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一体どうして、何故、と目の前で流れる軽やかなジャズの演奏も耳に入りません。
それは愛と呼ぶ、とまだ若いのにやけに渋い声を持ったシンガーが歌い上げますがザンザスはそれどころではないのです。大きなため息を吐いて、その場を後にしました。時は涼やかな夏の夜です。湿気も無く風は心地よく、誰しもが酒を片手に庭へでたがる夜でした。マフィアの世界にも訪れた夏、社交を兼ねて殆どの人間がバケーションがてらここにきているのでしょう、頭を空っぽにすべく音楽に酔いしれています。
悩ましげな表情をこさえたままザンザスは1人で眠るにはやけに大きな部屋へと戻りました。
「(ボスお帰り!あの子はいた?)」
しかし部屋に入れば、にゃおん、と可愛らしい鳴き声が聞こえてくるではないですか。
「いねぇ」
「(この街1番の社交場なのに?)」
「さぁな」
別にザンザスは元々動物を心を通わせる事が出来た訳ではありません。そしてベルも別に猫になりたくてなった訳でもありません。残念ながら、ヴァリアーの任務ばかりを邪魔していた命知らずで大胆な魔女のせいで猫にされてしまったのです。邪魔をされて黙っている人間たちが揃う場所ではないので、ザンザスの手によって魔女は麗しい姿を灰へと変えました。けれども彼女の執念でしょうか、苦し紛れでありながらもベルに呪いをかけたのです。
『赤い瞳を持つお前、この少年を猫のまま死なせたくなかったらお前が想う女と結ばれてみろ!お前は恐れている、心を明かすのを恐れている悲しい男だ。お前と違って優しい私だ、一月以内に女から口づけをうけろ。さもなくばこの少年は私と同じように灰となる。あの世までティアラを持ってこい、馬鹿者』
「(でもなまえはこんな大人数の場所嫌いそうだよね、明日またカフェに行ってみるとか?)」
よく喋る猫です。ベルはザンザスの足元をくるくると回りながら話します。側から見れば、側からといっても周りには誰もいませんが、ただ猫が鳴いているようにしか見えません。しかし、ザンザスには猫であるベルの鳴き声がわかるのです、何を話しているのか!
「静かに飯でも食ってろ」
ザンザスはベルのおしゃべりを遮るように浴室の扉を閉めました。扉を引っ掻く音が僅かにしますが彼は相手にせず、シャワーを浴びます。温かな湯を頭から被れば次第にガラスが曇っていきました。シャワーヘッドをつかんで、顔に勢い良く当てます。猫となったベルがみたらゾッとする光景でしょう。
ワックスはお湯で流されていき、前髪がおりてきます。その前髪を後ろへとかき上げたところで何故か想い人であるなまえの姿が浮かびました。
マフィアの世界に似つかわしくない、ホワイトレースのような子です。出会いのきっかけは春の始まり、この別荘地の名士である彼女の父親を招いた夕食会のことでした。
ザンザスにとっては別荘地ですが、なまえにとっては生まれ育った故郷なのです。
9代目の付き添いできた出張で、出たくもない懇親という名の夕食会に出なくてはならない、というのが彼の気持ちでした。
小さな立食パーティーでしたので、参加者の顔はすぐにザンザスは覚えてしまいました。けれども知り合いなどどこにもおらず、そもそも彼が懇親のばなどには殆ど出ないのでいた所で、という話になりますが、暇をつぶそうと庭へ出た時でした。
庭にある唯一のベンチを占領し寝ているなまえがいたのです。
こんな無防備な人間をザンザスは見たことがありませんでした。確かにここは非常に治安の良い地域です。女性が夜遅くに出歩いていても問題ないくらいに。とはいっても、こんな場所で寝るのはどうなんだ、とザンザスは彼の職業柄ゆえに、その神経を疑わずにはいられません。
『・・・ごめんなさい・・・』
僅かに青みがかった白い三日月のヴェールを浴びていた筈のなまえが目を覚ましました。少し寒い、と思ったからです。しかし、寝起きの彼女が見るにはいささか威圧感のある男が目の前に立っていました。今にも叱責されかねない気がして慌てて彼女は謝ったのです。でも、ベンチに横たわったままだというのはまずかったかもしれません。
『座りたいですよね・・・』
なまえはいそいそと起き上がって、ベンチの半分をザンザスに座るように促しました。
『誰が座りたいと言った』
きっとスクアーロだったら殴っているでしょう。ザンザスにとっては調子の外れた態度に見えてしまい、苛々します。
『目の前に立っていたので』
馬鹿か、という言葉をグッと堪えてザンザスは踵を返しました。変な女、それが彼の印象でした。二度と人生で交わることのない女だろう、と思ったのに妙にザンザスはなまえのことを思い出してしまうのです。
顔のそばに置かれた手は自分より小さく、閉じた唇はさくらんぼのように艶めき、頬は絵画に出てくる天使の頬のように染まっていました。後日聞いたところによると、うっかりテキーラを飲んでしまったからだと言います。そして、ワンピースの裾から伸びた足は月明かりの白粉が塗され、見てはいけないものを見たような気持ちになりました。
あの子の全てを剥いでみたい。
そんな気持ちがザンザスの腹の底に炎つけたのです。