシャツの上に寝てしまうかも」

なまえの励ましにザンザスは思わず小さく笑います。

「・・・そうかもな」

殆ど同意の言葉だったかもしれません。ザンザスにとっては自身の胸中を明かしているようなものでした。一人で感情を鎮めようと思っていましたが、どうにも、なまえの前ではうまく行きませんでした。特に今日は。ザンザスの返事に彼女も微笑みます。

「大丈夫よ」

ソファーに腰かけるザンザスに、ひじ掛けを間に挟んでなまえは背を屈めておまじないだと言わんばかりに、彼の額に口づけを落としました。
彼の不安が少しでも晴れるように、心が晴れるように、と。優しい優しい、彼の心を思い遣るささやかな口づけでした。
瞬間、ザンザスはなんだか目の前に小さな小花が降り注がれていくような気がしました。
固まっていた心臓の下、隅っこがじわじわと柔らかくなっていく気がします。鈍い動きをしていた血液がゆっくりと流れだしました。

「私もいるから」


そう言ってなまえは、ブランケットを持ってベルにそれをかけてやります。自身の大好きなブランケットだとわかったのでしょうか、ベルは小さく鳴きました。なまえは大丈夫よ、と言ってそのままベルの顔が見えるようにその場へ横になります。

「元気になって、美味しい物食べましょう。しょっぱいのは駄目よ。
秋が来るから、森のお散歩もしましょう」

大丈夫だから、という優しい子守歌のような声にベルは再び瞼を薄っすらと開けます。なまえは大丈夫、と言いながらベルの額を人差し指で優しく撫でて、答えます。
そして、彼女の手と重なるようにザンザスが同じようにベルの額を撫でました。
なまえが横になったベッドにザンザスもやってきたのです。後ろから彼女を抱き締めるように身を寄せ、ベルの様子を見守る事にしたのです。

キスはしたよね、と言いたいベルでしたが、声が上手く出ません。でも、声が出たとしてもベルは何も言えなかったかもしれません。
彼の知る限りで一番、穏やかそうなザンザスがいるのですから。それも、なまえという恋人のおかげで。

ボス、やっと好きな人がわかったんだね、なんて。言った日にはげんこつで済まされませんが。