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「ねえ、ベル。私って可愛くないかしら」

今日も今日とてトラムを乗り継いでやってきたベルが顔を気だるそうに上げます。
猫のままであること、一向になまえとザンザスの関係に進展が見られないのに苛立っているせいか、尻尾は不穏に揺れます。その気持ちとどこかつながるかのように、なまえの顔も杞憂うそうだったのです。

彼女も彼女で初めての恋に戸惑う少女という年齢でもありません。
なんとなく恋の流れはわかっているのですが、どうにも、ザンザスとはその流れに乗らないのです。彼には十分心を開いているつもりです。でもザンザスはそうではなさそうなのです。焦る必要もないけど、と思うももう間もなくザンザスはバカンスを兼ねていた、ここに滞在する仕事を終えて帰ってしまうのです。
相思相愛!と自信をもって言うには難しい状態で、このまま物理的な距離のある恋愛を始めるのは嫌でした。

「キスくらいしてくれても良いのにね?彼、キスもしてくれないのよ」

不満そうにふう、とため息をつけば自分からすればいいじゃん、とベルは鳴きます。

「シャイな人じゃないでしょ、ザンザスは」

なまえの言葉にまあ、そうかも、とベルは思案します。本当は他人の悩み事などどうでも良いのですが、こればっかりは彼女の話を耳を寄せたくなります。だって彼が人間に戻る為にはなまえからの口づけが必要なのですから。先程までの気だるさはいずこへ、姿勢をしっかり伸ばしては三角の耳をピン、と立てて彼女の顔を真剣に見つめます。

「随分と前髪が伸びたのね」

長くなった猫である彼に手を伸ばしますが、ベルはその手を軽くはたきました。

「あら。いやなの?」

なまえには嫌だ、と言わんばかりに聞こえたかもしれませんが実際そう言っているのです。人間の時と同じように前髪を伸ばした方が落ち着くのかもしれません。がっかりしたように足を組んで見せたなまえですが、ごめんね、と優しく彼の耳の間を撫でました。

ふと、とっくに忘れた筈の昔の事をベルは思い出します。
酷く苛立たしく、今と同じように、もっと強くかもしれません。ある女の手を叩いた事を思い出したのです。それも多分、ザンザスが当時最も親しかった女でした。
赤い色のフレンチネイルをベルに自慢げに見せてきたことも思い出します。

『これ、ザンザスの瞳をイメージしたのよ』

うふふ、と笑う女は大層妖艶でしたが、ベルはその女の事を別に好きとも何とも思っていなかったので、適当に言葉を返しました。

『そういえばあなたって目が見えないのね?前髪のせいで』

そう言いながら女がベルの前髪を触ろうとします。親しくもない女に自分の顔を、いくら髪がかかっているとはいえ目の方を触れられるのは非常に不愉快でした。

『触んじゃねぇよ、ババア』

ザンザスの瞳を模したという手を強く叩けば、可愛くないわね、と言い捨てて女はどこかに行ってしまったのです。ベルに取ってみれば思い出すだけで不愉快な女です。ただでさえ揺れていた尻尾が、余計不穏に動いているのはそのせいです。

「ご機嫌ななめね、怒らないで」

なまえのせいじゃないよ、と言えたらどんなに良かったことか!
彼は今人間の言葉を話せないのです。だから、せめてもの、と精一杯機嫌を整えて小さく鳴きました。けれどもその事は伝わらず、なまえは申し訳なさそうにザンザスにベルを返します。

「私がベルの前髪を触ろうとしたら怒っちゃったみたい」

ザンザスは怪訝そうな顔をして、なまえのトートバッグの中にいるベルを見ました。
ベルは違うんだよ!と抗議の声を上げますが、誰も彼の言葉はわかりません。

「・・・腹でも減ってんだろ」

違う!違う!と更に大きな声で鳴きますが、ザンザスに荒々しく抱き抱えられてしまいます。それのせいなのか、ベルが人間であったことを忘れつつあるのか、大きく彼の可愛らしい腕が動きました。その拍子になまえの袖から出ていた肌をひっかいてしまいました!

なまえは驚き、目を見開きます。じわりと滲む血を見てベルは益々苛立ちます。こんなの嫌だ、と。何で自分は猫になってしまったんだ、誰もわかってくれない、嫌だ、嫌だ!とさっきよりももっと、大きな声で鳴き始めました。

「どうしましょう、この子気が立ってる」

なまえの慌てる顔が余計にベルを苛立たせます。ザンザスにこそ牙を向けないのに、彼女には猫とは思えぬ形相で激しく威嚇しているのです。自分は猫なんかじゃない、人間だ!と言えたらどんなに良い事か。本当はなまえに飛びかかりたいくらいの気持ちです。でも、開けたトートバッグの生地に爪が引っかかって上手く動けませんでした。ザンザスにとっては幸いです。
怒ってしまった猫のベルをトートバッグから何とか引きはがして、誰も使われていない部屋の一室に閉じ込めてしまいました。

扉の向こうから怒り狂うベルの声が聞こえますが、ザンザスはため息をついて一瞬だけ立ち尽くします。そして、扉から手を離して、なまえに怪我を見せるように言いました。


そしてこの日を境に、ベルはぐったりとお気に入りのクッションの上から動かなくなってしまいました。