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結局、口づけはされませんでしたし、することもありませんでした。ただただ、なまえの背中を摩ってやり、ザンザスには珍しく彼女の頬に口付けて暴れるベルを抱えて帰路についたのです。

別に彼女の口づけを待っている訳ではないのですが、どうにもこうにもなまえの瞳を見つめるとたじろいでしまう自分がいるのに驚いていました。ベルは不満で仕方がありません。彼の思い通りにいかないのも、魔女にかけられた呪いにも不服であれば、いつもと様子の違うザンザスにも珍しく苛立ちました。

「静かにしろ、ベル」

何かを訴えるような鳴き声をザンザスは制します。尻尾は不穏に動き、瞳には心穏やかにではない色の雲が滲んでいました。この猫が、ベルが焦っていることはザンザスもわかっています。彼も彼で焦っていない訳ではありません。日付はそうありません。なのに、どうにも行動に移せないのはどうしてでしょうか?

ザンザスはため息を吐きながらシャワールームの中へ消えて行きました。

『何か気になるの?』

なまえが彼を見上げて質問した瞬間を思い出します。彼女の家から離れる前の時です。ザンザスはなまえの瞳をじっと見つめ、黙りました。彼女にとってみれば数秒の時でしたが彼にしてみれば随分長い沈黙を生んだような感覚でした。そして、答えを隠すように彼は彼女の頬に、それも唇の近くに口づけを落としてから、ご機嫌斜めなベルを持ち上げて帰路に着いたのです。

熱すぎる湯を頭の上から被り、整髪料を落とすように少し乱暴に手で髪を梳かします。
目に入らないように目を瞑れば、あの魔女の言葉が思い浮かびました。

『お前は恐れている、心を明かすのを恐れている悲しい男だ。』

決して遠くない筈の過去なのに、ついさっき言われたわけでもないのに、妙にザンザスの脳裏に魔女の声がこびり付いたままです。魔女の言葉を、声を思い出してはザンザスは酷く苛立ち脳内で幾度も彼女の顔を手で覆っては灰に変えていました。

悲しい男だ。

悲しい男なのかはさておき、確かに彼はなまえに心の内を見せるのに躊躇しています。家を出る前に言われた言葉に頷いていたらどうなっていたのでしょうか?自分の気持ちを他人に伝えてどうなるというのでしょうか?ザンザスはシャワーを頭から浴びたままで考えました。

彼女に何ができると言うのでしょうか。勝利を得たあげくにベルを猫にされてしまった。それだけでも十分なのに、全く知らない魔女に心の内側を見られた気がしてザンザスは不快でたまりません。
あの言葉を思い出せば思い出すほど、なまえの姿は濁って炎の威力は増しました。
どんどん大きくなって、彼女を覆い尽くす程です。けれども、その炎にうっすらと見覚えのない小さな星が散らばっているように見えます。チカチカと、炎に星が紛れ込んでいます。ザンザスが溢した涙でしょうか。彼に聞こえたら怒られてしまいますね。彼の瞳に閉じ込めた赤い星々が溢れたのではありません、なまえの瞳の輝きが彼にはそう見えていたようなのです。

どこかで見たあかりだ、どこのだ、と記憶の海をかき分ける必要はありません。今夜、彼女が彼を見つめた時の瞳の灯と全く同じでした。月明かりに照らされた、海の上で静かに佇む真珠のような優しい灯です。


「あのクソアマ」

なまえのことではありません。
確かにザンザスは彼女に心の内を見せるは嫌なのです。握り締めた拳を見せるだなんて、その開いた手に何を乗せられて、どんな物で刺されるかわかりませんから。知らず知らずに背中は硬く強張り、手に力が篭ります。なまえに好意を抱いているのは確かです。確かなのに、彼女に心の内は見せたくないのです。ましてや、口づけだなんて。

心臓の底で炎が燃えます。心の中は荒れています。でも、どうして、なまえの瞳を、なまえを思い出しては目を瞑りたくなってしまうのでしょうか。